ある、雨が降る夜……
季節外れの嵐が到来していて、外では風が唸りをあげている。
叩きつけるように降る大雨が、窓にも当たって派手な音をたてていた。
そんな、深夜のディアロ城……
赤髪の少年は通いなれた廊下を歩いて愛しい人の部屋にきていた。
こんな酷い雨の日に遅くまで起きている人間は少なく、
廊下ですれ違う人間も一人もいなかった。
「ラインハルト、入るぞ?」
深夜に大声をあげて部屋に飛び込むほどアネットも非常識ではない。
若干抑えめの声をかけてから、アネットは静かに恋人の部屋のドアを開けた。
明かりは既に消えていて、部屋のなかは真っ暗だ。
風向きがちょうど悪いのか、雨が窓に当たる音が酷い。
この部屋の主……
ハイドリヒがそういったものを恐れるたちでないことはしっていたが、
彼が遅くまで任務に出ていたため、アネットは心配して此処を訪ねてきたのだった。
ちゃんと帰ってきているだろうか、と。
アネットは部屋の中から感じる気配にほっとする。
ハイドリヒはちゃんと部屋に戻ってきていた。
「よかった、ちゃんと帰ってきてたんだな……」
暗闇に目がなれてくると、アネットは少し驚いた顔をした。
ハイドリヒは窓辺にたっていた。叩きつける大雨をぼんやりと見つめている。
長い金髪は雨に濡れたのか、ぽたぽたと滴を垂らしていた。
「ラインハルト!?ずぶ濡れじゃん、お前……!」
恐らく、雨のなかを帰ってきたのだろ。
そしてそのままにしていた、と思われる。
アネットはそういうと自分が肩にかけていたタオルを手にとって、
窓辺に佇むハイドリヒに歩み寄った。
そして綺麗な彼の金髪に被せて、
なるべく優しく、でも急いでその髪の水分を拭き取る。
「風邪引くぞ、お前そんなに体強くな……」
強くないんだから、といいかけたアネット肩にこてん、と寄りかかるハイドリヒ。
そんな彼の行動にアネットは一瞬言葉を飲み込んだ。
そしてガーネットの瞳を瞬かせつつ、自分にもたれる彼を見る。
「……ラインハルト?」
「アネットさん……」
小さな声でアネットを呼ぶ彼の瞳は揺れていた。
不安の色。
寂しさの色。
彼がそういう表情を見せるときは大概気が進まない、体を使った仕事の時だから、
今日出ていた任務は、"その手の任務"だったのだろうか、とアネットは思う。
「どうした?なにか、怖いか?」
アネットが訊ねるも、ハイドリヒははっきりと答えない。
ふるふると首をふってアネットの胸に顔を埋めた。
「何が怖いのかも、何が不安なのかも……わからない、のです。
私は、どうしたら……?」
独り言ともとれる呟きを漏らすハイドリヒ。
その声は頼りなく震えていた。
普段のハイドリヒは絶対に弱さを晒そうとしない。
寂しさにせよ、苦しさにせよ、限界まで隠そうとしてしまう。
常に彼が見せるのは冷静な表情。
親しくない人間が見たらその表情は一切変化しないようにさえ見える。
冷たい、と人はいう。
何を考えているのかわからない、冷徹そうな人間だ、と。
器用で、淡々と仕事をこなす彼は、確かに近寄りがたいのだろう。
そして彼自身もそれを一切気にしていない気がした。
―― けれど。
その一方で、"そうでない彼"が存在することも、アネットは知っていた。
決して強くない。
弱く、脆くて、臆病な彼がいることを。
怖い、苦しい、助けて。
こうしてそう素直に縋ってくる"今"のが彼の本質だろうか。
それは、アネットにもよくわからないことだった。
過酷な環境のなかで次第に酷くなっていったという、この性質……
自分の弱さを圧し殺して、圧し殺して、隠した結果がこれだろうか。
そんなことを思うと、苦しかった。
彼が背負ってきた過去は、任務は、責務は、何れもこれも重すぎた。
殺人、諜報、捏造、拷問、処刑……
自分と同じような年頃、否……自分より二つ"も"年下の少年が背負うものではない。
アネットはそう思っていた。
彼の旧友であるカナリスから、或いは彼の部下であるシェレンベルクから、
かつての、そして今の彼の仕事内容を聞くたびに、
耐えがたい怒りと、自分の無力さをおぼえる。
彼が今まで耐えてきた苦しみを忘れさせることは出来ない。
彼が背負ってしまった十字架を共に背負うことも出来ない。
それが、歯痒かった。
出来ることはといえば……
これ以上彼が壊れてしまわないように、繋ぎ止めることだけ。
「大丈夫だよ、ラインハルト……」
アネットはハイドリヒをあやすように抱き締める。
細い体は頼りなく震えていて、口からは苦しげな嗚咽が漏れていた。
そんな彼のようすに眉を寄せつつ、アネットはそっと背中を擦る。
普段の彼ならば決して晒しはしないであろう表情。
それを、感じた。
強さと弱さ。
相反する"二人"。
そして前者は後者を嫌っている。
自分の中にある弱さを憎悪し、殺したがっていることをアネットは知っている。
「……―― 面倒、でしょう……?」
聞こえたのは、やや卑屈にも聞こえる声だった。
先程までの"彼"の、弱々しい声ではない。
アネットもよく知る、"普段の"ハイドリヒの声だった。
自分を嘲笑うかのようなその声色にアネットは顔を歪める。
彼のこういう声を聞くたびに、切ない気分になるのだ。
そんな声を出さないで。
弱い自分を嫌わないで。
弱くてもいい。
その弱さは、自分がどうにかカバーするから。
そんな思いで、アネットはハイドリヒを見つめる。
まっすぐな、そして心配そうなアネットの視線。
それからそっと視線をそらしつつ、ハイドリヒは呟くようにいった。
「……離して、ください」
ハイドリヒはアネットを見ることさえしようとせず、
そういってアネットの腕から逃れようと藻掻く。
こうして抱き締められているわけにはいかない。
弱くあってはいけない。強くなくてはいけない……
そういうかのように冷静さを、強さを、保とうとする姿。
"弱い彼"を知っているからこそ、その様子が痛々しく見えた。
アネットはゆっくりと首を振って、いった。
「面倒なんかじゃないよ。
ラインハルトは、ラインハルトだ。
俺は、どんなラインハルトも好きだよ」
「……その私自身が、"私"を殺したがっているとしても、ですか」
鏡に映る自分を見るたびに、堪らない気分になる。
その銀色の向こう側に映る"自分"……
錯覚とは理解しつつも、その鏡に映る自分は"自分"と違う気がしていた。
普段の自分とは違う、"弱い自分"の存在を感じる。
そして情けない弱さを晒す自分を、ハイドリヒは憎悪している。
いつか、いつか……きっと、この弱さが自分の、
そして自分の大切な人の首を絞める気がしていた。
それが"怖い"と感じる自分をまた憎悪して。
……無限ループだった。
アネットは自分の腕のなかで藻掻く彼を心配そうに見つめていた。
そして、静かな声でいう。
「……大好きだよ。"どっちも"ちゃんと、守るから」
アネットはそういって、逃れようとするハイドリヒの体を抱き寄せる。
泣いてはいない、それでも震えている華奢な体を。
逃がしはしない、離しはしない、壊しはしない……そんな思いで。
アネットにとって、ハイドリヒがどんな人間であるか、は問題ではなかった。
彼がどんな性格であろうと、強かろうと弱かろうと、"彼は彼"だ。
彼が縋ってくれるならばそれを全力で支えるつもりでいた。
彼が縋ることを躊躇うとしても心の何処かでそれを望むなら支えるつもりでいる。
その事だけは理解してほしかった。
そうでないと……彼が、本当に壊れてしまう気がしていた。
"弱い自分"を殺したら、きっと彼は本当に壊れてしまう。
今はこうして泣くことが出来るから危ういバランスを保てている気がする。
弱さを見せられなくなったら。
完全に心のなかに恐怖や不安を押し込めるようになってしまったら。
そうしたらきっと、彼の心は完全に壊れてしまう。
アネットはそう思っていた。
理屈なんてない、直感的に。
「ラインハルト、お前は一人じゃないから……俺が、ちゃんと傍にいるから」
苦しいことは俺にも預けて。
一人で飲み込まないで。
辛かったら縋っていいから……――
守らせてよ、とアネットはいう。
お前を壊したくはないんだ、と。
そんな彼の言葉にも暫し首を振っていたハイドリヒだが、
やがてその動きも止まり、微かな啜り泣きが聞こえた。
"もう、嫌です……疲れた"
そう呟いた声は弱々しくも自嘲気味でもあって。
―― なぁ、今のは……"どっちの"言葉?それとも、両方の思い?
アネットはそんな彼の様子に顔を歪めた。
雨だから不安定さが酷いのか。
嫌な任務だったから不安定なのか。
それはわからないけれど……――
くるくると入れ替わる弱い彼と強い彼。
その両方を抱き締めつつ、アネットは囁く。
―― Which is…? ――
(どっちが表でどっちが裏?
お前の本質はいったいどっちだ?お前の本心は…?)
(どっちのお前も大好きだよ。愛しいんだよ。
だから…一人で壊れていこうとしないで。
そうならないように俺はお前の手を握っているから)