―― とおりゃんせとおりゃんせ
響く、子供たちの童歌。
それを遠目に見つめながら、鮮やかな紅の瞳の少年は何処か羨まし気に目を細める。
その視線の先には幾人もの、子供の姿があった。
とおりゃんせとおりゃんせ
此処は何処の細道じゃ
天神さまの細道じゃ
響く、響く、童歌。
関所役の子供たちの腕の下をくぐる、子供たち。
その姿を見ていた少年は、思わず少し身を乗り出した。
「あれ?」
不意に、一人の子供が声をあげる。
それと同時にきらきらとした子供の視線が、少年の方を向いた。
びくりと肩が跳ねる。
隠した"耳"が飛び出さないように、少年は体を強張らせ、おずおずと草むらから姿を現した。
彼が姿を隠していた理由は三つ。
一つ、眼前の子供たちと自分が顔見知りでないこと。
二つ、彼らとあまりに容姿が異なっていること。
三つ……彼が、" "であること。
しかし、幼く純真な子供たちの前では、そんなことは些細な問題であるようだった。
「わあ綺麗な桜色」
彼の髪を見て、一人の少女がそういった。
柔らかな、桜の花弁のような長い髪。
髪留めに結んだ鈴がちりんと揺れる。
瞳は鮮やかな紅色で、ともすれば怖がられてしまいそうなものだ。
それなのに、子どもたちは顔を輝かせる。
綺麗な髪だ。
綺麗な瞳だ、と。
照れくさそうに頬を染める少年に、一人の少年が歩み寄って、さっと手を差し出して、笑顔を浮かべた。
「どうしたの?君も一緒に遊ぼうよ」
そんな言葉に少年はぱちぱちと瞬きを繰り返す。
その言葉をかけられることを望んではいたが、流石に夢を見過ぎと諦めて、こうして隠れて彼らの様子を窺っていたのだから、驚くのも至極尤もだ。
「え、あ……良いの?」
少し戸惑ったような声で、少年は言う。
それを聞いて、子どもたちは顔を見合わせた。
それからくすりと笑いあう。
「良いよ」
「いっしょにあそぼう」
優しく、明るく、子どもたちは言う。
それを聞いて、桜の髪の少年は、嬉しそうに頷いて"ありがとう"とはにかんだ。
「あなた、名前は?」
一人の少女が桜の髪の少年に、そう声をかけた。
名前を聞かねば遊ぶに遊べぬ。
そういう彼らに少年は、笑顔を浮かべて答えた。
「ぼくは、紫苑。宜しく、ね」
「紫苑か、綺麗な名前。じゃあ紫苑、お前は関所役な」
そう言われ、少年……紫苑は嬉しそうに笑って、何度も頷いた。
そして、もう一人の関所役の子供と手を繋ぎ、"関所"を作る。
「よーし、じゃあもう一回、最初から」
そんな誰かの声に、子供たちはまた歌いだす。
とおりゃんせとおりゃんせ
ここはどこの細道じゃ
天神さまの細道じゃ
ちっととしてくだしゃんせ
御用のないものとおしゃせぬ
この子の七つのお祝いに
お札を納めに参ります
行きはよいよい帰りは怖い
怖いながらもとおりゃんせとおりゃんせ
嬉しそうに遊ぶ、子どもたち。
笑いあう彼らに交じる紫苑の背に、ふわりと一瞬、異形の影が揺れた。
***
ぱちり。
目を覚まして、ゆっくりと瞬きをする。
柔らかなものを枕にして、昼寝をしていたことに気が付いて紫苑はふぁ、と欠伸をした。
むくりと体を起こせば、"おや、目が覚めましたか"と柔らかな声が聞こえた。
顔を上げると穏やかに微笑む、美しい女性と目が合った。
紫苑が枕にしていたのは、その女性の尻から伸びた、柔らかな白い尾。
ふかふかとしたそれは五本に分かれている。
偽物ではない、まぎれもなく彼女の体から生えているものだった。
―― ヒトは、彼らを妖狐と呼ぶ。
特殊な力を有する、狐の一族。
皇御国に古来より住む、妖の一種。
紫苑と、その母親……桔梗はその妖狐の親子だった。
しかし彼らが今居るのは、故郷ではない。
故郷を遠く離れた異国の土地、比較的平和なその国の山奥に、紫苑と桔梗とは移り住んだのである。
まだ妖狐として幼い紫苑はそれを不服に思っていた。
その想いが、先程彼が見ていた夢として現れたようである。
彼が先程まで見ていた夢は、彼がもっと幼かった頃の夢。
皇御国に居た頃の、楽しかった日常の夢だ。
ヒトの子に混ざって、わらべ歌を歌って過ごした。
日が暮れるまで遊んでは、母を心配させた。
そんな日々が、もはや懐かしい。
「ねぇおかあさま」
紫苑は自分の頭を優しく撫でる母に声をかける。
桔梗は、紫苑によく似た長い桜の髪を揺らして、小さく首を傾げた。
「どうしたのです、紫苑」
「……ふもとに降りて、遊んではいけませんか」
紫苑がそういうと、桔梗は一瞬彼の頭を撫でる手を止めた。
それから、悲し気に眉を下げ、ゆっくりと首を振って、言った。
「いけませんよ、紫苑」
山をおりてはいけません。
そういう桔梗。
紫苑はそれを聞いて、がっかりしたように眉を下げる。
今までも、何度も母に問うてきた。
山を下りてはいけないか。
麓でヒトの子と遊んではいけないかと。
"幼い頃"に、皇御国でしたように。
この国の子供らと遊びたい、と紫苑は言った。
しかしいつも答えは同じ。
駄目。
いけない。
そんな母の返答。
「おかあさま、どうしておやまを降りてはいけないの?」
紫苑はそう、母に問いかけた。
すると彼女は、こう答える。
「貴方は完全なヒトではないからですよ、紫苑」
「ヒトではない……妖狐だから?」
無垢な瞳で、紫苑は問う。
それを聞いて、桔梗はこくりと頷いた。
「そうです。貴方は妖狐の子……"ただの人間"ではないのです」
そういいながら、彼女はそっと、息子の尾を撫でる。
ふわふわとした、柔らかな白い毛並み。
まだ一本しかない尾は、まだまだ子供の証だ。
「お尻尾があるから?」
だから駄目なの?
紫苑は母に質問を重ねる。
「そうですよ。
その尾を見れば、貴方を悪いことに使おうとする人間が居るかもしれない。
むやみに、ヒトと関わってはいけないのです」
「御国では、良かったのに、どうして?」
あの国では、大丈夫だった。
母も、心配こそすれ、山を下りてはいけないとは言わなかった。
なのに、どうして?
そう紫苑は問いかける。
桔梗はその問いの返答に、少し迷った様子であった。
「……あの頃とは、変わってしまったからですよ」
その言葉の意味が、当時の紫苑にはわからなかった。
何が変わってしまったというのだろう?
そりゃあ、かつて暮らしていた国とは違うのだから、変わったことは多かろう。
しかしそれも、母が"他の国に移りましょう"というからそうしたわけで……
「……御国から、はなれたくなかったな」
ポツリ、紫苑は呟いた。
それを聞いて桔梗は悲し気に眉を下げ、そっと息子の頭を撫でた。
「……貴方を守るためなのです」
あの国を離れたのも、貴方を山から下さないのも。
桔梗は静かな声でそういった。
長い睫毛を伏せる、美しい母。
自分と同じ真白の毛の耳も、ぺたりと下がってしまっている。
母を、悲しませてしまっただろうか。
そう思いながら紫苑は、母に声をかける。
「……おかあさま」
そう呼べば、彼女は顔を上げる。
どうしたのです?と言いたげな彼女を見つめて、紫苑は問いかけた。
「ヒトは、怖いの?」
幼い紫苑にはわからない。
記憶にあるのは、自分と遊んでくれた、優しい子供たちの姿だけだ。
彼らは、紫苑に害をなそうとはしなかった。
皇御国の人間には珍しい鮮やかな紅の瞳にも、桜色の髪にも何も言わなかった。
ヒトは、怖い存在なのだろうか。
そう紫苑が問うと、彼女は悩む顔をした後に、ゆっくりと頷いて、静かな声で言った。
「そうですね……怖いヒトも、たくさんいます」
貴方がであっていないだけで。
そういう母。
真剣な表情を浮かべる彼女に、紫苑も少し怖くなる。
母が自分に嘘をついたことはない。
だからきっと、それは事実なのだ。
人間の中には怖いモノもいるのだ。
強い母が逃げようと、紫苑を隠そうとするほどに……――
彼がそうして怯えたのがわかったのだろう。
桔梗はすぅと紅の瞳を細め、彼に声をかけた。
「でもね、紫苑……そうでない人間もたくさんいるのですよ」
「そうでないヒト?」
こくり。
彼女は静かに頷いて、優しく紫苑の頭を撫でた。
「私や紫苑のような特殊な存在を厭う者も多いでしょう。
或いは有益なものとして捕えようとする者もいるでしょう。
けれども確かに、優しいヒトもたくさんいるのですよ、だから私はヒトが好きです」
本当は、あの国に居たかった。
あの国の人たちと一緒に暮らしたかった。
そう、桔梗は言った。
「だったら、どうして……?」
紫苑はそう、母に聞いた。
桔梗は紅色の瞳を細めて、静かな声で言った。
「けれども、幼い貴方を連れたまま、あの国に居るのは危険だから、私は貴方とこの国に移ったのですよ。
妖狐(わたしたち)の存在は、皇御国(あちら)ではあまりに有名すぎる。
だから、妖狐の伝説も然して根付いてはいないであろうこの国に……そう思ったのですよ」
故郷は、妖だとか、そういった類の話を信じる人間が多く居る。
妖狐も、そうした伝承に出てくる妖の一つだ。
人々は、妖狐の存在をよく知っている。
それが、危険だと思うようになったのだ。
昔のように、妖とヒトとの距離が近いままならば良かった。
けれども妖は、ヒトから遠く離れたものになりつつあった。
そうした存在が共にあることは危険だということは、長く生きている桔梗には良くわかった。
特殊な存在。
それはいつか、追われるモノになってしまう。
妖狐には、様々な伝説が付きもので、そのいくつかは事実であるから、なおのこと。
だから、桔梗は紫苑を連れて、この国に移ったのだ。
伝承があまり知られていないこの国に。
しかし……それでも不安要素は多々あった。
息子は、紫苑は、魔力を隠すのが上手ではない。
よく尻尾や耳を露出させてしまう。
せめてその癖が直るまでは、山から出すつもりはなかった。
それが彼を守るため。
桔梗はそのことをよく知っていたから……
紫苑も何となく、そんな母の言葉の意味を理解した。
だから、小さく、素直に頷いた。
「わかりました、おかあさま……」
「良い子ですね、紫苑……いつかきっと、"時"が来たら……」
貴方が、妖狐が、人と共に歩めると私がそう判断できる日が来たら、きっと……
桔梗はそういう。
紫苑はそんな母の言葉に微笑んでから、小さな声で歌を歌った。
とおりゃんせとおりゃんせ。
ずっと昔に、"友人"たちとうたった歌。
あそんだ、歌を。
いつか、この国の人たちとも、ああして遊べたらよい。
そう思いながら……――
***
そんな母との会話の数年後。
紫苑は山に、一人になった。
母が、桔梗が、死んだのだ。
その理由はほかでもない……人間に撃たれた傷によるものだった。
桔梗は強い妖狐だった。
あと数百年も生きれば天狐に、空狐になれるであろうとそう言われていたほどに、強い魔力を有する妖狐だった。
しかし、まだ天狐には程遠く、不死の存在ではなく。
傷を負わせた人間から逃げおおせ、なんとか紫苑の傍まで戻っては来たものの、そのまま力尽きたのだ。
母の最期の言葉を、紫苑はしっかりと覚えている。
―― ヒトを、恨んではいけませんよ。
ヒトを恨めば、貴方は悪狐に堕ちてしまう。
貴方は強く美しく、正しい力を持った妖狐として育ってください。
そういって微笑む母は、美しかった。
母の死で、紫苑はあの日の母の話を思い出した。
そして、理解した。
ヒトは決して優しいだけの存在ではないのだということを。
けれども母は言っていた。
ヒトを恨んではいけないと。
ヒトは決して優しいだけの存在ではないけれど、恐ろしいだけの存在でもないからと。
いつかきっと、わかりあえて、共に生きられる日が来ると、母はそういっていた。
だから紫苑は、一人、山の中で待っていた。
母が言っていた、"その時"を。
けれども……
「おかあさま、独りぼっちは、寂しいです……」
くすんと、彼は涙をこぼす。
寂しがりやの子狐は、一人で生きられず。
恐る恐る、山を下った。
母が決して晒してはならぬといった通りに、しっかり狐の耳も尻尾も隠して。
山の近くの街は賑やかで美しかった。
彼がよく知る皇御国の景色とは全く違っていたけれど、賑やかな街並、楽しそうな人々の姿は、昔に見たものと何も変わりはしなかった。
そうして歩いていた最中。
紫苑は一枚の広告を見つけた。
そこに描かれていたのは、この国……イリュジア王国の紋章。
そして、銀色の光る剣を握った、麗しい人々の姿。
「格好良いよなぁ」
その広告の近くにいた子供が、不意にそんな声をあげた。
ぴくりと体を振るわせつつ、紫苑はその子供たちの話に耳を傾ける。
「騎士、格好良いよなあ」
「俺もいつか、騎士になりたいよ。
仲間と一緒に戦ってさ、この国を守るんだ!」
そう語る少年たちの瞳はきらきらと輝いていた。
ちらりとそれを盗み見て、紫苑は静かに、山に戻る。
こっそりと、その手に一枚広告を握って。
かさりと、その広告を開く。
穴が開くほどにそれを見つめ、紫苑は小さく呟いた。
「……騎士」
騎士。
この国を守る、騎士。
その存在は、母から聞いていた。
この国は、武士の代わりに騎士がいて、騎士はこの国の一番偉いヒト……王族を守り、この国を守るために働くのだと。
騎士は、人の憧れだという。
それを思い出して、紫苑は小さく呟いた。
「騎士に、なれたら……」
―― ともだちが、たくさんできるかな。
そう思って、紫苑は考え込む。
騎士になれば、仲間が出来るだろうか。
一人ぼっちでは、なくなるだろうか。
ああ、けれども……
その仲間は、友人は、紫苑が妖狐であると知って尚、離れず、追わず、恐れぬ存在となってくれるであろうか?
わからない。
何も、わからない。
けれどもそれが怖くてうごかないようでは、ずっとこの山に籠っているほかなかろう。
紫苑は勇気を出して、山をおりた。
そうして立ったのは、城の前。
多くの人間が集う中、紫苑は足の震えを隠しながら、一人の騎士に声をかけた。
「騎士の、試験を受けたいのですが」
頭の中ではかつて歌った童歌が回っていた。
行きはよいよい、帰りは怖い。
きっと、入れてと声をかけるだけならば、簡単なことだろう。
けれど一度そうしてその世界に飛び込んでしまえばもう二度と、山で隠れて暮らすことは出来なくなろう。
母の言う、"追われる生活"になることも、十分に考えられた。
けれども。
紫苑は足の震えを押し殺す。
ともすれば飛び出してしまいそうな耳と尻尾もしっかり隠して、眼前の騎士を見つめた。
「そうか。お前の名は?」
「ぼくは、紫苑……」
紫苑、と名乗りかけて思い出す。
国によって名前は、まったく違った発音をしたりするのだと。
"紫苑"は、故郷では至って普通の名前、植物の名前だ。
けれどもその花のことを、この国では、イリュジアでは、"アスター"というのだと、以前母から聞いていた。
今の名前で、怪しまれなかっただろうか。
紫苑は少し、体を強張らせる。
しかしそれは杞憂だったようで、騎士は小さく一つ、頷いた。
「シオン?ファミリーネームは?」
ふぁみりー……苗字のこと、だろうか?
妖狐であるシオンにそれはない。
けれどもきっと、この国の"人間"としてやっていくならばきっと、ふぁみりーねーむ、はあった方が良いのだろう。
そう思い、紫苑は少し考えて……いった。
「……シオン・ターフェンといいます」
アスター。
アスターから、音を拾って。
紫苑はそう、名乗った。
すると騎士は小さく頷く。
そして彼の肩をポンと叩いて、言った。
「良し、シオン、此方へ来い。頑張れよ」
そう励まされて、紫苑はぱぁと顔を輝かせた。
そして、こくりと、力強く頷く。
そうしてくぐる、城の門。
とおりゃんせ、と小さく紡いだ言の葉は、誰に拾われることもなく。
その日、紫苑は"シオン"になった。
母の言葉通りの、ヒトと共に暮らせる、幸せな日々を願って。
―― 怖いながらも、とおりゃんせ ――
(行きはよいよい帰りは怖い。
怖いながらも、とおりゃんせ)
(ぼくは、信じたいのです。
きっと、きっと、ヒトとも仲良く出来るって)