夜も更けた、騎士の棟……
弱い明かりを受けて光る、白黒の盤の上に並んだ小さな駒。
それを細い指先で弄りながらふぅ、と息を吐くのは美しい金髪の少年。
開いた窓から吹き込んできた風が柔らかく彼の髪を揺らす。
前髪が目にかかって、彼は少し鬱陶しそうにそれを払い除けた。
きちんと決まり通りに並んだ駒。
一人で試合(ゲーム)をすることも出来るには出来るのだろうが、
それが面白いとは思わないし、こうして見ているだけである。
造形的には美しく、飾って置くにも十分な品物だ。
ハイドリヒはそれともなしに駒を見つめていた。
と、その時。
ドアがノックなしで開いた。
もはやお決まりとなったこのパターン。
ハイドリヒは溜め息をひとつ吐いて、ドアを開けた人間を見た。
注意しても無駄だとわかっているため、注意さえしない。
「お帰りなさい、アネットさん」
「おう、ただいま!」
やはり悪びれた様子もなくにかっと笑うのは、赤髪の少年……アネットだ。
彼は今日一日任務に出ていた。
それが終わって帰ってきたのだろう。
彼が任務を終えてからハイドリヒの部屋に来るのもほとんどお決まりのパターンだ。
飛び付いて来ないのは、彼の騎士服が汚れているからか。
見た感じ、土汚ればかりのようで怪我はしていないとわかり、
ハイドリヒは表情には出さず、ほっとする。
アネットはハイドリヒの傍まで来ると、
彼の手元にある珍しいものを見てまばたきをした。
「ラインハルト、何それ?」
「何って……チェスセットですよ」
見ればわかるでしょう?とハイドリヒは言う。
幾らアネットでもわからないということはないだろう、と。
アネットはその言葉に苦笑を漏らしてから、いった。
「いや、それは流石にわかるけどさ……
何でチェスセット?ラインハルトのか?凄い綺麗だな」
アネットは物珍しげにそれを見つめる。
元々家が商人家ということもあってか、
彼のこういうものに対する審美眼は案外確かだ。
ハイドリヒは指先でもてあそんでいた駒を定位置に戻して、首を振った。
「いいえ、借り物ですよ。
……アネットさんは、チェスはやりません、よね」
わかってはいるが、一応訊ねる。
アネットは答えを予想し尽くしたその問いかけにむぅっと頬を膨らませたが……
恐らく自分の返答が彼の予想通りのものであるため、おとなしく頷いた。
「やったことない。
フィアとかシストがやってるのは見たことあるけど……
俺はルールもわかんないし、やったこともないや」
「だと思いました……」
やっぱりな、というようなハイドリヒの態度に、
アネットはややむくれつつ、その駒を見つめた。
「駒の名前位はわかるぞ!えっと……これが、ルーク、だっけ?」
「それはビショップですね……形が全然違うでしょう」
キングとクイーンを間違えるならまだしも、とハイドリヒは苦笑した。
アネットは違ったかー、と唸っている。
記憶は曖昧だったらしい。
流石にこれ以上意地を張るつもりはないらしく、アネットはおとなしくなる。
「アルは結構得意みたいだけどなー」
「アルさんもやるんですね」
少し意外だ、という顔をするハイドリヒ。
彼の記憶にあるのは幼くあどけない顔をした白髪の彼の姿。
こういった頭脳戦だとかは、あまり得意そうに見えない。
アネットも同じように思っていたらしく、くっくっと笑いながらいった。
「俺もそう思ってたんだけどさぁ……
彼奴案外頭いいからな……ジェイド様に教わったっていってたし」
「あぁ、なるほど……」
ハイドリヒは納得した顔をした。
白髪の彼はともかく、彼の上官である魔術医は確かにこういうゲームは得意そうだ。
それに教えられたのならばうまくもなるだろう、と思う。
と、そこでアネットがハイドリヒの服をつかんで引っ張った。
「なー、ラインハルト。俺にも教えて?」
「そう来ると思っていましたけれど……覚えられます?」
結構複雑ですよ、と若干意地悪な口調で言うと、
アネットはあからさまに拗ねた顔をした。
「失敬だな!俺だって多分、覚えられる……!」
多分、のあとは若干語調が弱かった。
それが可笑しくてハイドリヒは少し表情を緩める。
そして、アネットの方を青の瞳で見据えると言った。
「まぁ、良いでしょう……私も今は時間もありますしね。
でも、とりあえずシャワーを浴びて着替えてきなさい。
汗かいたままだと風邪を引きますよ」
最近は朝晩はかなり冷える。
そのせいで体調を崩す騎士も決して少なくないのだ。
"馬鹿だから風邪引かない!"と豪語しているアネットだが、
万が一と言うこともある。
ハイドリヒの言葉にアネットは笑ってうなずく。
「ちょっと待っててな!」
そういって部屋を飛び出していったアネットを見送ると、
ハイドリヒはどうやって教えれば彼がちゃんと覚えられるか、と考え始めた。
***
そんなこんなで、アネットがシャワーを浴びて帰ってくると、
ハイドリヒは極力分かりやすくルールを教えた。
勉強ではなく遊びなのだから。
そこまで本腰をいれて教える必要もないのだけれど……
アネットが何故か真剣そのもので、ハイドリヒは不思議そうな顔をしていた。
「とりあえず、駒の名前と動かしかたは覚えました?」
「あぁ、多分……多分、大丈夫だ」
これは前後左右で、これは斜めで……とアネットは指差し確認している。
それを見ている限り大丈夫そうだな、とハイドリヒは思った。
そして盤の上に駒を並べる。
「試合形式のなかで覚えた方がいいでしょう。貴方は実戦派ですから」
「あぁ、それで頼む」
ハイドリヒもアネットの性格はよく理解している。
彼に座学は向いていない。
すぐに飽きてしまう。
今は教えているのがハイドリヒだから飽きることはないだろうが、
それでも頭への入りかたは実戦で覚える方が早いだろう。
「じゃあ、いきますよ。先行は?」
「白の駒!」
「正解です。はい、アネットさんからどうぞ」
アネットは笑顔をハイドリヒに向けると、
二列ある駒の前列に並んだポーンを指先で摘まむ。
そして二コマ先においた。
窺うようにハイドリヒを見つつ、彼はいう。
「これ、いいんだよな?」
「大丈夫ですよ。ポーンは最初の一手だけ二歩進むことができます」
案外教えたことをきちんと覚えているようで、ハイドリヒは感心した。
それとなしに誉めてやれば、
"教えてくれたのがラインハルトだからな!"との返事。
その返事は嬉しかったが照れ臭いため、
ハイドリヒはさっさと自分のポーンを動かす。
「はい、どうぞ。アネットさんの番です」
アネットは少々悩みつつ、ハイドリヒに教えられた通りに駒を動かしていく。
原則一歩しか進めず敵駒をとるときだけ斜めに進むポーン、
斜めなら何歩でも進めるビショップ、
前後左右ならば何歩でも進めるルーク……
アネットはすべての駒をとりあえず動かしてみるつもりのようだ。
ルールはともかくゲームメイクは無視だな、と苦笑しつつ、
ハイドリヒは少しずつ駒を進めていく。
キング、クイーンも動かしたところでアネットの手が止まった。
指先にあるのは、馬の頭の形をした駒だ。
「ナイト……って、どう動かすんだっけ」
アネットはそういうと適当に動かした。
ハイドリヒは"これは不規則ですからね"というと、
アネットの手に重ねてその駒を正しい位置に動かす。
「こればかりは慣れですから」
「うー……こいつだけはうまく使えないかも」
アネットはそういって馬の駒を指でつついた。
ハイドリヒはそんな彼を一瞥すると……
「……チェックメイトです」
ことん、と小さな音をたてて件のナイトの駒が置かれた。
アネットはぱちぱちとまばたきをする。
「え、チェックメイトて……」
「終わり、ということですよ。もうキングを逃がす術がないでしょう?」
ハイドリヒに言われてアネットは自分の陣を見る。
彼の言葉通り、何処に何を動かしてもキングはとられてしまう。
アネットは溜め息を吐くと、ハイドリヒを恨みがましげな目で見ていった。
「ラインハルト、俺に教えながらきっちり勝ってくるんだもんなぁ……」
大人げないー、とむくれるアネット。
ハイドリヒはさらりと答えた。
「それとこれとは話が別ですよ」
流石に初心者に負けるつもりはない、とハイドリヒ。
アネットはそんな彼らしい言葉に笑うと、
"もう一回!"とハイドリヒにせがんだ。
「……アネットさん、なんでそんなにチェスに拘るんですか?」
ハイドリヒは最初から気にかかっていたことをアネットに訊ねた。
ハイドリヒが知る限り、
アネットがこういうゲームを好きそうなタイプには思えない。
寧ろ、戦略だ策略だといったことで勝ちにいくゲームは、
アネットは嫌いそうなのだけれど……
アネットはそんな彼の言葉ににかっとわらって、
単純明快な理由をのべた。
「だってラインハルトはできるんだろ?
そしたら、俺も覚えたら一緒に出来るじゃん!」
「……それだけですか?」
「だけってなんだよ、だけって!
……まぁ、それだけだよ、理由」
そんな彼の言葉にハイドリヒは幾度かまばたきをした。
そして、ふっと笑みをこぼす。
「……たまには相手をしましょう。当分勝たせはしませんけどね?」
「あ、いったな!いつか負かす!ぜってぇラインハルトに勝つ!!」
アネットはそういって"もう一回!"ともう一度せがんだ。
ハイドリヒは仕方ないですね、といってからもう一度駒を並べ直す。
戦略策略を使わない相手と試合するのも面白いかもしれない、そう思いながら……
―― Game ――
(お前がやるゲームなら俺も覚えるよ!
いつか勝つからみてろよな!)
(直球勝負の彼には向いていない気もするけれど……
一緒にこうして試合をしてみるのも楽しいかもしれないな、なんて)