―― ある、静かな新月の夜。
東条は部屋に訪ねてきた人物……
基、彼が部屋に戻ってきたときにベッドの上に座っていた人物を見て、驚いた顔をした。
「フォル、殿……?何故此処に居られるのだ?」
いつもはスターリンの部屋にいる彼。
それなのに今は、当たり前のように東条の部屋にいるのだ。
フォルは東条がドアを閉めてベッドの方に歩いてくるとその手を引いた。
「明日、帰っちゃうんでしょ」
「あぁ……明日のうちに皇御国に帰らねばならぬ」
頷く東条が視線を向けたのは綺麗に纏められた荷物。
「……遠いね、君の国は」
ぽつり、と呟く堕天使。
東条はまじまじとそんな彼を見つめた。
―― 不思議な……
不思議なものだ、と。東条はそう思う。
元々は、彼は敵なのだ。
けれど、たった一度、“あの時”体を預けた胸元が暖かく、優しくて。
そうだ、きっかけはすべて……
「何を考えてるの?異国の騎士様」
不意に飛び込んできた声に驚く。
顔をあげれば不思議そうに自分を見つめる蒼の瞳……
「否、すまぬ……何でも、ないのだ」
“そう?”と首をかしげるとフォルはそれ以上追求することなく、ひとつ溜め息をついた。
「じゃあ明日からは、“真面目な騎士様”か……否、君はいつも真面目だけど」
「そなたの目には、そう映るか……?」
東条はフォルを見つめ、問う。
フォルはこくり、と頷いた。
「うん。真面目で堅物。……もう少し肩の力抜いてもいいと思うよ」
そういって笑うと、フォルは東条の唇を自分のそれで塞ぐ。
軽く抗うのも、初めだけ。
形式上拒んでみても、すべて無駄。
いつしか彼の甘い口づけには慣れてしまっていた。
「ん、……ぅふ……」
それが過ちと知っていても、一度慣らされてしまった快楽には抗えない。
東条のくちから零れた甘い吐息に、フォルは目を細める。
「は、……ふふ、キスも随分上手くなったんじゃない?」
くすり、と笑う堕天使を見ているうちに、視界が滲んだ。
フォルの驚いた顔も、滲む。
「……何で泣いてるの、異国の騎士様」
ふるふる、と東条は首を振る。
何でもない、と言う言葉を紡ぐより先に溢れた涙に、きゅっと喉がしまる。
暫く驚いたように彼を見つめていたフォルだが……
―― ほら、おいで。
そういって東条を抱き締めた。
華奢な彼の体はすっぽりとフォルの腕の中に包まれる。
綺麗な黒い髪を撫でながら、フォルはふっと笑った。
「初めて、君にこうして触れた時も君は泣いていたね」
優しい声でいいながら東条の頭を撫でるフォル。
―― 嗚呼、そうか。
怖い、のだろうか。
東条は漠然と、思う
“彼”の訃報を聞いてから初の帰国。
それが、怖いのかもしれない。
“あのとき”と同じように彼に抱き締められ、思い出すのはあの日の負の感情。
後悔、悲しみ、悲痛……
何より、“何故自分じゃなかったのか”という思い。
それが胸を締め付ける。
あれから何日もたった、今でも。
理由も話せぬまま泣き続ける東条。
フォルはそんな彼を強く優しく抱き締めながら囁くように言った。
「大丈夫。僕が、抱き締めててあげるから……泣きたいだけ、泣いていいんだよ」
彼の言葉に、余計に涙が溢れる。
嗚咽を漏らしつつ肩を震わせる東条を見つめ、フォルは少し眉を下げた。
悲しみ。痛み。苦しみ。切なさ。後悔。
棄てたはずの感情ではあったけれど、その欠片は確かにフォルの中にあって。
今自分の腕の中で泣く彼が感じているそんな感情を理解することができる。
東条はなかなか泣き止まない。
それでもフォルは少しも急かしたり泣き止ませようとしたりはしなかった。
ただ、待つのだ。
彼の涙が、嗚咽が止まるのを。
苦しそうにしゃくりあげる彼の背を擦ってやりながら、
フォルは微かに溜め息を吐いて、いった。
「……異国の騎士様、普段あんまり泣かないタイプ、だよね」
答えがないことはわかっていたが、フォルには確信めいたものがあった。
実直で堅実でしっかり者。
責任感が強く、忠誠心に篤く……
そんな彼が涙を流すことは本当に稀であった。
強い者が見せる脆さ……
その美しさに、フォルは惹かれたのだから。
「す、まぬ……っ」
嗚咽混じりに東条は詫びる。
その謝罪が自分に対してであるとフォルは理解した。
だから小さく息を吐き……彼に問うた。
「何故謝るの?泣くこともすがることも罪ではないだろう……?」
―― 否、罪に思うのかもしれないな。
フォルは、思う。
彼の性格ならば、考え方ならば、自分を追い詰めるのかもしれないな、と。
ならば、というようにひとつ息を吐くとフォルは言葉を変えた。
「“人に”すがっちゃ駄目だとか泣いちゃ駄目だとか、思う必要ないよ。
僕は、人じゃない。堕天使だもの」
そう言って、フォルは笑う。
東条は少しだけ顔をあげる。
悪戯っぽく笑ってからフォルは東条をきつく抱き締める。
「僕に、“騙されて”いるんだって思えばいい。
頼りたくなんかないのに、僕の魔術にかかってしまったんだよ、君は」
そんなことを言う、フォル。
東条は知っている。
彼が魔術など使っていないこと。
けれど彼は、東条が誰か…或いは、何かにすがるための“理由”或いは“言い訳”を与えた。
“自分のせいにしてしまえ”と。
東条は目の前の堕天使を見つめ、その名を紡ぐ。
「フォル殿……っ」
「ほらほら、今ならどんなに泣いたって誰もとがめないよ。
僕しか、聞いていないんだから。
僕は今さら、どんな罪だって怖くなんかないんだから」
親を殺すと言う禁忌。
天使の“くせに”悪魔の魔術を使ったと言う禁忌。
この上にあとひとつくらい罪を積んだところで何も変わらないのだと。
そういってフォルはもう一度スターリンの唇を塞ぐ。
角度を変え、繰り返されるそれに、少しずつ思考に靄がかかる。
東条はそれを受け入れるように藤色の目を閉じた。
伝い落ちる涙を指先で拭って、フォルは小さく笑う。
―― その涙を見せて? ――
(頑丈な扉つきの鳥籠
その鍵を壊すのが僕の役目)