ぱっと、鮮血が散った。
眼前で、痛みに歪む師の顔。
それを見て西は大きく目を見開いた。
「っ、遊佐さん!」
彼の肩口をノアールの剣が貫いていた。
それを平然と抜いて、ノアールは言う。
「いっただろう、俺の目的は"そこの黒猫を一匹、なかせてこい"という主の命令をこなすことだ」
どうやら彼は、西に危害を加えるのが目的ではないらしい。
彼に絶望を、悲しみを与えるだけ。
そのためならば、彼の恋人もその部下も、彼の師さえも簡単に殺してやる、とのことだった。
わかっているのだ。
西が、どうすれば"堕ちる"かを。
彼の主が調査済みだった。
依存的な彼が彼の恋人に酷く執着していること。
今、彼が慕っている人物が遠く、異国から来ていること。
それらすべてを知った上での作戦だった。
―― まったく、主も人が悪い。
そう思いながらノアールは口角をあげた。
そうこれは、堕天使の遊戯(あそび)。
普段冷静でクールなあの異国の少年の本気が見たい。
できることなら、絶望に染まった顔が見たい。
ねぇやってみてよノアール。
そんな甘えのような命令に、かれはしたがった形だった。
西本人は傷つけない。
あくまでも、彼の周囲の人間を。
最初に攻撃を加えた人間が生きているか死んでいるかも、ノアールには知ったことではなかった。
しかし無論、西には大きなダメージだった。
遊佐は"大丈夫だ、落ち着け"という。
その言葉通り、傷は決して深くはないようだった。
彼がこんな攻撃ごときで死ぬはずがないとわかってはいた。
少し傷を負ったようだが、深い傷ではない。
しかし、彼の傷から滴る赤色が、地面に倒れた愛しい人の赤色と重なった。
幾重にも積み重なった、人の姿に重なった。
目の前に散る赤色。
倒さなくては。
ただそればかりが、頭を巡る。
正当な思考なんて、とっくに出来なくなっていた。
だって。
これほどまでに傷つけられた。
自分の、大切な人たちを。
自分の愛しい人の、大切なものを。
黙っていられるはずがない。
おとなしくしていられるはずがない。
……許せる、はずがない。
「うわっ」
「っ……」
遊佐が思わず声をあげ、ノアールは顔を歪めた。
突然凄まじい量の魔力が放出されたのだ。
一瞬で、周囲にあった木々が黒焦げになる。
それを見て、漆黒の瞳の悪魔は驚いた顔をした。
と、西が遊佐の傍に膝をついた。
そして座り込んで肩をおさえる遊佐の傷にぐるりと、自分が首に巻いていたスカーフを巻き付けて、きつく縛る。
「遊佐さんは、動かないでそこにいてくれ」
危ないから。
これ以上戦わなくていいから。
あとは、俺がやるから。
そう、機械的にいった。
「……許さねぇ」
そう呟いた西の声は、いつもより数段低い。
魔力の干渉を避けようと少し退いた遊佐が驚いた顔をしていた。
欠落したように片方しかない黒い翼が、微かに揺れる。
西はそれに狙いを定めて、軍刀で切りかかっていった。
もともと軍刀は切れ味のよい刃物ではない。
何かものを切るためのそれではないからだ。
けれど、それでもいいと思っていた。
致命傷を与えるつもりはない。
とにかく今は、アイツの退路を塞いで、逃がさないようにしたかった。
片方の翼で飛べるはずがないのに、その僅かな可能性さえ消し去っておきたかった。
逃がさない。
逃がす訳にはいかない。
……絶対に。
脳内で、そう音が響く。
とんでもない勢いで飛びかかってくる西を見て目を細めた漆黒の青年は素早く拳銃を構えた。
わかっていた。
近づいてくる相手を撃つくらい容易い。
そう思ったんだろう?
西は笑みを浮かべる。
冷たい、冷たい笑みだった。
光の消えた金の瞳で眼前の青年を見つめながら、西は勢いよく間合いを詰める。
一切躊躇いのないその行動に、一瞬青年の動きが鈍った。
その隙に、西は素早く彼が……ノアールが握っていた拳銃を握りしめた。
彼の行動に、ノアールは仰天した顔をする。
それもそのはずだ。
普通、他人の武器に触れることはできない。
大体の武器は、持ち主に合わせた魔力を帯びている。
そんな武器に触れることは、できないはずなのだ。
なのに、今西は平然とノアールの拳銃を握りしめた。
炎属性だけではない、悪魔属性の魔力をも灯したそれをいとも簡単につかんでしまったのだ。
驚くに決まっている。
「……なかなかいい武器持ってるじゃねぇか」
誰に言うでもなく、西はそういった。
それと同時に、ノアールの手からその拳銃をもぎ取る。
そしてそれをノアールの方へ向けた。
素早く、発砲する。
その銃弾は狙いを誤ることなくノアールの体を貫いた。
「っぐ……」
あまりに唐突な反撃だったからだろう。
機敏なはずの体は動かず、自分の武器の銃弾を食らった。
その場に崩れそうになるのを堪えながら、ノアールは笑みを浮かべた。
彼の見られない本気を見せる。
その仕事は、こなした。
これで、きっと何処かで見ている主も満足だろう。
そう思い離脱しようとするが、西はそれを許さなかった。
立て続けに放たれる銃弾。
流石にそれは避けたが、こんな調子では空間移動術を使うことも空へ逃げることもできない。
さしものノアールも、少し焦った。
操り人形である彼は普通の人間より少し丈夫にできている。
とはいえ、死ぬには死ぬのだ。
その証に、出血のせいで大分意識が薄らいでいる。
「……許さねぇ」
もう一度彼は呟いた。
その声に、魔力に同調するように木々が揺れる。
竹一、と遊佐が名を呼んだがその声は届いていないようだった。
異常な熱気が彼を包んでいる。
近づくのは、あまりに危険だった。
しかし。
不意に肩をおさえたまま西を止める方法を思案する彼の横を何かが駆け抜けた。
―― 金色。
それが、夕焼けと西の放った魔力による炎に照らされて、煌めいた。
気迫と驚きと熱さに動けずにいる悪魔を撃とうとする西の背に、それは迷わず抱きついた。
「やめて、竹一」
耳元で聞こえたのは、聞き慣れた恋人の声。
西は引き金を引こうとしていた指を、止めた。
「メイアン……?」
「……駄目。そんな竹一、見たくない」
掠れた、それでもしっかりした声で、彼は……メイアンはいった。
「ど、して……生きて、た……」
「……勝手に、殺さないで、ちょうだい」
メイアンはおかしそうに笑った。
……本当は。
あのとき、怪我をしている彼らに近づくのが怖かった。
確認するのが、怖かった。
知っているのだ。
ああして倒れている人間のほとんどが死んでいるという状態も。
だから、怖かった。
ぐったりと俯いたまま動かないメイアンの呼吸を、心拍を確認するのが。
……死んでいると確認できてしまったらどうしようと、そう思って。
メイアンが、生きていた。
遊佐も、たいした怪我はしていない。
その状況が、幾分西を冷静にさせた。
まだ周囲は燃えている。
しかし、この惨状の原因の悪魔は姿を眩ましていて、黒い羽が一枚残っているだけだった。
「……っ、メイアン……」
「ごめんなさい、竹一……
少し、油断していたの……
とにかく、事情はみんなを手当てしてもらってから……」
そういいながらメイアンはぎゅうと西を抱きしめる。
そして、柔らかく、けれど微かに震える声でいった。
「……ありがと」
止まってくれて。
西は彼の言葉にまばたきをする。
「何で……」
「ほんとは、少し怖かったのよ……
竹一に、私の声が届かなかったらどうしよう、って……でも」
―― 貴方は、聞いてくれたから。
その事に安堵したのだと、メイアンはそういった。
少し疲れたように笑う、メイアン。
彼の頬には涙の痕と、恐らく煤による黒い汚れ。
西はそれを指先で拭ってから、一度だけメイアンを抱き締めた。
彼はここにいる。
それを、確かめるように。
「……竹一、早くいかないと……
遊佐さんも怪我してるし、私も……結構痛いのよ」
そういって苦笑するメイアン。
彼の言葉に、西ははっとして彼の体を離した。
真っ白い制服が赤黒く染まっている。
「っ、バカ、先にそれいえよ!」
「言う暇与えてなかったのはお前だろ」
苦笑気味に遊佐は言う。
彼も傷はたいしたこと無さそうだが、もう既に白いスカーフに血が滲んでいる。
大分痛そうだ。
「帰ろう、皆……手当て、してもらわないと」
そういいながら歩みを進めた西の足がふらつく。
メイアンと遊佐がそれを支えた。
「っ、あ、れ……」
どうして、と西は呟く。
自分に何が起こったか理解出来ていないという風だった。
……疲れるに決まっている。
あんな勢いで魔力を放出したのだから。
そう思いながら、メイアンと遊佐は顔を見合わせて、苦笑したのだった。
―― 暴走の果ての… ――
(大切なものを失う恐怖。
それは、自分の心に火をつけた)
(気がつけば背中に温もり。
自分の体を、気持ちを落ち着かせる温もりで…)