シロガネ山は万年雪(まんねんゆき)に包まれており、山頂付近は常に雪雲を纏(まと)っている。冬は麓まで雪で閉ざされるのだが、夏は流石(さすが)に山頂付近に雪を残す程度だ。しかしその夏は短く、九月も後半に入った現在、麓に居るだけでも既(すで)に半袖から出た腕が肌寒さを感じていた。足元のピカチュウは大丈夫だろうかと見やれば、寒さに震えるでもなくじいっと山を見上げていた。
 マサラタウンまで長袖を取りに帰ろうか、山を登っている内にきっと温まるだろう。と歩き出した。穴抜けの紐があるので任意のタイミングで下山できる、と言う油断も、杜撰(ずさん)な登山計画の後押しになっていた。

 山裾の十分に開けている緩やかな山道を上がってゆく。吹き降ろす天然のクーラーが涼しすぎて鳥肌が立ったが、ランニングシューズを使わずに早足で歩けば、そのうち体が温まり始めた。
 あちこちに茂る草むらにはギャロップやドードリオにリングマなど、進化後のポケモンが散見された。今までとは違った種類が高いレベルで分布していることに興奮して一戦を交えた後、はたと気づいた。チャンピオンロードを下(くだ)ったせいで自陣の仲間たちはやや疲労の状態。これから探しもののために山中をうろつくのに今から消耗していてはいけない。

 この辺りのポケモンの強さを把握するために必要最低限のバトルをこなしつつ、散策の気軽さで進む。
 勘を頼りに、やがて洞窟の入口に辿り着いた。出入り口に建てられた古びた木の看板には、この先シロガネ山、と掠れた漢字で書かれているのが見えた。お月見山や岩山トンネルと同じくシロガネ山も洞窟を通り抜けてゆくものなのだと納得して、はたと振り向く。ピカチュウの足音が止まったからだ。
「ピカチュウ?」
 ピカチュウは洞窟の入口の横、繁る木々へ目を凝らしていた。どこか警戒した風な様子に、レッドも視線を木々へやったまま後退る。足を止めて警戒するほどの何かが居る。野生のポケモンにしては、ピカチュウの反応が気にかかった。

 ぱり、とピカチュウは愛らしい真っ赤な頬から僅かに放電させながら、レッドの前に飛び出した。一本の木の、地面に落ちた影が濃くなる。そこからけぶるような暗闇が這い出た。形のない、紫がかった黒い煙だ。それに二つの真っ赤な色を認めて、レッドは正体を悟った。影に潜むこともできるという、ゲンガーが現れたのだ。
「ケーッケケケケケケケ!!」
 煙が固まって確かな形を得てゆく。にんまりと大きな口を笑みに釣り上げ、ににやにや笑いのゲンガーが現れた。

 ゲンガーは種族の特徴として、素早い上に特殊攻撃が強力だ。周辺のポケモンのレベルから言って、40前後あるだろう。ゴーストタイプは厄介な補助系の技を取得する傾向にあるので、もたもたしていると被害が大きくなりそうだ。
 そうあたりを付け、準備万端な相棒に指示を出す。
「十万ボルト」
「ピカァッ」
 低い四つん這いの戦闘態勢に入った小さな体から、バリバリと音をたてて電流が迸る。それを見て慌てたゲンガーがひらりと背を向けた。勿論、逃がすつもりはない。悪戯好きのゴーストタイプを逃がすと、時に厄介なことになる。会敵したならば実力を思い知らさねばならない。
「やれ」
「ピーッカ!」
「ゲッ!?」
 青白い電気がピカチュウの体全体を覆い、電流は数本の束となり、確固たる指向を持ってゲンガーへ向かった。ゲンガーがいくら素早くとも、駆け抜ける電撃には叶わない。鍛え抜かれたピカチュウの強力な攻撃を、逃げ出そうとして背中にくらい、ざざーっと盛大な音をたてて転び滑った。自分でも驚いたのか、短く太い尻尾がぴーんと立って、まるっとした尻が丸見えになっている。

 顔面から突っ込んでスライディングしたように見えたゲンガーは、のろのろと尻尾を下ろし、痛みを堪えるようにゆっくりもそもそと起き上った。そして、
「ケ、ケン……」
 としょげかえった頼りない声を出した。攻撃されたと言うのに反撃せず、怒りもしない。そんなゲンガーの様子を、一人と一匹が警戒しつつも見守る。が、声どころが全身がしょんぼりしているように見受けられて、レッドはすでに戦意を萎(しぼ)ませていた。

 のそりと振り返ったゲンガーは、短い足とぽこりと出た腹、手のひらを泥で汚していた。よく見れば顔にも跳ねた泥が着いている。大きな瞳は潤み、体はぷるぷると震えていた。電撃だけでなくスライディングしたのも痛かったようだ。
 ピカチュウの姿勢や放電の具合から、彼が未だ警戒しつつ、けれど警戒の度合いが低いのを読み取り、レッドはゲンガーに話しかける。
「……大丈夫?」
「け……ゲン」
 こく、と頷いたゲンガーは、視線をレッドからピカチュウに移すと何やら話しかけ始めた。二匹の間で少々の会話が為(な)された後、ピカチュウは最低限の警戒と威嚇として頬からぱりぱりと小さく放電させながら長い耳をぴくんとレッドの方へ向け、「ちゅ〜」と愛らしい声で鳴いた。彼は判断に困っている時、警戒は解かないままでこうしてレッドに水を向ける。

 とはいえピカチュウが何の判断に困っているのか、いくらポケモン大好き相棒大好きなレッドでもわからない。そこまで以心伝心ではないのだ。
 取り敢えず、ゲンガーが何か自分たちに伝えたいことがるのだろうか、と観察の視線を向けてみる。ゲンガーは首にかけていた、草臥(くたび)れた茶色のベルトを一生懸命に手繰(たぐ)っていた。
(あれ、は、持ち物袋……?)
 よくよく見れば、ゲンガーは首に焦げ茶色の持ち物袋を付けていた。一口に袋とはいっても形状は様々で、ゲンガーのそれはベルトに小さなポーチが付いたものだった。だいぶ草臥れてはいるが、遠目でもしっかりした作りであるのが分かる。

「げ、げんっ……げ〜ん、げんっ」
 人間ならば、んしょ、んしょ、といった風情の掛け声をかけながらポーチ部分を前に持ってきたゲンガーは、こんどはファスナーを開けようとした。が、どうにも手先が不器用らしく、難しい表情でまたもや悪戦苦闘している。
(手伝ってあげたいけど……)
 敵意は無さそうなので手伝ってやりたいが、一応警戒を続けてくれているピカチュウの手前、安易に近付くのは戸惑われた。万が一、なにかあった時に仲間へ迷惑をかけるのは本意でない。

「げんっ! げん、げーん?」
 暫くたって、漸くファスナーを開けられたゲンガーがぱあっと顔を輝かせる。しかしその嬉しそうな顔も一瞬で、中身を取り出せずにまたもやもたもたし始めた。
(あれ……こんな光景、どこかで……)
 ぶきっちょさんでおっとりとした雰囲気、加えて警戒心を全くこちらへ向けておらず、登場の仕方以外にはゴーストタイプらしさが無い。そんなゲンガーの姿がレッドに既視感を覚えさせた。
(いつか、どこかで、同じ印象を持った、気が……あれ、もしかして、“彼女”は……)

「……! げん!」
 悪戦苦闘の末に漸く中身を取り出せたゲンガーは、ぱあーっと輝かんばかりの笑みを浮かべ、手の中身をレッドたちの方へ向けてきた。差し出された手の平にちょこんと空色の勾玉が乗っている。レッドはそれに見覚えがあった。カンジュが己の手持ちに持たせていた勾玉だ。
「それ、やっぱり。君は、マヒル? カンちゃんの」
「ゲンっ」
 マヒルと呼ばれたゲンガーはにこおっと、心から嬉しそうに溢れんばかりの笑顔を見せた。ゲンガーらしくない朗らかな笑みに、彼女がマヒルなのだと確信は深まる。
「ピカチュウ、警戒しなくていいよ」
「ぴ」
 ピカチュウは既に最低値まで下げていた警戒を解き、ゲンガーに近寄ってふんふんと匂いを嗅ぐ。獣の形をしているピカチュウは匂いや音に敏感で、知らないものは取り敢えず匂いを嗅ぐのが常だった。ゲンガーは嫌がるでもなく、されるがままに匂いを嗅がれている。
「僕を覚えてる?」
「ゲン!」
 こくこくと頷いたゲンガーに懐かしさがこみ上げた。

 マヒルは、昔レッドの家に居た従兄弟の仲間だ。従兄弟のカンジュはレッドが生まれた時から入園するまで一緒に住んでいて、レッドの入園を見届けるとポケモントレーナーとして旅に出た。
 幼かったレッドはポケモントレーナーとして旅立つカンジュが羨ましくて連れてってくれと泣いて強請(ねだ)った。いつも遊んでくれる兄のような、友達のような彼が旅立つのが寂しく、子供なりに真剣に強請ったが、結局は見送るしかなかった。
 それからは会う機会はめっきり少なくなったが、夏休みなどに一緒に旅行へ行ったので、彼も彼の仲間もよく覚えている。そんな彼が一度目の旅から戻った際に、マヒルとは出会った。おっとりしていて人懐こく気の優しい彼女は、嫌がるそぶりもなく子供だったレッドの相手を良く勤めてくれた。

 そこまで思い出した所で、はっと現実に戻って顔を曇らせた。
「ごめん、怪我させた」
「けーけけけけっ」
 ゲンガー特有の笑い声はどこまでも明るく、釣り気味の瞳も優しげに笑う。気にしないで、とでも言うように、ふよんと地面から浮き上がったマヒルがレッドの頭を撫でた。幼い頃によくされた仕草に、懐かしさと気恥ずかしさが混じって複雑だった。

「治してあげる」
 リュックの中から取り出した良い傷薬で手早く治療し、使い込んで少し薄くなったタオルで泥を拭う。そのあいだにも、愛想が良く懐こい彼女はあっという間にピカチュウとも仲良くなり、会話を交わしていた。
「よし」
「ぴー」
 彼女の身繕いが終わるなりピカチュウにこっちこっちと袖を引っ張られたレッドは「なに?」と問いかけながら、またもやはっとした。

「マヒル、なんで一人でいるの?」
 彼女は何も答えず、ただ困ったような表情を見せた。
「ピカチュウ、もしかしてカンちゃん……カンジュ、さん、が近くに居るの」
「ぴ?」
「マヒルのトレーナー、どこにいるの?」
 きょとんとしていたピカチュウに聞きなおすと小首を傾げられた。
「マヒル、カンちゃんはどこ?」
 困った顔で、マヒルがレッドの手を軽く握って引いた。
「そっちにいるの?」
 迷うような間の後、控えめに頷く。
(なんでこんなに歯切れが悪いんだろう?)

 困惑と不安が湧き上がる。マヒルの以前と変わらない様子からして、カンジュに何かあったようには思えない。が、二年半もの間、彼とは会っていない。最後に手紙が届いたのも、もう二年前だ。忙しいが元気にしている、まだ帰れないがまた手紙を出す、とあったのに。心配でカンジュはどうしたのかと母親に尋ねても、旅が忙しいのよ、などと曖昧な答えしか得られず、憂いは払拭されないまま、レッドの胸の片隅にずっとあった。
(その内帰ってくるわよ、って母さんは言ってたし僕も待とうとは思ってたけど、会えるなら会いたい。……昔は、年に一回は顔を見せてくれた。手紙も電話もくれてた。忙しくて帰って来れなくても、手紙や葉書くらいくれるはずだ……母さんは便りがないのは元気な証拠だって言ってたけど、やっぱり心配だよ。せめて、無事を確かめたい)
「案内、してくれる?」
 今度は迷いなく頷いたマヒルの先導で、レッドは山肌へと踏み入ることとなった。

 虫除けスプレーを使用して少し上ったところで、ピカチュウに身振りで示されるままリザードンを出した。ピカチュウがマヒルと意思疎通できるおかげで、目的地がもっとずっと上の方であり、山肌を登っていかなければいけないと判明したからだ。
 暖かなリザードンの背にマヒルと共に跨ったレッドは、休憩をはさみつつも徒歩では考えられない速度で登った。やがて山頂が近づくと雪がちらつきだし、レッドはリザードンから降りた。
 ポケモンの技"空を飛ぶ"は、本来ならば掛かる負荷を搭乗者に一切感じさせない。上空の寒さはもちろん、雪山の寒さも感じさせない。けれどそれは搭乗者に限ったことで、使用者であるポケモンはしっかり肉体に負荷を受ける。
 それを知っているが故にレッドは、リザードンをボールへ戻した。いくら寒さに強い炎タイプとは言え雪のちらつきだした場所を飛行させるのは忍びなかったからだ。

 ぱらぱらと舞っている小さな雪にぶるりと震える。リュックを探って替えの上着を重ね着してみたが、半袖しか持ってなかったので意味がない。
 容赦なく熱を奪い、しんと染み込んでくる寒さに顔をしかめる。カンジュの無事を確認するまでは、と根性だけで先を急いだ。
 ボール嫌いであまり入りたがらないピカチュウは、途中でマヒルに言われてボールに入った。険しい道をマヒルの手を借りて登り、林を抜ける。マヒル一体ではレッドに手を貸すので精一杯だったので、ピカチュウにボールに戻るよう言ったのだと理解した。

 もうすぐ山頂というところで、今度は洞窟へ入った。そこは内部が鋭い谷のようになっているのに、橋は掛けられていない。崖のような向こうに光の差し込む洞穴(どうけつ)がある。雪原が覗くそこを、マヒルは指差した。
(やっぱりあっちに渡るのか)
 谷は暗く、特に底は目を凝らしてもよく見えない。降りるのは危険だ。

 ふと、その谷底で何か動いた気がして、無駄と知りつつも目を凝らした。ポケモンが潜んでいるとしたら、なおさら降りるわけには行かないし、何が居るのか知っておきたい。
 まだ少ししか休ませてやれていないが、リザードンを出した。尻尾の先の炎があたりを照らしたがフラッシュ程の効果はなく、谷が思ったより深いのを思い知らされた。谷の底にはまだ暗がりが蟠(わだかま)っている。
 見つめる先で、スス、と黒いものが動いた。緊張で強ばったレッドの横顔を見て、マヒルが谷底へ降りていく。
「マヒル」
「ケン! ゲンゲーン」

 あっという間に谷底へ降りたマヒルは、躊躇(ちゅうちょ)なく暗がりに手を伸ばし、ぐいっと何かを引っ張り上げた。勢いよく引っ張り上げられたそれは、ぽーんと高く空中に放り出され、リザードンの炎で正体を見せた。黒い、靄(もや)の塊、としか言い様のないものだった。ゴースに似た靄だが、ゴースのように球体の体もなければ、顔もない。
 それは放り投げられて慌てたように空中で身じろいだが、浮遊することもなく、そのまま落下していった。浮上してきたマヒルが慌ててキャッチして、抱えたままレッドの近くへやってくる。

「それ、なに?」
「ガァ?」
 さあ、なんだろう。とでも言うように首を傾げるマヒル。レッドを可愛がってくれていた彼女が持ってくるのだから危険はないのだろうと思いつつも、得体の知れないことに変わりはない。
「ポケモンなの?」
「げん!」
 元気よく頷いたマヒルに「そんなの見たことないな」と、レッドは図鑑を取り出した。周囲のポケモンを自動で判別してくれるはずの図鑑は、ゲンガーしか表示しない。

「……図鑑には載ってないみたい。新種なのかな。だとしたら……見かけはゴースに似てる、気がする」
 鞄をあさり、シルフスコープでそれを覗き込む。マヒルの腕の中で時折もぞりと蠢(うごめ)くそれは、シルフスコープで覗くと、白っぽいようなクリーム色のような靄に見えた。
「……ね、マヒル、本当にそれ、ポケモン?」
「げん!」
「これ、幽霊の正体を判別出来る道具なんだけど、これを通すと白っぽい靄に見えるよ?」
「……」

 無言になったマヒルは、自分の腕の中の靄を暫し見つめ、顔を上げるとレッドに向かって首を傾げた。
「けーっけっけっけ?」
「なんで笑ったの、しかも疑問形で」
「けけけ」
 えへーっ。そんな雰囲気で困ったように笑ってから、マヒルは靄を抱えたまま谷底へ向かった。

 マヒルの降下先には、いつの間にそこに現れたのか、大きな靄が二つほど蟠っていて、帰ってきた小さな靄を覗き込んだ。不定形のそれらの感情など推測もできないが、なんとなく仲が良さそうな気はする。
 谷底をもそもそと移動し始めた三匹(?)の靄を眺めながら、レッドは戻ってきたマヒルに話しかけた。
「あれがなんなのか、僕にはわかんないけど、危険なものじゃないんだね」
「げん!」 
 にっこりと笑って、マヒルは力強く頷いた。





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