anecdote

痩せ細って動かなくなった指を、しっかりと握り返してくれるその力強い掌が嬉しかった。
軋みを上げ続ける身体を壊れ物を扱うように抱き締めて、悲しそうにしているその秀麗な顔を見ると堪らなく切なくなった。
何時かは別れがくるのだと知っていても、それでも側にいてくれるのかと思うと何だか無性に悲しくて……。
泣かないと決めていた自戒を破り、どうしようもなくなって零してしまった一筋の涙を、拭ってくれたその指先は存外に温かく……そして優しかった。

指先から伝わる想いが髪を撫でるように心を撫ぜていき、触れ合った箇所から微量の熱が生まれる。
触れようか触れまいか一瞬だけ躊躇したかのように迷い、そして手を引っ込めて、だけど意を決したように触れてくるそんな素振りさえ愛しくて。
嗚呼、こんなにもまだ自分は生かされているのだと、動けない身体でも生きているのだと……そんな些細なことで自分は生を実感していた。
幾つもの命を繋ぐチューブに身体を支配されていても、確かに生きているのだという現実を。

だけど、その反面。

触れてくるその指先が、それがピアニストの紛うことなき指なのだと認識してしまうと、やりきれない苦いものが泉のように溢れ出してきて、それは止どまる術を知らず口内を満たしていった。
安物の椅子に腰掛けて、聞き取りやすいようにとゆっくり話し掛けてくれる彼は、あまりにも眩しすぎる存在。
今の自分達の境遇はあまりにも違いすぎる。
一方は自分が捨て切れずにいた夢を謳歌し、一方はただゆっくりと朽ち果てていくだけの……未来がないガラクタ。
どうして自分だけがこんな目に合わなければならないのだと、最終的には自分で決めて行動を起こしたいわばこれは結果なのだとはいえ、ふとした瞬間、泣き言と醜い嫉妬と彼をきっと傷つけてしまうだろう言葉を投げ付けてしまいそうになる自分がいる……そのことをいい加減自分は認めない訳にもいかなくなっていた。

最近では滅多とない白い部屋への来客は、唯一頻繁に訪れてくれる彼の存在しかない。
他は忙しくしているか、直に顔を合わせるその勇気がないかのどれか。
日に日に痩せ細り、死に近付いていく自分を見るのがそんなに嫌なのか。
そんなに厭うのか。
全くと言っても良いほど人の訪れがない。

それならそれでもいい。
醜い自分を見られなくて済むのだから。
彼の存在があればそれでいい。
忙しい身であっても時間を作り必ず訪れてくれる、この存在さえあればそれで……。

それなのに。

そんな彼の気遣いに癒されていながら救われていながらも、それでもピアノを弾けなくなった身は彼を妬ましく思う心を覆い隠すことが出来ずにいた。
そういう時、敏感に彼はそれを察知して何も言わない。
言わないで、ただじっと顔を見つめてくる。
それから、決まってこう言うのだ。

『オレの両手はオレのモノであって、オレのモノではない。この命を救われた時からアユムのモノでもあるのだ』と。

もう一本も、指先さえもろくに動いてくれない両手を掴んで、指先に軽く口付けてくる。
そして、

『勿論、この瞳もアユムのモノだ……オレの視るものすべてがアユムのモノになる』

そう言って、コツンと額と額を触れ合わせ囁かれる声音は、優しさに満ちた言葉とは裏腹に苦しげな表情を纏っていた。

何度、こんな彼の表情を見てきただろうか。
その度、後悔する。
悔やんで今すぐにでも死にたくなる。
痛みを伴う薬の投与に毎回耐え忍ぶ自分よりも……辛そうな顔。
それは、幾度も彼を傷つけてしまうような行動を取ってきていた己の軽率さが招いたことであることは誰の目から見ても明白なことで……。

人間はとても浅はかで自分だけが一番大事なエゴイスト。
誰も人を傷つけたことがないと唱う聖人も、幾らでも他人を知らないところで傷つけていたりするのさ。
言葉を受ける側の受け取り方は千差万別。
異なる思想があるように、異なる感受の仕方がある。
よって人を傷つけずに一生を生きることなど到底無理な話なのだと、そう言って笑っていたのは一体何時のことでその相手は誰だったか。

そう……あれは、兄だった。
そして、確かにそうだよなと自分は心からそう思ったのだ。
人間の自分勝手が自分という存在を生み出し、現にこうして傷つけられているのだから。
そう、その話を聞いていた時もそう思っていたのだが、今はあの時よりも切実にそう思う。
人を傷つけずに暮らしていくことなど、土台無理に等しいことなのだと。

彼を傷つけておいて、たった一言の謝罪さえろくに自分はこれまで言えた試しがない。
苦しむ自分を見て悔しさに歪む柳眉が、彼を苦しめていることを如実に物語っていても言えやしなかった。
少しでも羨む心が消えてしまわない限り、傷つけた後の謝罪は言えそうになかった。

他人を羨む心。

きっとそれからは、こんな身体である以上終わりがくるまで解消されることがないに違いない。
けれど、傷つけられながらも、彼という存在に救われて癒されているその事実もまた紛れもない真実だったから。

苦しみも。
痛みも。
切なさも。
愚かさも。

何もかもをその腕に抱いて旅立つ時がきたら、その時には謝罪を告げようと思う。
ただ『ありがとう』と、これまで精一杯愛してくれた彼に謝罪の言葉を感謝への気持ちへと代えてそう言おう。
そして、先に逝くのではなく先に行って待ってるからと笑顔でそう告げるのだ。




















願わくば、その時。
アンタが悲しみに暮れて、泣いてしまわないことを切に祈る。
出来ることなら、やっぱり最後は笑顔で送り出して欲しいから……。
















お題：まっしろな終焉は目の前





拍手用に書いていたのですが、どうも暗くなってしまったので小話に投下（笑）
ＢＧＭにサンホラのエルの楽園[→side:A→]を聴きながら書いたのが悪かった模様……。でも歩は奈落には墜ちないよ！！（当たり前です）
えーと、久し振りのラザ歩が幸せなSSではないってどーゆーことなんだろうか！まぁその、ね！（誤魔化した！）

幸せって難しいね……orz

人間は常に、自身の幸福を追い求める生き物である。




















「それはアユムにも、当て嵌まるのか？」
「……ああ」



ベットの上の動けない身体を、何とかラザフォードに手伝って貰いながら身を起こしている時の会話。
幸せとは何だと、哲学紛いのことをラザフォードから問い掛けられた歩はそう返した。



「この世の生きとし生けるすべてのモノが、幸せを追い求めているのだとオレはそう思っているよ」



どんな人間だって、一度は幸福を求める。
その過程で、幸せから逸脱するモノもいるだろうが、それもその結果だ。
自殺する者も幸せを追い求めた結果、挫折したものであると。
人が生きるその動機の果てにあるモノ、それが幸福なのではないか。
だとしたら、人間は常に幸福を求める生き物なのだ。きっと。



「この世の中できっと人間が一番簡単なようでいて、難しい生き物だよな」
「……難しい？」
「人間は動物と違い、考える思考がある。人と話せる言葉もある。だけど、人間ほど動物的な生き物は他にいないだろ？」
「確かに、な」



考える思考があるのに、それが衝動的にしろ計画的にしろ人を殺せるし、人を貶めたり出来るのだ人間は。
律する心があるにも拘らず。
そして、弱い。
人に騙されて悪に手を染めてしまうのも、また人間なのだとしても。
人間はこの世の中で一番、弱い生き物でもあって。



「弱いから人間は犯罪に手を染めるのか……でも、それも結局は幸福を求めた先に出くわした道の一つだとオレは思うんだけど」
「……アユムの言いたいことが、オレにはよく分からないんだが」



眉間を寄せるラザフォードにクスリと笑って。



「例えば、アンタの手が人を殺したとする……その時のアンタは、一体何を思ってソイツを殺したのだと思う？」



投げ掛けた問いはラザフォードにとって、身近だった問い。



「恐らくは……生き延びたいと。奴等がオレ達を殺してしまいたいのだと、そう思っているのだとしても生き延びたいと思って殺したのだと思う……」



ブレードチルドレンである彼等なら、そう思うだろう。
歩は一つ頷いてから、



「そう、アンタはその先にきっとある幸福をひたすらに願って……今まで生きてきたんだろう？」
「……なるほど」



人は誰しも己の幸福を基盤に、行動を起こす。
自分の理になる行動を……そうとは知らずとも。



「だが、アユムの考えるそれだと……どんな人間にでも当て嵌まるようだな」



極悪犯だろうが、人として最悪な人間の部類に入るそんな人間だろうが……幸福の名の元に生きていると言っている。
とてつもなく、危険思想に近い歩の言葉。



「確かに、な。だけど、それが人間なんだよ」



良い面だけが人間ではない。
そして、悪い面だけが人間でもない。
そうやって、世界は成り立っている。



「なぁラザフォード。すべての人間の行動の裏にあるモノが幸福を求める心で。誰にだってそれを求める権利が、もしあるのだとしたら……」
「だとしたら、」



真っ直ぐにラザフォードを見つめ、歩は告げる。
顔を間近に近付けてラザフォードを見るのは、視力の低下を言い訳にした歩のちょっとした悪戯だ。
長い睫毛が瞬きする度に揺れる、その瞬間が好きで嘘をついた。
視力の低下は本当だが、物の判別はまだ出来るのだ。



「アンタの幸福を、いつまでもいつまでもオレは願っているよ」



それは、きっと死んでからも変わらない願い。



「……何故、そこで自分の幸せを願わない？」
「幸福は人それぞれ、だろ？アンタの今が幸せなら、オレは幸せなんだ」



何でもないようなことのように笑って、死を匂わせるようなことを言う。
ラザフォードより先にこの短いだろう人生……命を終えて世界から存在が失われようとも、



「アンタが幸せだって自信をもってオレにそう言ってくれるなら、オレはもうそれだけで幸せになれるんだ。だってそれはそのまま、オレが生きた証しにもなるから。アンタが幸せだとオレといてほんの少しでも思ってくれたら、ラザフォードの幸福の一部分に……オレ自身がなれたってことになるだろ？」
「アユム」



重ねられた掌の優しさに、やわらかく微笑む。
それが、オレにとっての幸福なのだ。
ラザフォードが感じたその幸せの一部にオレ自身がなれたら、それで幸せになれる。



「お前は、もっと自惚れていい……ほんの少しだなんて」
「………」
「十分すぎるほど、オレはアユムといて幸せだ」



そう言って、今にも泣きそうな顔で必死に言葉を綴ろうとするから。



「オレはアユムといて、数え切れないほど救われてきている……こうやって今を生きているのも、お前の頑張りのお陰だ」



こちらまで、それが伝染してしまったかのように何も言えなくなってしまった。



「アユムが言ってくれたように、オレもまた、お前が幸せだと笑ってくれるのなら……今が幸福なのだと自信をもって言える」
「………」
「ありがとう、アユム……幸福を与えてくれて……」



アユムは今、幸福か？

静かに流れいく雫をラザフォードに拭われる。
その優しさにこそ幸せを感じるのだから、



「……決まってるだろ」




















どんなに苦しい状況であろうとも……今が、一番幸せであることを。










END

逃げたくはないんだ。





















「……怖くはないのか？」



ラザフォードは見舞いに訪れる度に、一字一句間違えずに同じことを問う。

ラザフォードの瞳には、そんなにもオレは憐れに映って見えるのだろうか？

悲しい瞳をさせたくはないのに、悲しませる存在でしかない自分を自覚して。

シーツで隠れた見えないところで、拳を強く握り締める。

強く強く握り締める。

そうしてやっと、オレは柔らかく微笑みを乗せてラザフォードに伝えるのだ。


いつもの台詞を。



「怖くない」



そう、怖くはない。

いや、本当は怖くて堪らない。

ただ怖いのは、この命が消えることに対してではなく……言い出しっぺが責務を放り投げてしまいそうになる弱い心。

気を抜いたらすべてを投げ出して逃げてしまいたくなる、この弱い心が怖い。

一度逃げることを覚えた心は、容易く逃げ場所を求める生き物だから。

必死に繋ぎとめて、必死に抗って、今にも壊れそうな何かを守っている。

それを見透かして、壊さないでくれ。

優しく手を差し伸べ、守っているものを壊さないでくれ。



「本当は怖いんじゃないのか？」

「まだ、言うのか……」



呆れた声は、ラザフォードの言葉に塞き止められる。



「オレはアユムの真実が知りたい。怖いなら怖いと言ってくれたらオレは……」

「だから、怖くはないと言ってるだろう？」



優しい嘘がこの世の中には溢れている。

それと同じくらい偽りに塗れた残酷な真実も。

その中で、オレが選び取ったのは優しい嘘でも残酷な真実……そのどちらでもなかった。

何故なら、自分でもよく分からないからだ。

不思議なことに、自分の命の期限の有無については怖くはないと宣言できるのに、それと同時に誰もいない何処か遠い場所へと何かもを放り投げて逃げ出してしまいたいと思う心があることも、やはり嘘にはできなくて……。

今では、怖いのか怖くないのかの判断すらも怪しくなってきている。

身体が弱っていくにつれて、曖昧になる心。



（ちがう、お前の言ってることは何もかも出鱈目だろう？）



分からない振りをしているだけ。

道化を演じているだけ。

ラザフォードが言いたいことは、本当は分かっている。

分かりすぎるくらいに分かっている。

怖いと無理やりに言わせたいのではなく、怖いと言ったなら行動を起こす切っ掛けが……ちょうど良い言い訳が出来る……そんな単純な理由からだ。

ラザフォードがこうやって見舞いに訪れる度に告げる言葉は、オレを想って言ってくれていることを。

知っているからこそ、言わないし甘えられない。

もし仮に、ここでラザフォードにオレが怖いと素直に胸の内を告げたなら、きっとラザフォードはオレを連れて何処かの見知らぬ土地に逃げる気でいるのだから。

誰も知らない土地で二人、何もかもを捨てる気でいる。

ラザフォードは愛するピアノを、オレはブレードチルドレンの救いの象徴を捨ててまで。

ラザフォードならオレが深層心理では逃げ出したいと思っていることを、言葉にしなくても見透かしているから。

オレに出来ないことを……弱音を少しでも吐いたならラザフォードが実行に移す気でいることをオレは知っている。

故に、死んでも言う気はない。


怖いと、たった一言が言えない。



「怖くはない」

「嘘つき、だな」

「嘘じゃない」

「アユムは平気で嘘を吐く……」

「それはアンタだって同じだろ？」



お互いに嘘を一つだけ抱えている。

お互いに理由を擦り付け合っている。

そして、逃げ出したくて堪らないのもお互い様で……。

それでもまだ、確固たる理由が支えているから逃げずにいるのだ。

ラザフォードはプライドで、オレが逃げないのは大切な人の命が自分の命の灯と連動しているから……だから。



「怖くはない」



何度でも告げる。

逃げずにすむように。

逃げたいと思う気持ちと同じ気持ちで、怖くはないと。



「大丈夫だ……怖くない」

「………」

「どうした？」



じっと顔色を窺うように見つめてくるラザフォードに首を傾げる。

ラザフォードは一瞬だけ悲しそうな顔をして、何事もなかったように唇に笑みを作った。

だから、それらをオレは知らない振りする。

慰めの言葉など必要ないのだから。

必要なのは、側にいてくれること。

ただそれだけ。



「アユムには負けるな……まったく」

「それは、どういたしまして？」



ラザフォードが漸くここにきて笑みを見せたので、肩を竦めて同じようにほんの少しだけ唇に笑みを乗せる。

そうしないと、泣いてしまいそうだったから……。



「アユム……」



名を囁いて近付いてくる唇に、今は感謝して瞳を閉じた。

また、次の見舞いの際に同じことが繰り返されるのだと分かっていても。










本当は死ぬのが怖いんだって、震える互いの唇だけが真実を伝えあっていた。










END