慣れない部屋のなか……
金髪の少年は少し落ち着かない様子で勧められたソファに座っていた。
自分の部屋とは少し違う、医療棟にある来客用の部屋。
大きめのデスクの上に積み上げられた医学書だとか、
その椅子の上にある黒い医療鞄とか……この部屋の主らしい部屋だった。
と、座っているソファの前にある小さなテーブルにカップがおかれた。
暖かい湯気のたつ、紅茶の入ったカップ。
彼……ムッソリーニが顔をあげれば、にこりと微笑む淡水色の髪の彼の姿。
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
ムッソリーニが戸惑いつつ礼をいうと、淡水色の髪の彼……
カルセはムッソリーニが座っているソファ、彼の隣に座った。
てっきり向かいあった場所のソファに座ると思っていたために、
隣に座られて少しだけ動揺した。
そんな彼の表情を見て、カルセは悪戯っぽく微笑み、首をかしげる。
「何か、問題が?」
覗き込むように顔を見られて、ムッソリーニは慌てて首を振った。
そして、彼がいれてくれた紅茶を飲む。
彼のいう通り、あんな場所に立っていたために体はすっかり冷えていたらしい。
飲み込んだ温かな紅茶は体にじんわりと染み渡っていくようだった。
彼自身も一度ティーカップに口をつけると、ムッソリーニの方を見た。
そして小さく首をかしげつつ、いう。
「それで?さっきは何故、あんな場所に……?」
「え……」
カルセの問いかけに、ムッソリーニは幾度か瞬きをした。
彼はじっと、彼の方を見つめている。
ムッソリーニはまだ覚えていたのか、と思った。
こうしてついてきてしまったのは良いが、
正直……自分が彼処にいた理由を話すつもりはなかった。
話していたら……らしくない表情をしてしまう気がして。
ムッソリーニはカルセに向かって笑って見せる。
「……何でも、なかったんですって。
俺の仲間が外にいたから、それを見ていただけで……」
強ち嘘でもないことを言ってみる。
カルセはそんな彼の言葉に藍色の瞳を細めて、いった。
「仲間たちを見ていただけで、あんなにも寂しげな顔をしていたのですか?」
「な……」
少し、驚いた。
確かに、楽しそうに遊んでいる小さな騎士たちを見て、色々考えていた。
そうしているうちに、少し落ち込んだ気分になったのは事実なのだが……
ムッソリーニの表情を見て、カルセは目を細めた。
「顔、といったら語弊が生じますね。雰囲気が……といいましょうか。
楽しそうに遊ぶ仲間を見て微笑ましいと思っているだけ、には見えませんでした」
そう見えたのですか、とカルセはあくまでも冷静にいう。
「……気のせい、だと思います」
そういって、ムッソリーニはカルセに向かって笑って見せた。
いつもみたいに明るく、いつもみたいに勝ち気に。
「じゃ、俺もう帰ります。紅茶、ごちそうさまでした」
すみませんでした、といって帰ろうと思った。
けれど、ソファから立ち上がると同時に緩く腕を掴まれる。
そのままぐいと引っ張られれば、必然彼のすぐ隣に戻る結果になって。
間近で自分を見据えてくる彼の瞳。
ムッソリーニはまっすぐに見ることができずに、視線を彷徨わせた。
カルセはそんな彼を見つめ、いう。
「……良いのですよ、無理をして笑わなくても」
「え……」
ムッソリーニは息を飲んだ。
彼の言葉が、胸に響いた。
呼吸が苦しいような、胸が痛いような……
その息苦しさに、ムッソリーニは思わずぎゅ、と胸を抑えた。
カルセはそんな彼を見つめたまま、静かな声でいった。
「此処にいるのは私と貴方だけなのですから。
私の前でまで、辛いのを堪えて涙を堪える必要はありません」
そんな顔をしなくても良いのですよ、といいながら、
カルセは大きく、でもしなやかで柔らかい手で、そっとムッソリーニの頬を撫でた。
ムッソリーニは目頭が熱くなる感覚をおぼえて、慌てて首を振った。
「大丈夫ですって、何でもない、から……」
そういいつつ、ムッソリーニは一度俯いた。
俯いて、少し落ち着いてから、ちゃんと笑って大丈夫だと言わないといけない。
そう思ったのだけれど。
視界がじわりと滲むのを感じた。
慌ててそれを拭おうとしたが、それより先、
ぽたり、と雫が隣にいる彼の白衣の裾に落ちて、シミを作った。
「っ、ごめ……っ」
ムッソリーニは詫びつつ、頬を伝い落ちる涙を拭おうとした。
大丈夫、今ならまだ、欠伸しただけだと誤魔化せる、泣いてないと言い張れる……
けれど、一度緩んでしまった涙腺は簡単にはもとに戻ってくれない。
ぼろぼろとこぼれるそれを止めることは、出来ない。
ムッソリーニは顔を歪めた。
「何で……っ、泣きたくなんか、ないのに……止まらな……っ」
どうして、どうして、と呟く声は涙で潤んで、揺れている。
ごしごしと目を擦って涙を止めようとする彼の手首を、カルセは優しく掴んだ。
びくり、とムッソリーニが体を強張らせる。
涙に濡れた眼でカルセを見つめれば、彼は穏やかに微笑んで……
「っ、……」
「泣きたくない、何て嘘でしょう……
心の何処かでは泣きたいと思っているのでしょう?
大丈夫……無理に止めようとしなくて良いのです。
自然に止まるまで待っていれば良いのですよ」
カルセはそういいながら、そっとムッソリーニを抱き締めた。
驚いたように、或いは少し怯えるようにはねた体を優しく抱き締めて、
子供を宥めようとするように、そっと背中を叩く。
ムッソリーニはもがいた。
彼の胸元に顔を埋めているような形になっている。
こぼれた涙は止めどなく、彼の白衣に染み込んでいることだろう。
「っ、離し……」
「大丈夫ですよ、白衣汚してしまっても」
優しく背中に回された手が、ゆっくりと背中をさする。
大丈夫、と囁く低い声は暖かくて、安心できて……
もう、限界だった。今まで堪えてきた涙が、思いが、迸る。
「っ、うぅ、……っ、ぁあ……」
ムッソリーニの口から、いっそう激しく嗚咽が洩れた。
ぎゅう、とカルセの白衣を握りしめて、彼の胸に顔を埋めて、激しく泣く。
彼(カルセ)のいう通りだった。
皆の前では笑顔でいても、内心不安なことはたくさんあったし、
泣きたい時だってたくさんあった。
ムッソリーニだって、まだ17の少年なのだ。
一度壊れた涙と感情の防波堤はもはや役割を果たしてはくれず、
ただただ、今まで押し込めていた苦しさを吐き出すかのように、彼は泣いた。
きっと、他の仲間が見たら驚くだろう、というほどに。
「大丈夫ですよ。苦しかったでしょう、ずっと堪えていることは」
カルセはそういいながら、泣きじゃくるムッソリーニを抱き締めていた。
優しく、優しく、背中を擦りながら。
やがては、ムッソリーニが泣き疲れて眠ってしまうまで。
力が抜けたように自分の体に寄りかかる彼を、カルセは易々と抱き上げた。
長身で、尚且つ草鹿の騎士にしては珍しく腕利きの剣士であった彼にとって、
十センチも背が低いムッソリーニの体を抱き上げるくらい、容易なこと。
「部屋は、何処かわかっていますしね……」
そう呟きつつ、彼は抱き上げたムッソリーニの体を揺らさないようにしつつ、
ゆっくりとした足取りで、ムッソリーニの部屋に彼を運んでいった。
一応、彼の思いを尊重して途中、他の人間に会うことがないように気を使いながら。
***
その、翌日……――
「ん……あ、あれ……?」
目を覚ましたムッソリーニは一瞬何があったのかと混乱した。
いつ、自分は自室のベッドに帰ったんだ。
そもそも、自分は何をしていたんだ。
そう考えて……すぐに、思い出した。
廊下で声をかけてきた淡水色の髪の彼。
彼の部屋で話したこと。
彼の優しい言葉と、微笑みと……暖かい、体。
そこまで思い出して、ばっと顔が熱くなるような羞恥が込み上げてきた。
「らしくない、にもほどがあったよな……
ついでに、あのときまだ夕方だったのに」
ムッソリーニは部屋を見渡した。
窓から射しいってくる光は眩しい。
すっかり夜が明けている。
一晩そのまま寝入ってしまったらしい、とムッソリーニは思わず苦笑した。
泣くことにはなかなか体力を使うらしいな、とやや的はずれなことを考えながら。
とりあえず、夕飯も食べにいっていないし、腹は減った。
でも……夕飯も食べにいっていないことから、他の友人たちは心配しているだろうか。
「……ま、ヒトラーたちには昼寝してたら朝が来てた、とでもいうか」
そんなことを言えばきっと呆れられるだろうが、それでいい。
それが、いい。
自分は、彼らの前では笑顔でいたい。
そう思いつつ、とりあえず洗面台に向かった。
目を擦るのをすぐに止められたために目はあまり腫れていない。
その事にほっとしつつ、ばしゃばしゃと冷たい水で顔を洗った。
鏡を見て、笑う。
いつも通りに、明るく笑えているかを確認した。
「……よっし」
ぱん、と軽く自分の頬を叩いて、それからムッソリーニは自室を出た。
***
どうにか泣いていた痕跡を誤魔化すことに成功すると、
ムッソリーニはいつも通りに食堂に向かっていた。
恐らくこれくらいの時間ならば、皆いるだろうと思いながら。
―― その、道中。
ちょうど、食堂の方から見慣れた姿が歩いてきた。
風に揺れる、長い水色の髪。
「あ……っ」
「おや、おはようございます」
向こうから歩いてきた彼……カルセはムッソリーニの顔を見ると、
穏やかに微笑んでそう声をかけてきた。
彼はまるで何事もなかったかのように、接してくる。
泣いていた自分を慰めていたのは彼なのに。
多分、自分を部屋に運んでくれたのも彼なのに。
穏やかに細められる、藍色の瞳。
それを見て、ムッソリーニは少し気まずそうな顔をした。
「あ、えっと……昨日は、すみませんでした……忘れてくださいっ」
「私は気にしていませんよ」
大丈夫です、とカルセがいってやるとムッソリーニはにか、と笑って走っていく。
少し離れた食堂から、明るくて大きな彼の声が聞こえた。
カルセは彼が入っていった部屋の方を見て、溜め息を洩らした。
「……あんな、無理をした笑いかたをしなくてもいいのに」
ぼそり、と呟いた声は彼には届かない。
今ごろ彼は、食堂にまだいるはずの友人と話しているのだろう。
食堂に居合わせた彼の友人にそれとはなしに話を聞いてみれば、
仲間には、部下には、気付かれないように、
明るく振る舞っているのだろうということがよくわかった。
彼らの話からは、自分の腕のなかで泣いていた、
あの弱々しさは何処からも感じられない。
確かに、以前部下やその教え子たちから聞いた通りの、
"少し馬鹿っぽかったりもするけれど頼もしくて優しい人"だった。
けれど、周囲にそう思われている、そういう存在でありたいという彼自身の思いが、
彼を雁字搦めにしている気がしてならない。
泣きながら、彼は謝っていた。
泣いていることが悪いことででもあるかのように。
そんな必要はないのに。
泣いても誰も、怒りはしないのに。
「……少しずつ、リハビリしてあげるしかないですかねぇ……」
カルセは小さくそう呟いた。
友人の、部下の前で泣けとは言わない。
彼らの前で強く明るい人でいたいというのなら、
それを止める資格はカルセにはない。
けれど……
泣かないでいることは、ずっと笑っていることは、きっと苦しいから。
苦しいときに、泣きたいときに、ちゃんと、泣けるようにしてあげたい……
放っておけなかった。
殊更……昨日の、泣き顔を見ては。
そう思いつつ、カルセは自分の部屋に向かって歩いていった。
―― Crying… ――
(溢れる涙を必死に止めようとする様が痛々しかった)
(大丈夫、大丈夫、まだ笑っていられるよ
そういって、必死に涙を止めようとしていた…)