静かでヒヤリとした、石牢。
そこに入れられている黒髪の少年……シュタウフェンベルク。
あの堕天使たちに捕まってからどれくらい経つだろう?
もう、かなり経つだろうか?
時間がわからないために、感覚は完全に麻痺してしまっていた。
と、そのとき。
カツン、カツン、と石畳を踏む音が聞こえてきた。
静かな足音、ノアールか。
そんなことがわかるようになってきた自分が悲しい。
そんなことを思っている間に、彼の……ノアールの姿が見えた。
彼は冷たい黒の瞳でシュタウフェンベルクを見据えつつ、言う。
「……気分はどうだ」
そう問いかけるノアール。
シュタウフェンベルクはふいと目を背けつつ、いった。
「ああ、最悪だな」
「それは何よりだ」
ノアールはシュタウフェンベルクの皮肉にもさらりと答え、牢のなかに入ってくる。
いつもならばそのまま、何らかの実験を始めるところだが……
今日は、しない。
怪訝そうにシュタウフェンベルクが彼を見上げると、
ノアールは彼を見下ろしたまま、いった。
「……貴様を兄と慕う、あの操り人形」
ポツリ、呟く声。
それはシュタウフェンベルクに向けたものではなく、彼の独り言だったのかも知れない。
しかし、シュタウフェンベルクはその言葉に思わず反応した。
眉を寄せながら、彼は問い返す。
「ぺルのことか」
「あぁ」
彼の言葉に、シュタウフェンベルクは眉を寄せる。
そして、ノアールに言った。
「ひとついっておく、あの子は人間だ、人形じゃない」
彼がそういうと、ノアールはすっと漆黒の瞳を細めた。
そして小さく鼻を鳴らしながら、言う。
「現実逃避は無意味だ。
あいつは人間じゃない……俺と同じように」
その言葉にシュタウフェンベルクは更に眉を寄せた。
そして、険しい声で言った。
「貴様と同じにするな。
ぺルは、優しくて可愛い、私の弟だ」
愛しい弟。
彼は、人形ではない。
彼は……ペルは、いたって普通の人間だと彼は言う。
それを聞いて、ノアールは眉を寄せる。
そして、嘲るような声で言った。
「……泣かせるな。
だが、どんなに主張しても同じこと……
貴様と彼奴は、同じ人間ではない、兄弟であるはずがない」
血の繋がりもあるまい。
そもそもの話、人間ですらない彼を、一体どうして弟といえようか。
ノアールはそういう。
それから溜め息を一つ吐き出して、静かな声で言った。
「……彼奴にももう一度言い聞かせねばな……
おかしな勘違いをする前に」
そんなノアールの言葉にシュタウフェンベルクは目を見開いた。
そして自由の利かない体で立ち上がろうとしながら、言った。
「!ぺルには、手を出すな!」
そう叫ぶ、シュタウフェンベルク。
それを聞いてノアールは口元に笑みを浮かべた。
「何だ、いきなり元気になったな」
馬鹿にするようにそういうノアール。
シュタウフェンベルクはそんな彼を睨みつけながら、言った。
「どうしてあの子にそれほど強く当たる?
仲間だったんだろう?!
もうこれ以上、あの子を苦しめるようなことをしたら……!」
許さない、とシュタウフェンベルクは言おうとした。
しかしそれより先に、ノアールが動く。
座りかけた彼らを床に押し倒し、低い声で、言う。
「煩い」
低く冷たい声。
先程までの声とは明らかに違う雰囲気に、シュタウフェンベルクは思わず固まった。
そんな彼に馬乗りになりながら、ノアールは低く、冷ややかな声で、言った。
「貴様に、何がわかる……?
仲間?笑わせるな……俺たちの間にあるのはあくまで契約関係だ」
淡々と語るその声に、抑揚はない。
それが逆に恐怖を煽る。
「主は自らの忠実な駒としてぺルを選んだ。 ぺルは命令に従う契約で肉体を得た、
主の命令に従うことをやめ、一人勝手な行動をとるようになった彼奴は、
死をもってその契約を終える必要がある」
―― 死をもって。
そう繰り返す、ノアール。
その言葉を聞いて、シュタウフェンベルクは叫ぶように言った。
「やめろ!あの子に手を出すな!」
必死の声。
それにノアールは静かにシュタウフェンベルクを見下ろした。
シュタウフェンベルクはそんな彼を睨みながら、怒りで震える声で、言った。
「今までずっと苦しんできたあの子が幸福になるのを何故止めようとする……
もう、良いだろう、救いをやっても……!
本当に、貴様は冷酷だな……」
彼を自由にしてやれば良い。
それなのに何故、貴様は彼の幸福を……――
そうシュタウフェンベルクがいうのと同時。
ノアールが漆黒の瞳に強い光を宿した。
そして、彼はシュタウフェンベルクの首を絞めあげた。
「っく……」
苦しげに息を洩らす彼。
それを見下ろすノアールの漆黒の瞳には強い憎悪の光が灯っていた。
シュタウフェンベルクの首を離す、ノアール。
激しく咳き込む彼。
その襟首を掴みながら、ノアールは叫んだ。
「煩い……煩い煩い煩い!」
怒りの、憎しみの籠った声。
ヒステリックに叫ぶその声に、シュタウフェンベルクは少し怯む。
「貴様に何がわかる?!
長く苦しんだ、その末には救いがあるべきだと?!
笑わせるな!」
彼は強引にシュタウフェンベルクの上半身を引き起こす。
そして彼の体を地面にたたきつけた。
その痛みにシュタウフェンベルクがうめく間もなく、
ノアールは彼の体に思いきり蹴りを入れた。
「あ、ぅ……っ」
苦しげに声を洩らす。
それにも構わず、ノアールは暴行を続けた。
荒れ狂う獣のように。
痛みに、シュタウフェンベルクは体を縮める。
必死に体を庇う彼の背を、腹を、胸を、ノアールはむちゃくちゃに殴り、蹴る。
そしてもう一度彼の服の襟を掴んで、顔をあげさせた。
シュタウフェンベルクは苦しげな呼吸を繰り返した。
「はぁ、っ……は……」
苦しげに喘ぎ、痛みに顔を歪めるシュタウフェンベルク。
しかしノアールは攻撃を止めようとはしない。
ぎゅ、とシュタウフェンベルクの襟首を掴んだまま、彼は叫ぶように言った。
「温室育ちの御曹司に、教えてやる……俺の痛みを!」
再びシュタウフェンベルクの体は地面にたたきつけられる。
そんな彼を、ノアールは更に殴りつけ、蹴り飛ばした。
「ぐ、っ……う、ぅっ」
口の中に、血の味が広がる。
シュタウフェンベルクは顔を歪める。
ノアールはそんな彼を見つめながら、低く、冷たく、叫ぶように言った。
「痛いか、怖いだろうな?
だがどうせ助けは来ない……
此処には、貴様の味方はいない!」
その声は冷たく石牢に響くばかり。
助けを求めようと、悲鳴を上げようと、誰にもその声は届かない。
「どれほど傷を負おうが、死にかけようが、貴様を守り、助ける人間はいない……
その孤独を、絶望を、痛感するがいい……!」
そう叫ぶノアールの声は、悲痛。
シュタウフェンベルクには、その声の、言葉の意味が理解出来ない。
「う……く……何、を……いって……」
何を、いっている。
そう問いかけるシュタウフェンベルクの声に、ノアールは一度攻撃の手を止める。
「殴られても蹴られても耐える他なかった、助けに来てくれる人などいなかった、
そのなかで生き続けた俺の痛みを、苦しみを……温室育ちの貴様にも……っ」
「私、にも……?」
"にも"とは、一体……?
そんなシュタウフェンベルクの声に、ノアールはぐっと唇を噛みしめた。
そして、ぐいと自分の服を掴み、引っ張った。
ボタンが外れ、彼の肌がむき出しになる。
それを見て、シュタウフェンベルクは思わず目を見開いた。
「な……」
晒された肌。
そこには、無数の傷が、痣が、火傷の痕が、刻まれていた。
それにシュタウフェンベルクは言葉を失う。
青の瞳が、揺れた。
「この傷の、痣の、意味がわかるか……
幼い頃に実の親から振るわれた暴力でついた傷だ……
貴様を守り助ける兄しかいない貴様には一生理解できないだろうな……俺の、すべては」
そういうノアールの声は冷静で、冷たく……――
シュタウフェンベルクはその声に、言葉に、眉を寄せた。
先程とは、違う意味で。
「……お前、も……」
掠れた声を洩らすシュタウフェンベルク。
ノアールはその声に、目を細める。
シュタウフェンベルクは小さく息を吐き出すと、震える声をあげた。
「お前も、辛い子供時代を、送っていたんだな……」
その言葉にノアールは息を呑む。
そして……ぐ、と手に力を込めた。
そしてさらに怒りを込めた瞳で、シュタウフェンベルクを睨み付ける。
「……黙れ……っ!」
その声と同時。
シュタウフェンベルクの体をノアールは思い切り蹴り飛ばした。
「う……かはっ……!」
咳き込む彼。
ノアールはそんな彼に暴力を振るう。
先程までに、増して。
「貴様の、そのお節介さが、余裕ぶった態度が、気にくわない……っ!」
全てが、気にくわない。
彼の恵まれた環境も。
仲間も、家族も。
憎しみに満ちた瞳で、ノアールは彼を睨みつけた。
「っ、う……はぁ、はぁ……」
咳き込むシュタウフェンベルク。
しかし彼は必死に彼の目を見据えながら、言った。
「ぺル、には……手を、だすな……
私が、すべてを……受ける、から」
自分はどれだけ痛めつけられても良い。
だから、彼は、彼だけは……――
そういうシュタウフェンベルクを見て、ノアールは眉を寄せる。
険しい表情を浮かべながら、彼は唇を噛みしめて、震える声で言った。
「そうして守られる彼奴も、気にくわない……」
その言葉の意味をシュタウフェンベルクが理解するより先、再開される暴力。
それに耐え忍びながら、シュタウフェンベルクは必死に意識を保っていたのだった……
―― 対となる… ――
(恵まれた、光の道を歩んだ彼と
闇の中、ただただ必死に生きた自分と)
(憎い、妬ましい、そんな感情。
あぁ、その余裕の表情が憎い、憎いのだ…)