ざぁぁああっと、強い雨のような音が響く。
暖かな湯を全身に浴びながら、黒髪の彼……チェーザレは目を細めた。
流れていく湯は赤黒く染まり、体についた液体を流していく。
それが排水溝に吸い込まれていく様を見ながら彼はくつりと笑みをこぼした。
「ふふ……はははははっ!」
笑い声が、響く。
反響する。
一人きりのバスルームで。
***
頭に甦るのは、先刻の光景。
肉を切り裂き、命を奪う光景。
先ほど彼は、罪人に"裁き"を下した。
この国を、街を、恐怖に陥れていた一人の男を。
強盗殺人を繰り返し、町の人々を脅かした外道を。
……大切な人間を傷つけた、男を。
少し誘えば、すぐに乗ってきた。
べたべたとさわられる間に嫌悪は感じた。
どうして自分はこんなことをしているのだと、疑問にさえ思った。
触れてほしい、抱き締めてほしいと思えた人物が意識不明でいると言うのに、その原因となった男に触れられる。
その状況は酷く不愉快で不可解なものだった。
しかし、そんな時間もすぐに終わりを告げた。
即座に毒入りのワインを飲ませ、その上で"処刑"したから。
暗殺と呼ぶには、派手すぎた。
どちらかと言えば、"惨殺"が正解だろう。
そう思えど、彼……チェーザレは後悔していなかった。
幾人もの人間を殺めた男が無惨な肉塊に変わっていく様。
悲鳴をあげても泣き叫んでも、人目を避けて作った隠れ家では誰も来るはずがなく。
チェーザレは冷酷に、男を殺した。
自分自身も赤黒い血に染まりながら。
そうして殺した男の頭と胴とを切り離し、それをそのまま街に晒して帰ってきた。
今はまだ、人通りも少ないだろう。
明日の朝になれば、多くの人間の目に留まることになるだろうが。
***
シャワーを浴び終えて、チェーザレはバスルームを出た。
そしてダンスのステップでも踏むような調子で、部屋に戻る。
その部屋は、恋人である男性……ラヴェントが寝かされている病室。
気を利かせた医療部隊長が彼のために予備のベッドを用意していた。
まだ、彼は目を覚まさない。
まだ、深く眠ったままだ。
チェーザレはそんな彼の手を手に取る。
そしてその冷たい手の甲に口づけを落とした。
「お前の復讐はしてやったぞ……ははははっ、明日の民衆の反応が楽しみだ……」
そういいながら、彼は笑う。
風呂上がりで少しだけ血色がよくなった顔に浮かぶのは果てない達成感だった。
***
その翌日。
チェーザレは男の遺骸を晒した広場に向かった。
案の定、その場は大騒ぎだった。
しかしそこに広がるのは戸惑いや恐怖の声ではなく……
安堵、或いは称賛の言葉だった。
「やっと捕まったんだねぇ」
「犯人の特定はできたって話だったからな……やー、これで安心して寝られるよ」
そんな穏やかな声。
それを聞きながらチェーザレは目を細める。
思惑通りだ。
聞こえる人々の声。
それが、自分の"計画"の成功を示している。
別に、この街の平和を守りたいなんて、大層な理由で戦った訳ではない。
国の転覆を目論むような輩が許せなかったのは事実だが、それ以上に、もっと私的な理由での"復讐"だった。
しかしそれは、人々には知れていない。
これでいいのだ。
表向きは、連続殺人犯を殺してくれた英雄でいればいい。
そう思っていたとき、不意に肩をつかまれた。
怪訝そうに振り向けば、そこにはこの辺りを警備している騎士たちの姿があった。
なんだあれは、と言う。
チェーザレが戸惑いの様子もなく見つめていたから、何らかの事情を知っていると見て声をかけてきたらしい。
「あんなものを広場に晒して……犯罪者とはいえ人間だぞ」
そういって渋い顔をする騎士。
生真面目なのだろうが、面白味がない。
そう思いながらチェーザレは笑みを浮かべて、いった。
「奴はこの街で犯罪を繰り返した、民衆に恐怖を味合わせた、そんな者は誰であろうと罰するべきだ。
つまり、奴は当然の報いを受けただけ……だろう?」
なにか間違っているか?
チェーザレはそういって、首をかしげる。
それを聞いた騎士はぐっと言葉につまった。
それは、そうなのだ。
確かに、そうなのだ。
あの男は犯罪者。
長く街の人々を怯えさせてきた悪人だ。
……けれど。
そういいかける騎士に、チェーザレは畳み掛けるようにいった。
「見給えあの民衆の顔を、晴れ晴れとしている。
晒された死体に石や罵声を浴びせる者もいたそうだな……
はははっ当然か、それほど民に憎しみを抱かれていたんだろう」
ああされても文句は言えまい。
あぁ、もう文句を言う舌もなかったか。
そういって、チェーザレは笑った。
晒し者にされ、人々に罵倒され、笑われ、石を投げられる骸を見つめながら。
そう。
これで、いいのだ。
ああして殺されても、仕方がないのだ。
―― あぁ、血の臭いだ。
洗い流したはずの血の臭いを感じて、チェーザレは表情を消したのだった。
***
長く、長く、眠っていた気がする。
そう思いながら、紫髪の彼……ラヴェントは目を開けた。
「う……」
少し身じろぎしただけで、体のあちこちが痛んだ。
思わず呻いて、彼は自分がおかれた状況を考えた。
たしか、自分はあの有名な殺人犯を追っていた。
路地に追い詰めて……
そこまで思い出したところで、彼ははっとして、ベッドの上に飛び起きた。
「あいつは?!追いつめたのに……っ」
そう叫んで、思わず呻いて胸部を押さえた。
そっと触れたそこには幾重にも包帯が巻き付けられていた。
そうだ。
自分は、男の反撃を受けて……
そう思ったところで、不意に声が聞こえた。
「お前の不甲斐なさには呆れるな、捕まえて来れないどころか怪我をしてこうして眠りこけるなどあり得ん」
そんな声にはっとして、視線をそちらへ向ける。
すると、少し離れた壁際に見慣れた彼……チェーザレがもたれ掛かっていた。
呆れたような表情でラヴェントの方を見ている。
相変わらずの彼の様子。
少しくらい心配してくれてもいいようなものなのに……
そう思いながら小さく息を吐き出して、ラヴェントはいった。
「不甲斐ないのはわかってるよ……」
情けない。
そう思いながら、彼は肩を落とす。
チェーザレはそんな彼を見て小さく鼻を鳴らしていた。
相変わらずの様子の彼。
それを見て、どうやら今が現実で、自分が一命をとりとめたことを知る。
そこで、ラヴェントは初めて、彼の立ち位置に疑問を感じた。
「ところで、何でそんなところにいるんだ」
こっちにいればいいのに。
ラヴェントはそういいながら、ベッドを叩く。
するとチェーザレは少し戸惑ったように視線を揺らした後小さく頷いて、歩き出した。
ラヴェントがいるベッドの傍で足を止める。
それでもやはり近づききろうとしない彼を見つめて、ラヴェントは不思議そうに首をかしげる。
チェーザレはそんな彼を見て小さく息をはくと、ぼそりといった。
「……血の匂いが取れんのだ、ミケロットは何も匂わないと言うが奴を殺してからずっと……」
その言葉で、ラヴェントは状況を悟った。
自分が取り逃がした男を、彼が捕縛……否、処分してくれたことを。
もちろん。
あんなことにはなっているとは、知らないわけだけれど。
「……チェーザレ」
ラヴェントはチェーザレの名を呼ぶ。
それを聞いて彼は顔を上げて、首を傾げた。
「なんだ」
どうした。
そう問いかけるチェーザレ。
ラヴェントはそんな彼を見つめながら、いった。
「俺が嫌になったんでなきゃこっち来てくれ……
俺からいってもいいけど医者にしかられそうだ」
俺に幻滅したんでなければ。
そういいながら、ラヴェントはチェーザレを見つめる。
チェーザレは暫し困ったような顔をした後、ゆっくりと足を進めていった。
彼がしっかり手の届く距離まで彼が来たところで、ラヴェントはそっと彼を抱きよせる。
そして穏やかに微笑みながら、いった。
「……捕まえた」
そういってぎゅっとチェーザレの体を抱きしめるラヴェント。
チェーザレは少しだけ戸惑ったように視線を揺らしながら、いった。
「……あまりくっつくなといっているだろう」
血の匂いがするから。
チェーザレはそういう。
しかしラヴェントは穏やかに微笑みながら、言った。
「大丈夫、いつもの甘い匂いだ」
「っ……」
彼の言葉にチェーザレは大きく目を見開く。
そして、ぐっと唇をかみしめた。
甘い香り。
それがいつも通りだと、ラヴェントは言う。
しかし、チェーザレはそれを聞いて、思い切りラヴェントの胸を突き飛ばした。
「やめろ!これだって毒の匂いだ!!
私がいつも使っている相手を脅し陥れ従わせそして殺す、そんな毒の匂いがするから大丈夫だと!?笑わせるな!!」
狂ったように彼はそう叫んだ。
悲痛な声。
ラヴェントは彼の突然の行動と痛み、そして何より声と言葉に驚き、固まっていた。
今まで押し隠してきた事実。
自分が持つ、カンタレラという毒薬。
ラヴェントはその甘い香りを、いつも誉めていた。
それが今は、酷く複雑な気分だった。
自分の残忍性が、嫌だった。
暗殺とか汚い手使うのが常の家に生まれて育ってきたからしかたがない。
自分もその道に進んで、そう教育されてきたから仕方がない。
そう言い訳しようにも、イリュジアという平和な国に来てさえ血を求める自分の本性が叫ぶのだ。
血を求める。
否定する。
その言い訳を、否定するのだ。
「仕方ないだろう!邪魔な者は敵であろうが味方であろうが殺してきた!
今回も冷静になろうとしても私の中の本性が殺せ殺せと暴れて仕方ないんだ!
どうしようも……っ」
どうしようもない。
そう叫びかけた彼の体を、暖かさが包んだ。
ラヴェントに抱きしめられている。
それを感じながら、チェーザレは驚いて目を見開く。
しかし幾度も瞬きをしているうちに、少しずつ彼の体の震えは落ち着き始める。
ラヴェントはぎゅ、と彼の頭を抱いたまま、息を吐き出す。
そして優しい声で言った。
「……無神経でごめんな、無知は罪だな」
お前がそんなこと思ってるなんて気づかなかった。
そういいながら、ラヴェントはチェーザレの頭を抱きしめて、言う。
「少し、休めよ。大丈夫……俺が傍にいるから」
疲れてるんだよ、お前は。
そういいながら、ラヴェントはそっとチェーザレの頭を撫でていたのだった。
―― 心に秘めた… ――
(ずっと心に燻っていた感情。
耐えかねたそれは止まることなくほとばしって…)
(そっと抱きしめてくれるぬくもり。
少しずつ、少しずつ…体のこわばりがほぐれていくのを感じて…)