静かな研究室。紙が風に揺られる乾いた音が響く、静かな空間……
そのなかで、緑髪の魔術医は小さく溜め息を漏らしていた。
「なかなか、進みませんねぇ……」
そう小さく呟いた白衣姿の彼は机の上においてあった小瓶を指先で摘まんだ。
小瓶に入った色鮮やかな青色の液体。
それを見つめるは、翡翠の瞳……
翡翠の瞳の彼……ジェイドは机の上に積み重ねた書類を見て、
ふぅっと長い溜め息を吐き出した。
そこに刻まれているのは複雑な化学式……
化学分野に強いジェイドでも少々頭を悩ませるほど構造が複雑なそれ……
普段、草鹿の幼い騎士たちに教えているそれとは似ても似つかない資料は、
ジェイドが個人で研究を進めているある物質の資料だった。
……否、完全に一人でやっている訳ではないため、
個人というのは少々間違っているのだけれど。
―― と、その時。
「ジェイドさん?」
すぐ近くで声をかけられて漸くジェイドははっとした。
もう一人自室に人間がいることを忘れていた。
自室で一緒に仕事をしていたのに。
それほど研究に集中していたらしい。
ずっとジェイドを呼んでいたらしいその少年……
メンゲレは心配そうにジェイドの顔を覗き込んでいた。
ジェイドが黙り込んだり反応を返さないときは体調が悪いときであることが多い。
だからメンゲレは心配になったのだろう。
メンゲレは深緑の瞳でジェイドを見つめながら、訊ねる。
「大丈夫ですか……?」
「えぇ、大丈夫ですよ……
すみません。少し、考え込んでいただけで」
大丈夫です、とジェイドがいつものように返答すると……
メンゲレはそっと、手を伸ばしてジェイドの額に触れた。
冬の冷たい空気の所為か、少し冷たい掌。
ジェイドは彼のその挙動に驚いた顔をして翡翠の瞳を瞬かせる。
「……メンゲレ?」
「熱は確かに、ないですね……」
「もう……何ともないといっているのに」
ジェイドは苦笑を漏らして心配性な自分の副官に言う。
事実、体調が悪いわけではない。
そんなジェイドのリアクションに、メンゲレは少しむくれた顔をして、反論した。
「ジェイドさんの大丈夫、は宛にならないのですよ……」
「おやおや。それはメンゲレに言われたくないですね」
大丈夫でなくとも大丈夫だと答えるのはメンゲレも同じだ、と。
くすくす、と笑いながらジェイドはメンゲレの額を小突く。
その表情や仕種から彼の言葉が真実とわかったのか、メンゲレも表情を緩める。
そして、首をかしげつつ訊ねた。
「しかし……何を、考えていらっしゃったのですか?
何か資料を見ていらっしゃったようですが……」
「あぁ……これですよ。陛下から頼まれている、毒薬の研究です」
ジェイドは机の上においてある青色の液体が入った瓶を揺らす。
メンゲレはそれを見て納得した顔をした。
彼も、時々はあるがそれの研究の手伝いをしている。
構造を知るための薬品調合やレポートのまとめ、といったことを手伝っているのだが……
それだけでも、その研究が一筋縄でいかないことはわかりきっていた。
動物実験などを嫌うジェイドは基本的な構造がわかるまでは、
自分の知識と経験で思考実験を繰り返す。
大概の研究はそれで上手くいくのだから、
彼の技術や知識は人並み以上であるのだろう。
とはいえ、それにも限度はあるだろう。
この薬物……正式に言えば毒物は、ジェイドにそれを託した女性……
イリュジア王国王女、ディナの姉が作ったという、
世界にただひとつしかない水薬なのだから……
もしかしたら魔術で干渉したのかもしれないし、
そうなるといっそう構造の解明は困難になる。
ジェイドはそんなことを考えつつ、青い小瓶を揺らす。
そして小さく息を吐き出した。
「いっそ、口にしてみれば何かわかりますかねぇ……」
僕は毒薬には強い体質ですし、とジェイドが呟く。
いっそのこと自分が被験体になりましょうか、と。
何の気はなしに呟いたため一瞬流しそうになったメンゲレだが、
すぐにはっとした顔をした。
今の彼の発言は軽く流せるものではない。
「!ジェイドさん、それは……!」
ぎゅっとジェイドの手を握っていた。
確かにジェイドは毒薬に強いと話していた。
けれど、だからといって必ず大丈夫と言う保証はないし、
何より苦痛を感じることに違いはないというのだから、
はいそうですかと納得できるはずがない。
驚きと心配の両方を色濃く灯した彼の表情……
寧ろ、少し怒ったような顔をしている。
そんな表情で本気で止めにかかるメンゲレを見てジェイドは笑う。
「冗談ですよ、冗談」
「じ、冗談でもやめてください!」
怒りますよ!とメンゲレは言う。
確かに、冗談ですむ問題ではない。
ジェイドはもう一度彼に"すみません"と詫びてから、小さく溜め息を漏らした。
「ただ、本当にあんまり成果がないので、陛下に申し訳なくて」
焦っても仕方ないので少しずつ進めますけれどね、といってジェイドは席をたった。
不思議そうな顔をしたメンゲレに彼は言う。
「今から、とりあえずの報告をしにいくのですよ。
どの程度研究が進んでいるのか知りたい、と陛下が仰るので。
……そうだ。メンゲレも、一緒に来てくれませんか?」
ふと思い付いたようにジェイドは言う。
メンゲレはそんな彼の提案に深緑の瞳を大きく見開いた。
「え……」
「メンゲレにも時々研究を手伝ってもらっているのですから。
貴方のことも、陛下にきちんとお伝えしたいのですよ」
僕一人でやっていると思われるのはアンフェアです、とジェイドはいった。
手伝ってくれている自分の大切な助手、メンゲレのことも話しておきたい、と。
***
長い、長い廊下を歩く。
その間も、メンゲレは緊張した顔をしていた。
隣を歩いているジェイドを見上げて、彼は問いかける。
「ジェイドさん……本当に、僕も一緒にいって良いのですか……」
「勿論。
……貴方が行きたくないというのなら、強制するつもりはありませんが……」
ジェイドがそういうとメンゲレはぶんぶんと首を振った。
行きたくないなんてことなはない。
ジェイドが自分にも来てほしい、といってくれたわけだし、
大切な用事であることはわかっている。
しかし……緊張してしまうのもまた事実だ。
今から会いに行こうとしているのは一国の王女。
あくまでジェイドもメンゲレも一介の騎士だ。
ジェイドは緊張しているようすのメンゲレにくすりと笑う。
そのまま優しく彼の頭を撫でた。
「そんなに緊張せずとも大丈夫ですよ。
少なくとも一度はお会いしているでしょう?」
「それは、そうですが……」
確かに、此方の騎士団に移ってきたときに挨拶にいった。
気さくな女性であったことも覚えている。
けれどそれとこれとは、話が別だ。
「やれやれ……ほら、表情を緩めなさいな」
そういうや否や、ジェイドは軽くメンゲレの額にキスをおとした。
メンゲレは彼の行動に驚いて、そして羞恥で顔を真っ赤にした。
「じ、ジェイドさん!」
自室ならばともかく、此処は廊下。
しかも、騎士の棟ではなく王女の部屋がある棟だ。
ジェイドはメンゲレの言わんとしていることはわかっていると言うように頷く。
そして悪戯っぽく笑って、いった。
「場所を考えて、と?
……貴方がいつまでもそんな顔をしていると、もう一度二度、しますよ?
或いは、陛下の前でしてあげましょうか?」
ジェイドはそういいつつ翡翠の瞳を細める。
彼(ジェイド)ならやりかねない、とメンゲレは一つ溜め息を吐き出した。
その表情はいつものとおりに戻っていて、ジェイドはくすくすと笑う。
「それでいいのですよ……さ、いきましょう」
ジェイドはそういいながら、辿り着いたドアの前で軽く白衣を整える。
少しおいてから、ドアをノックした。
「どなた?」
「陛下、ジェイドです……今、お時間よろしいでしょうか」
「あら、ジェイド?どうぞ?鍵は開けてあるわよ」
あっさり返ってくる返事にメンゲレは苦笑を漏らした。
こんなに軽くていいのか、と。
普通、もう少し警戒してもいいようなものだろう。
ジェイドはそんなメンゲレの表情を見てふわりと笑うと、ドアを開けた。
ドアが開く気配に振り向く、茶髪の女性。
左右で色が違う瞳を見開いて、彼女は声をあげた。
「あら。通りで二つ気配を感じると思ったわ。貴方だったのね、メンゲレ」
「え、あ……はい、申し訳ありません……」
突然お邪魔して、とメンゲレは言う。
自分の訪問は予定外のもののはず。
やはり迷惑だっただろうか、と思ってしまう。
しかしそんな彼を見て女性……ディナは笑った。
「畏まらなくていいし謝らなくていいわ。
迷惑だなんて思っていないし一人で退屈していたところなの。
貴方にもまたあえて嬉しいわ?
折角この国に移籍してきたというのに、会う機会もないんだもの」
お久しぶりね、といってディナはメンゲレの手をぎゅっと握った。
そして小さく首をかしげて訊ねる。
「可愛い双子さんも、お元気?」
メンゲレの子供たちであるアントレとソルティのことだ。
そういえば彼らも王女とは面識があったな、と今さらのように思い出す。
子供好きなのか、或いは……彼女自身も双子だったからか、
アントレとソルティを可愛がっていたっけ、と思う。
メンゲレは穏やかに微笑んで、頷いた。
「二人とも、元気です」
「そう。それは何よりだわ」
また会いたい、とディナは無邪気な子供のように言う。
そして、目を細めて、悪戯っぽく付け足した。
「騎士たちも話していたわよ?貴方とジェイド、そしてアントレとソルティ……
四人で一緒にいるところが本当に家族のようだ、って」
「!」
「おやおや……そんな話が?」
ジェイドとメンゲレは顔を見合わせて、照れ臭そうに笑った。
確かに四人で一緒にいることは多かったが……
周囲の騎士たちにもそういう認識があったとは、と。
「ほほえましいわね……いつか、四人で遊びに来てちょうだい?」
ディナはそういって微笑んだ。
照れ臭そうに微笑んで頷くメンゲレと、
そんな彼の頭を撫でつつ"いずれ、近いうちに"と微笑むジェイド。
彼らを見て、ディナは穏やかに笑った。
「……あ、そういえば。研究資料を見せて、と頼んだんだったわね。
ごめんなさい、本筋から外れてしまって」
見せてちょうだい、とディナは言う。
ジェイドは持ってきた資料を彼女に渡す。
それをぱらっとみたディナは驚いた声をあげた。
「すごいわね……もうここまでわかっているの?」
「いえ……まだここまでで申し訳ない限りなのですけれど。
メンゲレも手伝ってくれるので、大分捗っているのですよ」
「あら……メンゲレも手伝ってくれているの?」
ディナは少し驚いた顔をしてメンゲレを見る。
そして柔らかく微笑んで"ありがとう"といった。
「よかった……ジェイド一人に背負わせるのは重すぎるかな、と思っていたの」
研究の内容が、だろう。
彼女の姉の命を奪った毒薬の研究。
それを一人でするのは重いだろう、とディナも心配していたという。
でも、といってディナは両の瞳を細めて、いった。
「貴方も支えてくれるならば、きっと大丈夫ね……
お願いしますね、メンゲレ。そしてジェイドも」
その言葉にジェイドは騎士の礼をする。
メンゲレも慌ててそれに倣った。
そして、ちらと隣のジェイドを見上げる。
彼の横顔には凛とした光。
迷いや、しんどさは感じない。
しかし、その実……先程のように考え込むことも多かったことを考えると、
きっと、彼も色々悩んだりしただろう。
確かに……彼は、一人で何でもこなそうとしてしまうから。
―― 僕が、支えることができれば。
メンゲレはそう思った。
彼の一番傍にいる人間として、支えることが出来れば良い、と。
だからこそ。
今の、ディナの言葉は嬉しかった。
"貴方がいれば大丈夫ね"という言葉は。
傍から見ていても、自分がジェイドの隣にいるのはおかしくない、と自惚れて良いだろうか。
「これからも、お願いしますね」
そういって微笑む茶髪の女性に、ジェイドもメンゲレも力強く頷いた。
―― Support ――
(貴方は器用で何でも自力でこなせてしまうから。
他人には見せない弱さを僕には見せてくれませんか?)
(貴方の傍にいるのに相応しい医師に、研究者になりますから。
だからどうか……僕を、傍においてください)