僕の目の前に、今愛しい『彼』がいる。

『彼』に手を伸ばして見た目通りの柔らかい黒髪を梳き優しく撫ぜてやると、ハラハラと指の隙間から零れ落ちる黒髪が部屋の中に入り込む光に艶やかさが一層と際立ち、誰が見ても美しく目に映るだろうその光景に心が和むのを感じた。
撫ぜられるままに身を預けきって、気持ち良さそうに瞳を細める『彼』の姿は、まるで猫のようだった。
けれども、警戒心もなく抵抗する気配も見せないその様子に、警戒心が全くないなんてこれでは猫らしくないなと僕は思わず笑ってしまう。
猜疑心のない猫なんて何とも珍しくて。
すると、そんな僕をいぶかしむように不思議そうな顔をして『彼』は見上げてきた。
それに、笑みを浮かべて何でもないよと止まっていた髪を撫でる仕草を再開させれば、何かを言おうとして口ごもる『彼』の迷いに気付く。
何かを聞こうとして失敗する……子供のようなそれに。
だから、促すようにどうしたのかと首を傾げ言いやすいように誘導してやる。
窺うような仕草をする『彼』に、大丈夫だから……言ってごらんと優しく問い掛けて。



「どうして……どうしてオレは、記憶を失してしまったんでしょうか?」



髪を撫ぜていた指がピタリと止まった。
そして、僕は何も言わず『彼』を見つめる。
これを彼はずっと聞きたかったのかと、半ば分かっていて遠ざけていた問題を改めて『彼』は僕の前に突き出して見せた。
勿論、いつかは問い掛けられると分かっていたからその答えは幾つも用意していた。
その幾つも用意していた答えの中から一つをチョイスして、何度も自分の中で繰り返してきた答えを……今、やっと『彼』へと返す。



「それは……ごめん。僕にもよく分からないんだ。推測だけど、僕が君を見つけた時にはもう…――」



以前の口調とは全く違ってしまった『彼』を心の片隅で痛ましく思いながら、僕は平然と嘘を重ねる。
そう、これは真っ赤な嘘だ。
真実は、僕の中と過去の『彼』の中だけに存在する。



「そう、ですか……」



ガッカリして肩を落とす『彼』の身体を、そっと抱き寄せる。
それっきり『彼』が言葉を紡ぐようなことはなかった。




















「すみません、美堂君」



身体を胎児のように丸め目の前で眠る彼に、幾度目になるかもう分からない謝罪を今日もまた繰り返す。
記憶を失うことを促したのは、誰でもない……この僕自身。
追い詰めて追い詰めて、彼の心を壊した。
心ない言葉で傷つけて少しずつ狂わせていき、最後に手放す振りをして突き放した。
そうすることで、より一層離れがたく思わせようと。
そして、それは簡単に成功した。
呆気なさすぎるくらいに。
心の弱い彼は簡単に自我を手放してしまった。
こちらが望むがままに。



「ただ、誰にも奪われたくなかったんです」



そして、君のすべてを自分のモノにしてしまいたかったから……。

懺悔のような想いを吐き出して唇を噛み締める。
誰の目にも触れさせたくなくて狂った心は闇を抱えた。
律する理性を凌駕する想いの深さに恐れるよりもまず歓喜した。
こんなにまで自分は彼を愛しているのだと。



(所詮、それは自己満足でしかないのだろうけど)



これ以上の無意味な言葉の謝罪はただの自己満足にすぎなく、そしてまだ辛うじて残っている純粋な愛情までも嘘に塗り固めてしまいそうで……ただ頭を垂れ、罪を贖うように眠れる人の額に唇を落とした。
そう、それはまるで神聖な口付け。




















だって、二度と腕の中の檻から出してやらないと彼へと誓う……これは大事な接吻けなのだから―――。











END

オリジで書いたのを花蛮風に直した奴(笑)
記憶喪失モノ。





お題:狂った僕は、君を閉じ込めて縛り付けて、逃がさない。