今回はローレン・シュラー=ドナー製作、『ラジオ・フライヤー』を見ました。ラジオ・フライヤーとは作中に出てくるワゴンの製品名。その赤に、子供は希望を見ます。
主人公の兄弟は母親の再婚で新しい父と暮らすことになる。しかしその父は、家族に隠れて弟のボビーを折檻していた。母を悲しませたくない、と暴力を秘密にする兄と弟。次第に暴力はエスカレートし、疲弊した弟は“ラジオ・フライヤー”に夢を託すのだった―…。

うーん、これは何かな…。悲しいし切ないけど、底抜けに悲しいってわけでもなく、希望や優しさに満ちている。でも解釈によっては、底抜けに悲しい話になる。
これを単純にファンタジーととってもいいけど、それにしてはあまりに突飛で現実味がない。子供だけで組み合わせた間に合わせの飛行機が飛ぶのもおかしいし、フィッシャー青年がすべてを理解しているというのも変。…だとすると、私にはファンタジーではない別の解釈が自然ですんなりと受け入れられる。
その解釈は“死”。

「こっくりさんも薬は効くと告げた。でも手遅れだとは告げなかった」

「それはつまり逃避行を意味した。暴漢の目に触れなければ追われることもない。手の届くところにいなければ傷つかなくてすむ」

この辺りから、私はそう受け取りました。
ある意味で逃避行。ある意味で未知の世界。あのフライヤーが飛ぶとは思えないし、それであの斜面を下れば、死ぬこともある。むしろその可能性の方が高い。フィッシャーは幸運だった。

この解釈をすると、この映画はとても悲しいものになり、冒頭のトム・ハンクスのセリフも深い意味を持ってくる。
過去は人の心の中にある。真実は物語の中にある。こちらがどう解釈しようと、事実がどうであろうと、トムが語った物語が真実なのだ。