ふわり、と鼻腔を擽る良い香りで目が覚めた。
ゆっくりと目を開けて、まばたきをする。
一緒の部屋にいるはずの親友兼つ恋人……クビツェクの姿がなかった。
それを見て、ヒトラーはゆっくりとまばたきをして、体を起こす。
「グストル?」
どこだ?とヒトラーは声をあげる。
それと同時に、部屋に備え付けられたキッチンの方から、ひょいと彼が顔を出した。
「あ、アドルフ起きたんだね、おはよう」
そういってにこりと微笑むクビツェク。
その穏やかで柔らかな笑みは、それこそ天使のようで……
って、そうではない。
そう思いながら、ヒトラーは視線を時計の方へ向けた。
すでに時刻は午前九時を回っている。
……完全に遅刻だ。
「ちょ……グストル、何で起こして……っ」
「ストップ!」
慌てて飛び起きようとするヒトラーの唇に、トンっと指がおかれる。
それは、ヒトラーの方へ歩み寄ってきていたクビツェクの指で。
唐突な彼の行動に、ヒトラーは驚いて完全に固まった。
クビツェクは豆鉄砲を食らった鳩のような顔をしているヒトラーを見て微笑む。
そして指先を彼に唇から離しながら、いった。
「今日は、休みだよ」
「……え?」
ヒトラーはクビツェクの言葉にさらに困惑した顔をして固まった。
そんなはずが、ないのだ。
ここ数日、ずっと仕事がつまっていたはずで、だから頑張らないとと思っていて……
それなのに、休み?
「ふふ、混乱してるね。アドルフが決めた休みじゃないよ」
そういいながら、クビツェクはキッチンの方へ戻る。
そんな彼の背を見つめながら、ヒトラーは困惑気味に訊ねた。
「私が決めた休みじゃあないって……それは、どう言うことだ?」
「みんなで決めたんだよ。提案は、僕だけど」
そういいながら、クビツェクはトレンチに二つのティーカップをのせて戻ってくる。
それをテーブルにおきながら、柔らかく微笑んで、いった。
「アドルフ、ここ数日ずっと忙しそうだったでしょ?」
「?あ、あぁ……」
確かに、そうだ。
ここ数日ずっと仕事続きで、休む暇なんてなかった。
王女から任される任務。
夜鷲のトップとしての書類仕事。
部下たちへの指示……
毎日毎日それをこなして、部屋でシャワーを浴びたらすぐに寝る。
そんな、慌ただしい生活をしていた。
クビツェクいわく、それが見ていられなかったらしい。
「顔色、酷かったんだよ」
そういいながら、クビツェクはヒトラーの頬をつつく。
ぱちぱちとヒトラーがまばたきをすると、彼はふっと笑いながら、いった。
「アドルフ、君は隠してたつもりかもしれないけど……あれで誤魔化せるのは付き合い浅い人だけだよ」
フィアさんたちも気づいて気にしてたよ、とクビツェク。
ヒトラーはそれを聞いて、少し決まり悪そうに目を伏せた。
「……やることは、やらないと」
「君がそういう性格なのはよく知ってるよ。だから、僕が提案したんだ。
今日一日を、アドルフの休暇にしてあげよう、って」
そういいながら彼はふわりと微笑む。
ヒトラーは驚いたように目を丸くしたが、すぐに首を振った。
「グストルの気持ちはすごく嬉しい、でも……」
「みんな了承したよ?ゲッベルスも、ゲーリングも、他のみんなも……
他の部隊の人たちも、みんな」
アドルフが頑張ってるのはみんな知ってるしね、とクビツェクは言う。
みんな、とは。
いったい、どういうことだ?
そういいたげなヒトラーはふと自分の書類机の方へ視線を向けて、驚く。
そこは綺麗さっぱり、片付いていた。
「え、グストル、書類は……」
「全部片付けた。だって、あったら君、仕事のこと考えるだろう?」
分散して頼んだり単純に片付けたりしたよ、とクビツェクはいった。
そういえば、部屋もずいぶんと綺麗に片付いている。
……彼はいったい何時に起きて、そして何をしていたんだ?
「グストル、いったい……」
「ふふ、アドルフが起きる前に全部準備しちゃいたくて」
そういいながら、クビツェクは香ばしい香りをたてるパイを運んできた。
アドルフもこっちに来て、と言う彼の言葉にしたがって、ヒトラーもテーブルの方へいった。
そこに腰かけると、クビツェクが自分が焼いたのであろうパイを切り分け始める。
そして彼はいった。
「アドルフはすぐに頑張りすぎるし、それを誰にも言おうとしないから……そんな君が好きだけど、悪い癖だよ?」
僕としてはもう少し頼ってほしいなぁ。
そういいながら、クビツェクはふわりと微笑む。
そして、彼は今回の計画を説明した。
「流石に、ずっと休みって訳にはいかないけどさ、たまには仕事を忘れてほしいんだよ。
だから、みんなに相談して、アドルフの仕事を分散してみんなでこなすことにしたりして……今日一日が空くようにしたんだ。
アドルフがやらないといけない仕事はさすがにダメだったけどね」
それ以外の仕事は、仲間内で分けてこなすことにしたらしい。
昨夜言われた魔獣退治も、書類の確認作業も、全部。
それを聞いてまばたきをしたヒトラーは小さく呟いた。
「私の、ために?」
クビツェクが差し出したパイの皿を受け取りながら、ヒトラーは言う。
クビツェクは一瞬、動きを止めてから頷いた。
「……うん、それが一番なんだけどさ」
そこで何故か、クビツェクは言い淀んだ。
どうしてだろう、とヒトラーが思うと同時に、彼は照れたような、少し決まり悪そうな表情で言った。
「アドルフのためであるのは間違いないんだけど……半分くらいは僕の我儘かな」
「え?」
クビツェクの言葉は少し予想外で、ヒトラーはまばたきをした。
不思議そうな顔をする彼を見て微笑みながら、クビツェクは言う。
「最近、一緒にいられる時間少なかったからさ」
彼はそうポツリと呟く。
その声は少しだけ寂しそうで、ヒトラーは空色の瞳を見開いた。
クビツェクは自分の分の紅茶にひとつだけ砂糖をいれて、スプーンで混ぜる。
そして、静かな声で言った。
「アドルフが忙しいのは仕方ないんだけど……やっぱり、ちょっと寂しいしね、昔を思い出すから」
昔。
オリジナルの頃。
二人、離ればなれになったあとを。
その頃を思い出して、寂しいのだ。
クビツェクは、そんなようなことを言った。
なんてね。
そういいながら、クビツェクはティーカップに口をつけた。
ヒトラーはじっとそんな彼を見つめる。
食べないと冷めちゃうよ、と勧められたパイも紅茶も、彼の用意してくれる慣れた味がした。
いつもの、穏やかな、時間。
最近は確保できなかった時間だ。
そう思いながら、ヒトラーは紅茶に砂糖を放り込む。
一個、二個、三個……そんな彼の様子を見て、クビツェクは笑った。
「ふふ、久しぶりに見た、アドルフのその癖」
いったい幾つ砂糖入れるんだい?
そう問いかけるクビツェクは、本当に嬉しそうだ。
彼のそんな表情を見るのは、ヒトラーも嬉しい。
そう思いつつ、彼はパイと紅茶で少し遅い朝食をとった。
ごちそうさま、と彼が言うと、クビツェクはお粗末様でした、といいながら手際よく食器を片付けていく。
小さく鼻唄を歌いながら片付けをしている彼の姿を見ながら、ヒトラーはいった。
「私を休ませようと思ってくれたのは、わかった。
でも……どうしてそれがグストルの"我儘"になるんだ?」
朝食を食べている間は、他愛もない話をしていた。
幼い頃を思い出すような、穏やかな時間を過ごした。
ずいぶんと久しぶりなその時間が心地よくて、ヒトラーも先程のクビツェクの表情を忘れていたのだけれど……
思い出す。
先程、自分の我儘だと言ったクビツェクの表情を。
その理由を問うと、クビツェクは少し困ったような顔をした。
それから、ふっと息を吐き出して、ヒトラーがいる方へ戻ってくる。
そしてぎゅっと彼を抱き締めながら、言った。
「アドルフに休んでほしかったのは本当。
でも、僕がこの計画をたてたのはそれだけが理由じゃあないんだ」
ぎゅ、とクビツェクはヒトラーを抱き締める。
椅子に座ったままの彼は驚きと照れと困惑で固まる。
彼の様子にくす、と笑いながら、クビツェクはいった。
「アドルフは、仕事してるときには仕事しか考えない。
夜鷲の、頼もしい総統(フューラー)だ。
……僕は、そんな君の傍に居るには、平凡すぎて、役にもたてない」
そういってクビツェクは苦笑する。
それはちょっとした、コンプレックスのようなものだった。
最近は使えるようになったとはいえ、魔力の扱いには慣れていない。
剣術だって、拳銃だって、扱いなれてなんかいないから、戦闘も苦手だ。
書類の仕事ならいくらか手伝えるけれど、その仕事ならもっとなれた部下がたくさんいる。
……仕方ない、とは思う。
クビツェクは、軍人のフラグメントではないのだから。
でも、その一方でやはり少し、寂しさを感じていた。
「仕事してるときのアドルフは格好いいけど、僕が知ってる君とは少し違って見えるからさ」
そう呟いてから、彼はヒトラーから離れる。
そして、ふっと微笑みながら、ヒトラーの口元についたパイの欠片をとって、いった。
「……だから、僕のちょっとした我儘なんだよ。
アドルフを独り占めにして、一緒に過ごしたかったんだ」
この部屋で一緒に過ごしてるときは、君は僕のよく知る君だから。
二人きりで、一緒にゆっくりと過ごしたかった。
一日だけでも良い。
二人きりで……
ヒトラーはそういうクビツェクを見て空色の瞳を瞬かせる。
それから、少し照れ臭そうに目を伏せながら、いった。
「それは……別に、我儘では、ない。私も、嬉しいし……」
ヒトラーだってそう思っていた。
ここ最近、クビツェクとゆっくり話す時間もなくて、寂しいと。
仕事のときに呑気にしている訳にはいかないからと我慢していたけれど……
「だから……今日は、二人で、ゆっくりしよう。
……せっかくグストルたちが用意してくれた、休みだから」
二人で、ゆっくりしたい。
……二人で。
ヒトラーがそういうとクビツェクは本当に嬉しそうに微笑んだのだった。
―― Holiday ――
(僕がよく知る君の姿。
僕が知らない君の姿も、今はそばで見ていられるけど…)
(今だけでも良い。
此処にいて、一緒に、二人きりで……)