東と北の間、空のだいぶ低い位置に、満月が浮かんでいるのを、ハルトマンは自室の窓から確認した。それは、黄や白や、ましてや銀でもなく、一瞬ぎょっとしてしまうほどの、巨大で鮮やかなオレンジ。
「おいしそー」
 窓枠から身を乗り出して、月に向かって右手を伸ばしたハルトマンは、その突き出した小さな手の平をギュッと握り締めた。もちろん、月を掴める筈は無い。目の前で開いた手の平には、やはり何も無かったが、ハルトマンは満足げに笑みを浮かべた。
「さて、どうしよっかな〜」
 月に興味が無くなったのか金髪の天使は、両手を頭の後ろで組むと、窓に背を向けて、自分のベッドへと歩き出す。
 同室で、軍紀に厳しいバルクホルン大尉が、部屋を調度二分するように設置した、通称「ジークフリード線」をひょいと跨ぐ。501の仲間たちから「魔窟」と称される自陣へと足を踏み入れた。
「とりあえず、場所開けとこっと」
 足の踏み場も無いほど、私物やゴミの積み重なった床を、慣れた様子で歩く。ベッドまで辿り着いて、その上に敷いてある毛布を、「それっ」と掛け声を掛けてベットから引き剥がした。毛布の上にも山と乗せられていた服や本が、バサバサっと音を立ててどこかへ飛んでいく。
「うん。良し!」
「何が『良し!』だっ!ハルトマン!!」
「わっ!びっくりしたーっ」
 よく知った怒鳴り声に振り返れば、眉間に深く皺を寄せたバルクホルン大尉が、わなわなと肩を震わせて仁王立ちしていた。そういえば、部屋の扉を開けっ放しにしてたかも。
「なに怒ってるの?」
「あれだ!」
 バルクホルンの剣幕に、ハルトマンは動じた風もなく、いささか面倒臭そうだ。
「ジークフリード線を越えるなと、あれほど言っておいただろうっ!!」
 びしっとバルクホルンの指が、勢い良く部屋の真ん中辺りの床を指し示す。そこには、いかにも脱いでそのままと言った感じの半分裏返った服や、空になったお菓子袋のゴミなどが散乱していた。それは多分、ベッドから毛布を取ったときに、飛んでいった物たちだろう。
「ああ、なんだ」
「なんだ、じゃないだろう!大体、お前はいつもいつも!」
「ごめん、ごめん。すぐに片付けるから。」
 長いお説教が始まりそうな気がして、ハルトマンは仕方ないなぁと言った様子ではあったものの、指摘されたゴミ達を拾っては、それらを自陣へポイポイと投げ込んだ。
「・・・やけに素直じゃないか、ハルトマン」
 てっきり「気づいたんならトゥルーデが片付けてよ」とか、「めんどくさいな〜」とか返されると身構えていたバルクホルンは、ハルトマンの大人しさに、いささか拍子抜けした。
「今日はお客さんが来るんだよ」
「なっ、なに!?」
「なに驚いてるのさ。」
 自分でなくとも、驚くだろう。とバルクホルンは思った。

 ハルトマンの言っている、客と言うのが誰だか知らん。だが、この魔の領域に、自ら足を踏み入れようというのか・・・っ!

 バルクホルンは、ゴクリと喉を鳴らして、改めて部屋の中を見渡した。きちんと整頓され、定期的に掃除を行っている自分の陣地。

 うむ。

 満足げに頷いて、今度は反対側の魔窟に視線を移す。

 うぷ。

「もぅ、なに一人で百面相してんの?」
 ハルトマンの放った、最後の私物が放物線を描いて、魔窟へと帰っていく。
「何だか、気分が悪くてな・・・」
「食べすぎだよ」
「そんなわけあるか!もういいっ、今夜は客が来るんだろうっ?」
「うん」
「わたしはミーナの部屋に行っているから、この部屋は好きにしろ」
「えっ!いいの?」
 思ってもみなかったバルクホルンの申し出に、ハルトマンは素直に喜んだ。


「それで、相談ってなんだい?」
 結局、バルクホルンの陣地で客を迎えることにしたハルトマンは、約束の時間通りに部屋を訪れたサーニャに、そう切り出した。
「…、エイラの事です」
 テーブルの向かい側に着いた、グレイの髪をした儚げな少女は、ハルトマンが予想していた通りの名前を挙げた。
「エイラと喧嘩でもしちゃったの?」
「…」
 サーニャは否定の意味で首を振る。
「う〜ん?じゃあ…」
 ハルトマンはまるでクイズの答えでも探すかのように、あれこれと思い付いた事を口に出してみる。しかし、サーニャの返事は全てNO。仕方ないと、サーニャに回答を求める。
 相当、言い出しにくい事なのだろうか。サーニャは顔を俯かせて、時々ハルトマンと目線を合わせては、再び俯くを繰り返す。ハルトマンは、話の続きを急かすわけでも無く、テーブルに左手で頬杖をついた。そして、サーニャと目があっては微笑んで、目があっては微笑む。
 その光景は端から見れば、少し奇妙な光景で、二人にとっては、いつもの事だった。
「・・・エイラは、その・・」
「うん?」
「その・・」
「うん」
 見られてたら余計話し辛いかな。ハルトマンは窓の方へと視線を移した。数十分前に、この手に掴んだオレンジは、今はその色を白銀に変えて、だいぶ高度を上げていた。
 こんなに、いい月の夜なら、夜間哨戒もきっと楽しいよね・・・。そういえば、今夜の哨戒って、誰だったっけ?さーにゃんはここに居るから他の誰かなのは確かなんだけど、?
「今日のミーティングにも遅刻しちゃったからなぁ」
「え?」
「ぁ、ごめん、ごめん!こっちの話。」
「?」
「それで、エイラがどうしたんだい?」
 北欧出身の特徴でもある白い肌。同じ色をしたその頬を僅かに染めたサーニャは、綺麗な翡翠色の瞳を揺らめかせた。
「エイラは・・・その、女の子に・・・興味があるのかなって・・思って。・・・えっと」
「興味って?どんな?」
「好き・・とか・・その・・・」
 言いながらサーニャは段々と俯きを深くして「恋愛対象として・・・見ているのかなって・・・」と言い終わる頃には、テーブルに額をくっ付けていた。
「・・・なるほど」
 一瞬、泣いているのかと思って、グレイの髪に手を伸ばす。ヨシヨシと撫でてやる。
「サーニャはどうして、そう思ったの?」
「女の子に・・・触ってるところを、よく見るんです。」
「う〜ん。確かによく触ってるよね。」
「・・・」
「・・・じゃあさ。エイラが女の子が好きだと仮定したとして、どうしてサーニャは悩んでいるの?」
「・・・」
 ハルトマンはサーニャの頭を撫でていた手を止める。
「エイラと友達やめたいとか?」
 途端、サーニャが勢いよく頭を上げた。
「違います!!」
 思ったより大きな声が出てしまったんだろうか?サーニャはびっくりしたように、両手で自分の口を塞いだ。
「あははっ!さーにゃん真っ赤だよ?」
 ハルトマンは、さもおかしいと言うように笑う。
「笑い事じゃありませんっ」
 大きな声を出して、肩の力が抜けたのか、サーニャは本題を切り出した。
「エイラは、わたしには触らないんです。」
「あ、あ〜・・。そうなの?」
 コクリと小さく頷いたサーニャ。ハルトマンは内心「そりゃそうだ」と思っていた。なにせ、エイラはサーニャの事が好きなのだ。好きで好きで、逆に何もアプローチ出来なくなるほどに。
「エイラは、その・・・嫌いなの、かなって」
「なにがだい?」
 サーニャはキュッと下唇を噛んだ。その仕草が、子供っぽくて、ハルトマンは自分の中の保護欲が疼くのを感じた。
「わたしの・・ことです。」

 ・・・・・・・・・ぶはっ!!

 ハルトマンは椅子から勢い良く床にダイブすると、そこを転げまわった。
「あはっ!あはははっ、駄目!」
 サーニャはあっけに取られてハルトマンを見ていた。わたしは、そんなにおかしな事を言っただろうか?ハルトマンは涙を浮かべて笑っている、一瞬前まで泣きたかったのは自分の方だったはずなのに。

「はぁ、はぁ・・・おなか痛い。」
 ようやく笑いの収まったハルトマンは、目尻に溜まった涙を拭きつつ、椅子に座りなおした。
「エイラが、さーにゃんを嫌いなはず無いじゃない。」
「・・・」
「要するに、さーにゃんはエイラに触って欲しいってこと?」
「違いますっ」
 今度は、普通の大きさの声で言えたとサーニャは内心ほっとする。
「違うの?」
 サーニャは肝心なことをハルトマンに話していなかったことに今更気づいた。もしかしたら、無意識に避けていたのかもしれない。
「あの、ハルトマンさん」
「なんだい?」
「わたし、エイラが好き・・・なん、で、す・・」
 言いながら段々と頬を赤く染めて、最後の方の言葉はすっかり萎んでしまった。

 ハルトマンは、目を見開いた。今、目の前で、僅かに肩を震わせるこの北欧産の美少女は、その形の整った唇で何と言ったのだろうか?

 エイラが好き。
 エイラが好き?
 エイラが好き!!

「よぉっし!協力するよ!!サーニャッ!!」
 確実に、数秒意識を遠くに飛ばしていたハルトマンは、突然立ち上がると、ガッシ!とサーニャの両手を取った。サーニャはハルトマンのよく分からない勢いに押されて、コクコクと首を縦に振った。


 ハルトマンは、バルクホルンのベッドにサーニャを誘う。並んでベッドに転がると、タオルケットを頭から被った。
「やっぱり、女の子同士の恋バナって言ったら、こうじゃない?」
 サーニャは、恋の話自体が初めてのことで、ハルトマンの言っていることはよく分からなかったが、とりあえずコクンと頷く。部屋の照明はついているので、タオルケットの中でもハルトマンの顔はよく見えた。
「まずは、告白しなくちゃね」
「まず、告白・・・」
 サーニャは、ハルトマンの言葉を繰り返して、ポッと頬を染めた。
 ハルトマンは考える。エイラからの告白を待つよりも、サーニャからの告白を促すほうが、絶対に展開は速いはず・・・。
「それから、告白するシチュエーションだね。」
「シチュエーション?」
「そう。これ大事だよ?」
 特に、エイラに関しては、場の雰囲気に呑まれやすいところがある。と、ハルトマンは分析していた。
 しかし、サーニャの告白を受けたとしても、ヘタレなエイラのことだから、何も答えられずに逃げ出すかもしれない。スムーズに事を運ぶには、エイラの一切の逃げ場を無くしておく必要がある。
「ちなみに、サーニャはエイラと一緒に寝てるんだよね?」
「えっ!?」
 どうしてそれを、とでも言いたげなサーニャのリアクション。エイラのベッドで、一緒に寝ているなんて、誰にも言った事は無いのに。
「あれ?違った?」
「・・・ちがわない・・・です。」
 なんで、知っているんだろう?サーニャは、恥ずかしさで両手を顔に当てた。
「じゃあ、時間と場所はそれにしよう」
「・・・それ?」
「うん。時間はなるべく早めの朝が良いと思うんだよね。」
「朝だと、エイラまだ寝てるんじゃ・・・」
「それでいいんだよ、さーにゃん」
 ハルトマンは顔でにっこりと、心の中でにやりと笑った。
「ところで、エイラが他の女の子に触るの気になるんだよね?」
「え・・はい」
「それでサーニャは、自分にも触って欲しいと思ってるんだよね?」
「はい・・え?」
「さっき、サーニャ言ってたじゃない。『エイラは、わたしには触らないんです』って」
「・・・はい。」
「つまり、エイラがサーニャに触れば、エイラはサーニャを好きってことになるんだよ。」
 そういう話だっただろうか?・・・何だか少し違う気がするとサーニャは思ったが、ハルトマンは自信満々と言った風で話を進めていく。
 サーニャは段々よく分からなくなってきた。
 ともかく、いつも困ったときには、適切なアドバイスをくれるハルトマンが、協力すると言ってくれたのだ。ここは、ハルトマンの言うことに従ってみようと、サーニャは決めた。
「じゃあ、段取りはこうね。」
 ハルトマンは腕を伸ばして、ベッドサイドのキャビネットから、紙とペンを取り出した。もちろん、その紙とペンはバルクホルンの私物であるが、ハルトマンに躊躇という概念は無かった。その紙に、ハルトマンが書き出した内容は以下の通りだ。

@まずはサーニャの告白から
Aエイラの確保は必須だよ
B積極的にアプローチを
Cエイラに「好き」と言わせよう
DCを証明してもらおう

「・・・?」
「ちゃんと細かく教えるからね♪さーにゃん」

 だいぶ夜も更けてきた。天高く上った白銀の満月は、すでに部屋の窓枠から飛び出し、星々を引き連れ、夜空に燦然と輝いている。

「まず@、サーニャの告白なんだけど、台詞は・・・そうだなぁ。」
「台詞・・・、普通じゃ駄目なんですか?」
「普通って?」
「その・・・普通に・・」
「もうっ、さーにゃん!普通ってだけじゃ分からないよ〜。一回、わたしをエイラだと思って言ってみてくれない?」
「えっ」
「ほら、恥ずかしがってないでさ。練習だと思って!」
「で、でも」
「告白は一回しか出来ないんだよ?本番噛んじゃったりしたら嫌でしょ?」
 サーニャは一瞬、エイラにちゃんと告白できなくて、走って逃げ出す自分を想像した。そんなの、嫌。サーニャはハルトマンの言葉にコクリと頷いた。
「じゃあ、どうぞ?」
 サーニャは真っ赤にした顔を、何とかハルトマンに向けると、緊張と恥ずかしさで震える唇を懸命に動かした。
「エ、エイラ。あの・・」
「なんだい?」
「わ、わたし・・その」
「うんうん」
「エイラの事が・・・・えっと」
「ふむふむ」
「す・・す・・すす」
「すす?」
「す、す」
「す?」
「す・・き」
 言い終わると同時に、両手で顔を覆ってしまうサーニャ。そして、心のニヤニヤが顔にも出てしまっているハルトマン。二人はお互いに違う意味で、しばらくの間身悶えた。

サ  恥ずかしい!はずかしいっ!ハズカシイッ!

ハ  さーにゃん可愛いっ!さーにゃんかわいいっ!さーにゃんカ〜ワイイッ!

 ハルトマンの提案で、告白はエイラを起こすのと同時に行うことに決まった。告白も出来て、エイラを起こすことも出来て一石二鳥だよと、半ば強引にハルトマンがメモの@の横に○を付けた。

「じゃあ、A。ええっと、エイラの確保についてだね。」
「あの、どうして確保が必要なんですか?」
「エイラが逃げ・・、コホン。寝ぼけてどこかに行っちゃったら困るからだよ。」
「エイラは、その・・寝起きはいい方だと・・思います。」
「やだな〜、サーニャってば!確保するのは、あくまで万が一の為だよ?」
「万が一・・・」
「そうそう」
 ここからが、楽しいところだと、ハルトマンは心が沸き立つ思いがしていた。
「ところで、さーにゃん?エイラは今のさーにゃんみたく、ベッドに寝ている訳なんだけど・・・」
「?」
 ハルトマンはにっこりと、サーニャに微笑む、その天使のような微笑にサーニャはなぜか、どきんと胸が鳴った。その隙を突かれる。一瞬の浮遊感の後、うつぶせの体制から、視界が180度入れ替わる。ギシギシッとベッドが悲鳴を上げ、「ぇ」と小さな声を漏らした頃には、サーニャの身体はハルトマンに組み敷かれていた。
「つまり、エイラをこうすれば良いんじゃない?」
 シーツの上で万歳をするような態勢のまま、あっけに取られて、目を丸くしているいるサーニャの、顔の両脇に手を着いたハルトマンは、いかにも楽しそうな表情を浮かべていた。
「あ、あの・・??」
「そして、B。」
 サーニャを完全無視。天使と同じ姿をした、黒い悪魔がそこには居た。
「まずは、キスかな?」
「!!」
 顔をグイッと近づけられて、サーニャは驚いて横を向いた。
「やだな。ホントにはしないよ?あくまで予行演習なんだから」
 そう言いつつも、そっと距離を詰めて来るハルトマン。思わず肩を押し返そうとして、サーニャは腕が動かせないことに気がついた。ハルトマンの両手がそれぞれ、サーニャの両肘を押さえている。「ん」と力を込めても、びくとも動かせない。
 サーニャのふわふわのグレイの髪の中から、ちらりと覗く耳を見つけると、ハルトマンはそこに「ふっ」と息を吹きかけた。
「っ!」
 組み敷いた少女の、華奢な身体が震える様に、ハルトマンは小さく「くす」と笑う。まるで獲物を見つけた獣の如く、口から赤い舌を覗かせると、自分の唇をぺろりと舐めた。
「怖がらないで、サーニャ。」
 ハルトマンは優しげな声で囁いた。サーニャは事態の変化についていけずに、身体を強張らせることしか出来ないでいる。

 そんな、サーニャに悪魔が囁きかけた。

「エイラに・・・触れてみたいと思わない?」

「!」


 ・・・・エイラに、触れる?わたしが・・・?


 エイラに触れて欲しいと願うばかりで、そんな事、考えたことも無かった。


「サーニャ、目を閉じて?」
「え?」
「いいから、目を閉じて。」
「・・・」
 サーニャは数秒の戸惑いの後、ハルトマンの言うとおりに目を閉じた。
「いい?サーニャ。動いちゃ駄目だよ?」
 すぐ耳元で囁かれる言葉に、逆らってはいけない気がして、サーニャはコクンと頷いた。両肘を押さえていたハルトマンの両手が離れる。同時に、サーニャの身体に、ハルトマンの身体が重なって、そっと体重を預けられた。
「温かい?」
 右のほうを向くようにして目を閉じているサーニャの、左の耳にハルトマンの吐息が吹き込まれる。そこから、ざわりと広がる感覚を、サーニャはギュッと目を閉じて受け止めた。
「エイラにも、触れたら温かいと思うよ?」
「・・・、」
「人肌って何だか安心するよね?」
 確かにハルトマンの言う通り、触れ合う身体は温かい。その事に気が付くとサーニャはこんな状況ではあったが、不思議と落ち着くことが出来た。サーニャの強張っていた身体から力が抜けるのを感じたハルトマンは、僅かに口角を上げた。強引に事を運んでしまったけれど、内心では少しやり過ぎただろうかと思っていたからだ。
「よいしょ、っと」
 幼い顔つきには似合わない掛け声を掛けて、悪戯な天使はサーニャの上に身を起こした。サーニャはベットに横になった体制のままハルトマンを見つめている。陶器の様な白い頬が少し赤くなって、翡翠の両眼が蝋燭の明かりを受けて揺らめいている。すっかり開放されているはずのサーニャの両手は行き場所に困っているのか、胸の前で握り合わされていた。その様は何かに祈ってでもいるかのように見えて、ハルトマンはいっそ目の前の子ウサギを取って食べてしまいたい気にすらなったが、欲望とモラルを天秤に掛けて、結局は後者に傾いた。
「それじゃ!ここからはまじめに作戦会議だよ、さーにゃんっ」
「え」
「やだな〜、もう。さーにゃんたら赤くなっちゃってー、エイラに言っちゃうぞ〜」
 ハルトマンは仕切り直しとでも言うかのように「んんっ」と、わざとらしく咳払いをして、サーニャの上から退いた。手を差し出して、あっけに取られているサーニャを起こす。
「あの、ハルトマンさん」
「ん〜?」
 サーニャは、先ほど書いたメモをピラピラと振っているハルトマンの顔を覗きこんだ。
「その・・、なにかあったんですか?」
 ハルトマンには普段から驚かされることも多いサーニャだったが、今夜のハルトマンの態度には何か、いつもとは違う雰囲気を感じた。なにがいつもと違うのかと聞かれても、はっきりとこうとは言えない。でも何か違う。
「なにかって、何かな?」
「・・えっと・・」
 質問を質問で返されてサーニャは戸惑う。
「まぁ、今サーニャとエイラのことだよ。」
 これ以上の詮索はするなということだろうか。サーニャはハルトマンの言葉にそんな思いを感じて追求はしなかった。ハルトマンはサーニャにニッコリと微笑んで「じゃあ次はね〜」と話を進めていく。

「サーニャ」
「はい」
 突然、話が切れたかと思うと、落ち着いたハルトマンの声がサーニャを呼んだ。ハルトマンの持っているメモに落としていた視線をぱっと上げると、同じ目線の高さで揺らがない瞳に貫かれる。見つめてくる瞳の強さに囚われて視線が逸らせない。サーニャは喉が詰まるような感覚に陥った。ハルトマンがゆっくりと唇を動かす、慎重に言葉を選んでいるようにも思えるその声は、僅かに震えていた。
「サーニャ。ちゃんとエイラに好きって言ってね?」
「・・・はい。」
「成功したら教えてよ」
「はい」
「失敗しても教えてね」
「・・・ハルトマンさん」
「あははっ!うそうそっ」
 ハルトマンは腕を伸ばして、サーニャの頭をぽんぽんと優しく叩いた。ひとしきり笑ったハルトマンの声からは、もう震えは消えていた。
「ハルトマンさん」
「なんだい?」
 サーニャはハルトマンに正面から向き合うとペコッと頭を下げた。
「ありがとうございます。その・・話を聞いてもらって」
 申し訳なさそうな、嬉しそうな、そんなサーニャの様子にハルトマンは一瞬毒気を抜かれた気になって、ぽりぽりと右手で自分の頬を掻いた。
「いいよ、これぐらい。それにまだ成功したわけじゃないんだしさ」
 極力明るい声で答えて「じゃあ、そろそろお開きにしようか」と、ずっと手に持っていたメモを綺麗に畳んでサーニャに手渡した。サーニャはメモを受け取ると大事そうに軍服のポケットにしまい、座っていた床から立ち上がった。
「おやすみ。サーニャ」
「おやすみなさい。ハルトマンさん」
 サーニャを部屋の扉まで送ったハルトマンは、一人になった部屋で「ふぅ」と深く溜息を吐いた。
「おひとよし」
 誰に言うでもなく零した言葉は、味気のない石の床に滲んで消えた。

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