ひやりと冷えた、物が頬に触れている感覚。
冷たく固い、石のような感覚。
ふわり、と浮上する意識。
ゆっくりと開いた緑がかった青の瞳に映ったのは冷たい石の壁と床、そして鉄格子だった。
「う……」
小さく呻いて、少年……シュタウフェンベルクは体を動かす。
上手く動かない体。
それでも必死に動けば、じゃらり、と金属の音が聞こえた。
何だ?
そう思って、視線をその音がした方へ向けるより先……――
「ふふ……目が覚めたかな?」
楽しそうに笑う声が、聞こえた。
それを聞いてシュタウフェンベルクははっとした顔をする。
それから、慌てたように視線をその声の方へ向ける。
「な……フォル?何故……っ」
その声の主……フォルは楽しそうに笑う。
そして小さく首を傾げながら、言った。
「おはよ、大佐殿。
気分はどう?まだ薬は抜けないのかな」
そういってくすくすと笑う、堕天使。
薬……
その言葉を聞いて、シュタウフェンベルクははっとした。
いつも通りに自室で仕事をしていた時。
あまり慣れない魔力を背後で感じた。
はっとして振り向くより先に動きを封じられ、
助けを求めるよりも反撃するよりも早く、口に布を押し当てられたのだった。
あれは、今思えばわかる。
あれは、あの気配は、フォルの部下であるノアールの気配だった。
普段自分の部屋に来るのがあの堕天使ばかりだったから、
その部下であるノアールの魔力にはまだ不慣れで、疎かったらしい。
シュタウフェンベルクが悔しげに顔を歪めるのを見て、
フォルは楽しそうに笑いながら、空間移動魔術でシュタウフェンベルクの傍に来た。
そして床……おそらく、石牢の床に寝そべった体勢のままの彼を覗き込みながら、
子供のように無邪気な笑みを浮かべつつ、言った。
「此処、僕の秘密基地だよ。
誰も知らない……僕とノアール以外はね?」
ペルさえも知らない場所だよ、とフォルは笑う。
それを聞いて、シュタウフェンベルクは怪訝そうに顔を歪めた。
「何故、そんな……」
何故そんな場所に自分を連れてきた。
シュタウフェンベルクがそう訊ねるのと同時、そんな彼の髪を誰かが掴んだ。
そしてやや強引に髪を引っ張り、頭をあげさせる。
「う……」
シュタウフェンベルクは顔を歪める。
痛みに呻く彼の目に映ったのは、漆黒。
聞こえた声はフォルの声よりもずっと低く、冷たい声だった。
「貴様の魔力は興味深い。
それを集中的に調べるために貴様を此処に連れてきた」
それは、ノアールの声。
冷ややかで無機質なその声に、シュタウフェンベルクは瞬きをした。
それから掠れた声を洩らす。
「調べる……」
自分の魔力を?
一体、どういうことだ?
フォルはそう言いたげなシュタウフェンベルクの瞳を見つめて、サファイアの瞳を細める。
そしてにっこりと微笑むと、彼は言った。
「そうだよ。
最適なサンプルだ……フィア以上にね?」
そういいながらフォルはシュタウフェンベルクの瞳を見つめた。
それから逃げれば、今度は代わりに漆黒の瞳とかち合った。
「逃げられまい」
低く静かな声で、ノアールはいう。
その言葉は重く、シュタウフェンベルクは思わず息を呑んだ。
フォルはそんな彼の右腕の付け根に触れながら、言った。
「君は片腕しかない。
足は、枷で留めてある。ふふふ、それで逃げられるかな、君は……?」
ねぇ?
そういって笑う、フォル。
その手つきにシュタウフェンベルクはびくりと体を震わせる。
そして必死にもがいて、叫んだ。
「っ、離せ、此処から……っ」
此処から出せ。
そういいながら、彼は必死にもがく。
そんな彼を見てすっと漆黒の瞳を細めると、ノアールが動いた。
しなやかな腕で、もがくシュタウフェンベルクを床に押さえつける。
「おとなしくしていろ」
低い声でそういうシュタウフェンベルク。
地面に押し付けられたシュタウフェンベルクを見て、フォルは小さく笑みを浮かべた。
「じゃあノア、後は頼んだ。
僕は後から様子見に来るから……
どうするかは、君に任せるよ」
そういってひらりと手を振ると、フォルは姿を消した。
石牢の中に残されたのは、シュタウフェンベルクとノアールのみ……――
ノアールは小さく息を吐き出すと、シュタウフェンベルクを見た。
そして口元に小さな笑みを浮かべる。
その表情にシュタウフェンベルクは思わず眉を寄せた。
フォルは、猫によく似ていると思う。
しかし、それと同時に、ノアールもそうに見えた。
……否。
フォルが猫だとしたら、ノアールは黒豹か。
隙を全く感じさせないその表情に、シュタウフェンベルクは少し身を強張らせる。
「さて……
どうしたものかな……」
そう呟きながら、ノアールはシュタウフェンベルクの顔をあげさせる。
相変わらず必死にもがいて逃れようとする彼を見て、
ノアールは不機嫌そうに顔を歪めた。
そして、シュタウフェンベルクの腕に手をかけたまま、
空いている方の手で、彼の額に触れながら、言った。
「とりあえずは、貴様の魔力を取り出すところからかな……?
いったい何をどうしたものか……」
そういいつつ、ノアールはシュタウフェンベルクを見つめる。
吸い込まれそうな、星も月もない夜の闇のような瞳。
それから逃れようと、シュタウフェンベルクは首を振った。
「暴れるな……
とりあえずは、どの程度、どんな影響があるかを調べるところからだな」
そう呟くのと同時。
ノアールの瞳が一度強く光った。
「うぁあっ、ぁ……っ」
シュタウフェンベルクの体が大きく跳ねて、震える。
苦しげな叫び声が、口から零れた。
魔力を流し込まれる感覚?
それとも逆に、魔力を無理やり引き出される感覚?
体の中を探られるような、苦痛。
逃れようのないその感覚に、シュタウフェンベルクは声をあげた。
しかし、その声を彼は必死に抑え込む。
悪魔の良いようにされて堪るものか、というように。
そんな彼を見て、ノアールはすっと黒い瞳を細めた。
「愚かな。
苦痛は、並大抵のものではなかろうに」
「……っは、ぁ……う、っく……
痛み、には……強い方で、な……」
そういって小さく息を吐き出す、シュタウフェンベルク。
それを見て、ノアールは更に目を細めた。
そして、呟くような声で言う。
「なるほど……
片目、片腕を失い尚今も騎士などという仕事を続けている時点で、そうだろうな……
中途な体の人間が、一体何処まで戦えたものか……」
嘲るようにそういうノアール。
彼は再びシュタウフェンベルクの額に手を当てた。
そんな彼を、シュタウフェンベルクは睨み付けて、言った。
「貴様も、同じ、だろう……っ
片翼の、悪魔に……一体何が、出来ると……?
所詮、堕天使に作られた、存在か……っ」
精一杯の抵抗。
しかしそれはノアールの逆鱗に触れる言葉だったらしい。
ギラリ、鋭く光るノアールの瞳。
それと同時、彼の手はシュタウフェンベルクの額から外れ、首にかかった。
「ッく、ッぁ……」
掠れた声が、漏れる。
シュタウフェンベルクの首を圧迫する、細くしなやかなノアールの手。
彼の膝はシュタウフェンベルクの胸の上に乗っている。
それも相俟って、彼は呼吸が出来なくなっていた。
「ぅ、う……っぐ、ぅ……」
苦しげに顔を歪める彼。
それを冷たく見下ろして、ノアールは言った。
「以前も言っただろう。
俺や主を侮辱するようなマネをしたら、貴様を殺すと……」
そういいながらノアールは手に力を込める。
更に首が絞まって、シュタウフェンベルクは息を詰まらせた。
必死にノアールの手を外そうとするが、片腕では力の強い彼の手を外すことが出来ない。
意識が遠のいていく。
抵抗するシュタウフェンベルクの手から力が抜けて、滑り落ちる。
それを見たノアールはふん、と鼻を鳴らした。
そして手を緩める。
「っか、は……っげほっ、げほ……」
シュタウフェンベルクは派手に咳き込んだ。
ノアールはぐったりと地面に倒れたままの彼に馬乗りになったまま、静かに見下ろした。
「……殺しては、実験には使えないからな……
主もそれを望むまい……
不本意だが、全てが終わるまでは生かしておかねばなるまい」
そういってシュタウフェンベルクを見下ろすノアール。
彼はじっと隻眼の少年を見下ろすと、低い声で言った。
「ただ、これだけはいっておく……
貴様の体の自由も、命の自由も、全て我々の手の内だ。
主は気まぐれだ……
貴様があまりに生意気な態度をとるようであれば貴様を殺すくらい容易く為すだろう」
静かな声でそう言い切ったノアールは口元に笑みを浮かべる。
そして悪意を灯した瞳でシュタウフェンベルクを見つめたまま、言った。
「さぁ、実験は始まったばかりだ……
貴様の魔力を、調べ突き止めるのが、俺の使命だ……」
そういって笑みを浮かべるノアールの背に片一方の黒い翼が広がる。
ひらりと舞った彼の羽根がシュタウフェンベルクの頬を撫で、薄い傷をつけていった……――
―― Captive ――
(逃がしはしないさ、大事な実験体(サンプル)だもの
さぁ、これからどんな君の姿を見ることが出来るかな?)
(焦ることはないさ。
時間は、嫌というほどたくさんあるんだから、ね?)