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おりおりパターン処理のまき

たぶん、普通に生きていても憂鬱になることはあると思うが、皆はそれをどうやって克服しているのだろうか?

月の半分は陽気で、半分は陰気になりがちな私の暮らしでは、陰気な時は自分にころされないか割と本気で不安に思っている。
小学五年生のときにしんでしまいたいと考えてから、早10年以上が経つ。その間、絶えずシは私の興味を引き続け、私の心臓からつながった糸でその縁へと、力はごく弱いが、途切れることなく引いている。
皆もやっぱりそうなのだろうか?だとしたら、その糸の力に抵抗し続けることに疲れはしないか?

だから私は、私よりも年上の人に対して、年上で生きているということだけで尊敬する。それだけ長くシに抵抗している。疲れそう。でも、疲れて手を休めたら、文字どおり終わりなのだ。

果たして、目もくらむほどの高さのビルの鉄骨の上に立ったとき、落ちたらしぬと分かるのに、身を投げ出したい衝動に駆られないだろうか?
現実では、ビルの鉄骨よりも手軽にシの縁を見られる。それは電車の進入時や、行き交う車の軋むタイヤや、眺めの良いベランダなどにも存在している。
昨日も今日も明後日も、ずっと、寿命でしぬまでの長くて短い間、私は私にころされないように抵抗し続けなければならない。
わたしはしぬのがこわい。だから、疲れても手を休められない。休めたらしんでしまう。こんな風に毎日を過ごすことに疲れてきてしまった。でも、しにたくない。
家族も友達もどうにもできない。例え理想の恋人がいたって救えないだろう。だって、君がいま話しているのは、私をころす私だろうか?それとも、しにたくないちっぽけな方の私が話をしているのか?
でも、ころす私の中にもきっと、ころす方ところされる方が内包されているのだ。きっと君には分からない。君は私を理解できない。私以外の誰も私を分からない 。それが良いとか悪いとかではない。私しかいないなら、善悪は存在しないのだ。
そも人間は、自分以外のものを認識できない。例え君の五感が正常でも、いつでも自分というフィルタを介して世界がある。
それは、世界なんてないのと同義だ。

私はいつでも気づきたい。
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