ウォルト・コワルスキー(クリント・イーストウッド)は偏屈な男だった。朝鮮戦争で勲章を得た昔かたぎの男には許せないことが山ほどあった。
妻の葬式にヘソ出しで参列する孫娘、祈りの言葉を下品なジョークに変えてみせる孫、近所はウォルトが“米食い虫”と蔑むアジア系移民で溢れ、白人の若造は黒人気取りでラッパーの格好をして見せる。アメリカの精神は失われた。不満を募らせるウォルトは、日々悪態をついて過ごしていた。
そんな折、ギャングに唆された隣家の息子タオ(ビー・ヴァン)がウォルトの愛車を盗みに入る。銃を手に撃退したウォルトだが、この一件を機に隣家との交流が始まった。最初は頑なにアジア系移民を拒むウォルトだが―…。
イーストウッドが最後の俳優業に選んだヒューマンドラマ。

非常にいい映画でした。観に行って良かった。
イーストウッドらしくもあり、イーストウッドらしくない。そんな映画。
今までの彼の俳優としてのキャリアを見ると、このウォルト・コワルスキーは異色のキャラクターと言えます。
しかし昨今の監督としてのキャリアを見ると、このキャラクターはとても彼らしいキャラクター。

ウォルト・コワルスキーは私たちに、私たちが“何を美化しているのか”を教えてくれます。
彼はなんだってできた。正義の名の元に、男という名の元に、彼はどんな別の方法だって選ぶことができた。でも彼はこう言う。

「人を殺す気分が知りたいか?最低の気分だ」

そしてこう続ける。

「それで勲章などなお悪い」

物語の終盤、緊急灯に照らされたタオの胸にウォルトの勲章が下げられています。
それは“本当に勲章を贈られるべき男”を示しているのです。
買い物袋の底が破れて果物をぶち撒けてしまった女性に「手を貸しましょうか」と声をかけるような、女性の仕事である庭仕事を手伝うような、年配者を尊敬し彼らから多くを学ぼうとするような…。そして、復讐をしたくてもできなかったような、そんな男にこそ、彼は勲章を贈るべきだと感じたのでしょう。
それをタオやスーや(または彼らにも)、教えるために胸を貸した。

ウォルトは作中彼らの行動に対して「恥ずかしくないのか」と問いかけます。その答えは返ってきませんが、彼らは動揺していました。いつかその言葉から学ぶ日が来るのでしょう。

私たちは、私たちが何を美化しているのか、彼の行動から学べると思います。
私たちが愛や、友情や、正義や、または道徳観で何を美化しているのか。何を誤魔化しているのか。
それは17歳の少年の死体を麻袋に詰めて弾避けにする(できる)こととさして変わらない。
私たちはそろそろその事実を、受け入れていかなくちゃいけない。考えていかなくちゃいけない。そこで初めて、より良く進んで行けるのだと思う。

ここまでする必要はないと思うけどね。そこまで頑なに、拒まなくてもいいと思う。覚悟と信念のある上でなら、それで痛みを引き受けられるなら、別の解決法を取っても良かった。
でも彼は考えて、この決断を下した。それは誰にでも簡単にできることじゃなく、彼があの状況だったからこそできたと言え、みんなに“こうしろ”と押しつけられるものじゃない。それでも潔く勇敢な決断だった。彼の行動はタオに、どう生きるべきか、教えてくれただろう。


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