―― 事態は、思ったより深刻だった。
それが、最初にハイドリヒが抱いた印象だった。
***
ある、曇天の日の午後。
不気味なほどに静まり返った医療棟に美しい金髪の少年はいた。
やや足早に向かうのは、ひとつの病室。
辿り着いたその部屋のドアをノックすれば、
いつものような軽い調子で"どうぞー"と声が返ってくる。
それを聞くと、長い金髪の少年……ハイドリヒはひとつ息を吐いて、
ゆっくりとドアノブを捻った。
ドアを開ければ、真っ白い病室のベッドの上に座っている、見慣れた赤髪の少年と、
その脇にたつ緑髪の魔術医、
そしてそのパートナーであり副官でもある黒髪の少年の姿があった。
ベッドの上に座っている少年……アネットはドアを開けた人物を見た。
いつもならば、ぱぁっと顔を輝かせて、犬か何かのように飛び付くタイミングだ。
しかし、今日は違っていて……
「この人誰?スゴく綺麗な人だな」
不思議そうな顔をしつつ、ハイドリヒを見つめる。
そして、隣に立っているジェイドに"だれ?"と訊ねる始末だ。
「……本当、なのですね」
ハイドリヒは低い声でそう呟いた。
その言葉にジェイドの隣にいた黒髪の彼……メンゲレが小さく頷く。
ジェイドは不思議そうな顔をしているアネットに、
今部屋に来たのが誰なのか、を説明している。
それを横目で見て、ハイドリヒは小さく溜め息を吐き出した。
―― アネットが記憶を無くしたらしい。
そんな連絡が入ったのは、ほんの少し前のことだ。
自室で仕事をこなしているときに鳴り響いた通信機。
嫌な予感は、していた。
そして、そんな予感がやたら当たってしまう自分を憎んだ。
任務中に魔術にかけられたというセンが濃厚らしい。
頭を打って記憶がとんだ、という風ではなさそうだというのだ。
そんなことが起きるなら彼は今まで何度もしているだろう、とも。
ハイドリヒはメンゲレの深緑の瞳を見つめて、
静かな、でも少し苛立ったような、焦ったような声で訊ねた。
「……魔術で、というのなら……いつ、元に戻るのですか」
その問いかけに、メンゲレは目を伏せる。
状況が芳しくないことは、目に見えていた。
メンゲレは言葉を選びつつ、ハイドリヒに真実を告げる。
「……僕たちにも、わからないのです。
明日かもしれないし、一週間後かもしれないし、もしかしたら……」
その仮定は、メンゲレも口には出さなかった。
しかし、この場にいる人間はほぼ全員"その可能性"を理解している。
ただ一人アネットを除いては。
深刻な顔をする三人。
そんな彼らを見ていたアネットは"えっと"と小さく声をあげた。
そして、ハイドリヒの方を見ながら、いう。
「……あのさ、俺、アネット。アネット・ホークルス?っていうんだ」
よろしくな、とアネットはぎこちなく笑った。
自分の名前さえ名乗るのがたどたどしい。
本当に、完全に忘れてしまっているらしい。
自分のことも、ジェイドたち仲間のことも、
……恋人である、ハイドリヒのことも。
「……ハイドリヒ」
大丈夫ですか、とジェイドが目で問いかけてきた。
自分が愛しいと思う人間に忘れられると言うのは、精神的に結構きついものがある。
けれど、ハイドリヒは平然とした様子を装って、頷いた。
平気だ、というように。
そして彼はアネットのガーネットの瞳をまっすぐに見つめながら、
ゆっくりとした口調でいった。
「……ラインハルト。
ラインハルト・トリスタン・オイゲン・ハイドリヒといいます」
ハイドリヒとしてはゆっくり区切って名乗ったつもりだったが、
ミドルネーム等持たない彼には追い付けなかったらしい。
「ちょちょ、ちょっとまって!」
まってまって、と焦ったように言う彼。
その表情はいつも通りの彼で、少しほっとしたような……
余計に、悲しいような気持ちを抱いた。
ハイドリヒはそんな感情をかき消して、首をかしげて、"なんですか"と問いかける。
アネットはほっとひとつ息を吐き出すと、ハイドリヒに問うた。
「ラインハルト、が名前?」
「えぇ」
「ハイドリヒ、がファミリーネーム?」
「そうですが」
こくり、とハイドリヒは頷く。
こんな当たり前のことを彼に訊かれるなんて……と思うと胸を微かな痛みが走った。
まさか、彼にまたフルネームで自己紹介をすることになるなんて。
以前、カナリスとアネットと三人でした会話を思い出す。
アネットは色々な面において物覚えが悪くて、
いつも呼んでいる"ラインハルト"というファーストネームはしっかり覚えていても、
彼のファミリーネームは若干怪しく、
ミドルネームにいたってはちっとも覚えていなかった。
しかし、ミドルネームはハイドリヒが潜入捜査で使うこともあるし、
何より恋人のフルネームくらい覚えていなさい、という
二人のツッコミでどうにかしっかり覚えていたようだった。
その時のことを思い出しつつ、ハイドリヒはゆっくりともう一度名前を繰り返す。
それを聞いた彼はそっか、と頷く。
ピンと来た様子は、ない。
名前を聞いたからと思い出すことは、ないようだ。
この調子だと、多分ジェイドやメンゲレが呼んだように"ハイドリヒ"と呼ばれそうだ。
ハイドリヒは少し、覚悟した。
―― しかし……
アネットは明るく笑って、"じゃあ……"といった。
「じゃあ、ラインハルトって呼ぶよ!」
「え……」
少し、驚いた声をハイドリヒはあげる。
ジェイドとメンゲレも同様だったらしい。
アネットはそんな三人を見て、少し驚いたような、焦ったような顔をした。
「え、え……?そう呼んだら、まずいのか?」
「……いえ。貴方が記憶をなくす前も、私のことはそう呼んでいました」
「覚えていた、のですか?アネット」
ジェイドの問いかけに、アネットはゆっくり首を振った。
反射的に呼んだ、というか……
「そう呼びたいだけ、なんだけど……」
駄目だった?というようにハイドリヒを見上げるアネット。
ハイドリヒは暫し動揺を悟られぬよう視線を伏せると、
ひとつ溜め息を吐き出して"構いませんよ"と返した。
よかった、と笑うアネット。
それをまじまじと見つめるハイドリヒ。
そんな二人を見て、ジェイドは少し考え込む顔をした。
そして、ハイドリヒの方を見ながら、探るような声でいう。
「……ハイドリヒ、少しアネットを頼んでもよろしいですか?
貴方と二人でいたら……
もしかしたら、何か思い出すこともあるかもしれません。
無論、貴方には辛い思いをさせてしまいかねないので、嫌なのであれば……」
「構いませんよ」
ハイドリヒはジェイドの言葉を遮って、そういった。
構わない。
傷つきは、しない。
彼が、忘れたくて忘れたことではないのだから。
ハイドリヒはそう思いながら、ジェイドの"たのみ"を聞き入れた。
その言葉を聞いてジェイドとメンゲレは顔を見合わせて、静かに部屋を出ていった。
何かあったら連絡を下さい、と言い残して。
***
ジェイドとメンゲレがいなくなると、
アネットもハイドリヒも言葉を発しなくなって、
暫し部屋を沈黙が支配した。
元々喋り好きなアネットが黙り込んでいるのは何だか変な感じがしていたし、
アネットはアネットで居心地悪そうにベッドの上でもぞもぞしていた。
そして、何やら意を決した表情を浮かべると、
ハイドリヒの方を向いて、声を出した。
「……なぁ」
「何ですか?」
ハイドリヒが視線を向ければ、アネットは少し迷う顔をする。
しかし、ハイドリヒをまっすぐ見つめると、いった。
「……俺と、ラインハルトって仲悪かった?」
その問いかけに、ハイドリヒは大きく目を見開いた。
どうして、そんな結論に至ったのだろう。
そんなハイドリヒの心の声が聞こえたように、アネットはいう。
「何となく……嫌われてる、のかなって。
ラインハルト、俺の方向いてくれないし……」
その言葉に、ハイドリヒはまばたきをして、少し苦しげに眉を寄せた。
顔を見られないのは切ないからだ。
いつも通りの明るい顔で、無邪気な表情で見つめられると苦しい。
その瞳のなかに、心のなかに、今自分はいないのに。
そう思うと苦しいから、視線を逸らしていたのだけれど……
それゆえに、アネットは不安になっていたらしい。
窺うように視線を向けながら、アネットはハイドリヒにいった。
「……もし、迷惑なら帰っても大丈夫、だぞ?」
「……仲悪くは、ないですよ。
寧ろ……良かった、のでしょうね」
私たちは、とハイドリヒは言う。
その言葉にアネットは少し驚いた顔をした。
自分と全く違うタイプのハイドリヒと仲がよかった、と聞いて驚いているらしい。
ハイドリヒはそこでまっすぐにアネットを見つめた。
そして、言う。
「……いつも傍にいたんですから、私たちは」
「傍に?」
不思議そうな顔をするアネット。
ハイドリヒは小さく頷いた。
「えぇ。
……離れているのは、互いに任務の時くらいではないかと思うくらいに」
任務が終われば互いに互いの帰りを待った。
合流したあとは、そのまま食事に向かったり、剣術の訓練をしたり、
街に出ていったり……色々な、ことをした。
いつも一緒にいた。
それは、決して語弊や誇張ではない。
アネットはそんなハイドリヒの言葉に暫し驚いたような顔をしていた。
「そーなんだ」
「……えぇ」
覚えていない、のか。
否、記憶喪失というくらいなのだから覚えていなくて当然、なのだけれど……
いざそれを再確認させられてしまうと、苦しいものがあった。
ハイドリヒは顔を伏せ、ひとつ息を吐き出した。
そして、冷静さをある程度取り戻すと……
まっすぐに彼を見つめ、いう。
「私は、貴方と一緒にいることを嫌ってなどいませんし、
いつも一緒にいたのですから、その……――」
「じゃあ、一緒にいる!」
ハイドリヒの言葉を遮っての、宣言。
やや驚いた表情を浮かべるハイドリヒを見て、
アネットはにかっと笑った。
「一緒にいたら、思い出せるかもしれないじゃん?
それに……俺、もっとラインハルトのこと知りたい!」
その人懐っこさは、強引さは、いつも通り。
そして、彼がのべた"知りたい"という言葉も……
容姿の美しさや能力の高さゆえに見るのではない、
彼の優しさを暖かさを、そしてそれを初めて手にいれた時を思い出して、
ハイドリヒは少し、苦しくて虚しい気分になった。
そんな彼の表情を見て、アネットはまた少し不安げな顔をする。
「……もしかして、迷惑?」
「調子が狂いますから……傍に、いなさい」
ハイドリヒはそういうのが精一杯だった。
命令口調。
けれどそれは、切実な彼の思いで。
―― 一瞬だけ、考えた。
これを機会に彼を手放してしまえれば……楽に、なれるだろうか。
忘れてしまっているのなら、貴方のことなど嫌いだといって彼と別れられる。
そうしたら、楽になるのではないか?
誰が?……彼が。
ハイドリヒは、少しだけそう考えた。
でも、思い出したときに自分が拒絶したと知れば、きっと彼は傷つく……
だから、本当のことを告げた。
……そんなことが建前であることは、ハイドリヒ自身もよくよく理解している。
本当は、自分が……手放したく、ない。
傍にいろ、という言葉も彼がいつもそういっていたから、というわけでなく、
自分もそう願っていたから、そういったのだ。
「……早く……――」
呟いた言葉は、静かな病室に消えて。
"どうかしたか、ラインハルト?"と心配そうに問いかける彼の赤い頭に、
ハイドリヒはやや乱暴に自分が被っていた軍帽を被せた。
―― Lost… ――
(ラインハルト、これじゃ前が見えないよ、真っ暗だよ、と彼は笑いながら訴える
そんな風にいつも通り過ぎる貴方を見るのは逆に苦しくて)
(思い出すならどうか、早く思い出して
このまま私を覚えていない貴方を見ているのはあまりに辛いから)