うちが抱きついた時。あるいは、好意の言葉を投げかけた時。困ったように笑うその顔を見て思う。
ごめんな。
「好きやなんて言うてごめんな」
誰よりも優しいあの子の瞳が、酷く傷ついたように揺れた。

「そんなこと、謝るな」
小さな声が静留の耳に届く。なつきは困った様に眉根を寄せて、静留を見た。
「やかて、あんた困っとるやない」
「そ、それは、お前が急に抱きついてくるから……」
「急やなかったらいいん?」
「……」
ほら、まただ。また、この子を悲しませてる。うちはひどい親友や。

−−−−−−

「うちが風華学園を卒業したら、なつきも寮出て一緒に暮らさへん?」
いつものように戯れついてきた静留がそんな事を言った。
「学校も分かれて、住むとこも離れたら、なつき、うちん事忘れてまうやろ?」
「忘れるわけないだろう」
「一緒に暮らして欲しいんや」
「……」
ほら、また優しい瞳が揺れてる。うちがほんまに唯の親友だったら「うん」と言ってくれるのだろうか。
「……冗談や」
「え」
「冗談やて」
抱きついていた体を離して「ほなな」と言って別れた。身体中がなつきの体温を覚えているうちに一人になりたかった。
なつきは言った。
「お前が好きだ」と。親友として。
「お前と同じ気持ちは持てない」とも言った。あんなにはっきりと。
今のあの子にとって、うちは何やろか?
親友やろか?
それとも、唯のしつこい女だろうか。

−−−−−−

裸の枝に新緑が芽生える季節になった。静留は学校の敷地をどこへ行くともなく歩いていた。早々に大学進学を決めた静留にとって、残りの授業なんて出ようが出まいが同じことだ。広い学園の中を歩いているうちに、花園に出た。
ああ、ここで、あの子に会うたんや。
時を戻せたなら、あの時に戻りたい。
純粋にあの子に恋した自分に。
汚い自分をあの子に知られる前に。
一陣の風が吹いた。まだ花の季節ではないから、あの時の様に花びらが舞い散ることはなかった。
静留は再び歩き出した。
昇降口の近くまで来て、そこにある学生専用の掲示板に目が止まった。
「同居人募集」「ルームメイトになりませんか」などと書かれた紙が重なる様に貼られていた。春が近づくと毎年見ていた光景だ。静留はその前を通り過ぎて、くるりと歩く向きを変え、もう一度掲示板の前に来た。
備え付けられている、紙とペンを取った。

−−−−−−

終業の時報が鳴って昼休み、なつきは席を立った。隣のクラスの舞衣と合流すると、いつもの中庭に陣取った。
暖かい陽光が2人を包んだ。
「ねえ、なつき。あの噂聞いた?」
「噂?」
「会長さんがルーメイト募集してるって」
「え」
「掲示板が凄いことになってるらしいよ」

放課後。なつきが昇降口へ行くと掲示板の前に人だかりが出来ていた。
もしやと思い、人垣をかき分けて掲示板を確認する。一枚の紙に書かれた綺麗な字は静留の物だとすぐに分かった。
「〇〇付近で同居できる方を探しています。ご連絡はこの掲示板で。藤乃静留」
その紙にはすでに隙間がないほど、名前と連絡先が書き込まれていた。書き遅れた者達が、新しい紙を追加してどんどんと名前を書き込んでいく。女子だけでなく男子まで参加して、まるで祭りの様な騒ぎだ。なつきはあっけに取られた。
あいつ!
なつきはその足で生徒会室に向かった。

−−−−−−

いつの間にか走っていた。
ガラ!
「静留!」
「なつき。どないしたん、そんなに慌てて」
静留は持っていた湯呑みを置いた。
「あの、掲示板の」
「ああ、あれでっか」
「どういうつもりだっ」
「どうって、同居人の募集しとるんどす」
何でもないことのように静留は言った。
「でも」
「なん?」
でも、お前は私と暮らしたいと言ったじゃないか!
喉まで出かけた言葉を飲み込んだ。
自分はそれに何も答えていないことを今更ながらに思い出した。
「卒業して、大学行って、新しい一歩ってことや」
静留が湯呑みに視線を落とした。
「誰でもよかったのか?」
「誰でもなんて思ってへんよ。ちゃあんと連絡とってええ人探します」
「でも……っ」
「なつき、さっきから何言うとるん」
「……」
「うちが誰と住もうが、あんたに関係あらへんやろ」
「!」
開け放たれた窓から乾いた風が吹き込む。
なつきはぎりっと奥歯を噛んだ。
「邪魔したな」
なつきは生徒会室を出て行った。
静留は足音が消えるのを待ってから深くため息をついた。
「関係、あらへん、か」
ひどい言葉だと思う。けど、いつかは2人の間で交わされるであろう言葉だ。どちらが先に言い出すか、ただそれだけだ。

−−−−−−

掲示板に書き込みしてから数日後。そこを訪れると七夕の短冊かと思うほどの量の名前と連絡先が書かれた紙の束が貼られていた。ゆうに100名は超えるであろう。
「これ全部に返信するんか」
骨が折れるなぁと思いつつ、静留はそれらを回収した。
階段を登る時、紙の束から紙片がひらりと落ちた。それを目で追いかけると誰かがそれを拾い上げた。なつきがそこに居た。
「なつき」
「もう、決めたのか?」
「なにを?」
「誰と住むのか」
「これからや」
「大変だな」
「思ったよりたくさん反応くれはったからね」
「大変ついでで悪いんだが」
「なん?」
「これも追加してくれ」
なつきはノートの切れ端を寄越してきた。なつきの名前と電話番号が書かれていた。
「……どういうつもりなん?」
「私は……」
「……」
「お前と住めないとは言ってない。ただ、いつもお前は早いんだ」
「はやい?」
「ついこの間、お前のことが一番大事だと気がついたばかりで。その、友情と恋愛の線引きもまだ私にはできない」
「でも、あんた言うたやない。うちと同じ気持ちは持てないて」
「そ、それは!あの時点ではそうだったってことだ!その先があるなんて考えてもなかったんだ」
ドクンドクンと心臓が早鐘を打つ。落ち着けと言い聞かせても、なつきの前ではどうにもうまく誤魔化せない。
「うちは、今でも変わらずあんたが好きなんよ」
語尾が震えた。見つめてくる翠色が優しげに揺れる。
「私もお前が好きだ」
「でも、それは」
「ああ、そうだ。まだどういう好きか決められない」
「……」
「お前が同居人募集してるって聞いて、お前の一番近くが私じゃないって思ったら嫌だったんだ」
「……」
「今は、それじゃだめか?」
足が震えた。階段に立っていられなくてストンと腰を下ろした。連絡先の束が色とりどりに散っていく。じわりと視界が滲んだ。
「なつきは、いけずや」
「そうだな」
「うちが断れんことわかっとるやない」
「泣くなよ、静留」
なつきが静留の横に座った。
「う、うちは、なつきが、好きや」
「うん」
「やから、一緒にいて」
「うん」
「うちん事、好きになって」
「……時間をくれ」
「……」
「お前、泣き落としはずるいぞ」
「……ふふ。だめどすか」
「だめどす」
2人は立ち上がって、散らばった紙をかき集めた。
「これ、返事の連絡するの手伝う」
「なんていうん?」
「同居人の玖我です、かな?」
「……部屋探さなきゃなあ」
「そうだな」
2人は手を繋いで階段を登った。