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10 タマゴの行方

 レッドが穴ぬけの紐を使うのに便乗させてもらって、繋がりの洞窟の近くにあるポケモンセンターへ駆け込んだ。まずびしょ濡れの俺たちにジョーイは驚いたが、モンスターボールを差し出してタマゴに罅が、チコリータの蔓が千切れて、と言えば、すぐさま治療に移ってくれた。他のモンスターボールはラッキーが預かって回復マシンに入れてくれた。
 床に水溜まりを作ってしまった俺たちは、居合わせたトレーナーたちにシャワー室へ追いやられた。けどとても悠長に浴びてる気分じゃなくて、体を拭っただけですぐにカウンターへと戻った。

「ジョーイさん? ワカナとタマゴは……」

 既にカウンターの定位置へ戻っていたジョーイ。こんな短時間では治療したとは思えず、手遅れだったのかと苦い気分で尋ねると、ジョーイは慌てて首を振って否定した。

「違うの、タマゴは生きてるわ。チコリータも問題ありません。あなたたちに話す事があって待っていたの。奥へ来てくれるかしら」
「はい」

 お墨付きを貰って俺もレッドも一安心だ。
 ボールから飛び出してきたチコリータとイーブイを抱える。レッドの肩にはピカチュウが駆け上がった。抱えたチコリータの蔓は千切られたままで、再生なんかはしていない。

「ジョーイさん、ワカナの蔓は大丈夫なんですか」
「ええ、大丈夫よ。すぐに完治とは行かないけれど、徐々に元通りになるわ。痛覚もあまりない箇所だから、そんな痛そうな顔をしないで、逆に心配させちゃうわ」

 一応念の為にと痛み止めを貰ってから、案内されるまま一昨日も入ったスタッフルームらしき場所へ向かった。このポケモンセンターでは奥に縁があるなあ、なんて考えながら勧められたソファに座ると、イーブイとチコリータが両側からぴったりくっついて来た。洞窟での事で不安にさせてしまったらしい。
 自ら出てこなかったメリープを出すと、くるりと丸まって可哀想なくらいぷるぷると震えていた。相当怖かったんだろう、当たり前だ。股に尾を挟んで縮こまっている毛玉を抱え上げて、もう大丈夫だと撫でてやる。チコリータとイーブイも慰めるように寄り添った。

 ジョーイは暖かい紅茶を用意してくれていたが、俺は断った。今の状態のメリープから手を放してはいけない気がしたからだ。
 レッドは受け取ったものの口を付けず、代わりに膝へ座ったピカチュウが舐めるように口にした。それには全くお構いなく、レッドが端的に切り出した。

「タマゴは」
「幸い中身が流れ出る程じゃなかったので、治療用の石膏で罅を塞ぎました。中のポケモンに問題があるかは生まれるまでわかりませんが、時折動いていますから、死んではいません」
「問題って、障害が残ったりしてしまうんですか?」
「その可能性は0じゃないわ」

 うーん、あのタマゴは十中八九、繋がりの洞窟のラプラスの子供だろう。親元に返してやりたいが、障害を抱えた状態で野生の世界を生き抜けるんだろうか。ってまだ障害を抱えるとは決まってないけどさ。

「それでね、あなたたちにお願いがあるの」
「はい? なんでしょうか」
「あのタマゴを孵してあげて欲しいの」
「返すって、洞窟に?」
「そっちのかえすじゃないわ。孵化してあげて欲しいの」

 孵化……障害抱えて生まれるかも知れない子を孵化……責任重大過ぎだろ。めっちゃ回避したい。

「えーと、それはやっぱり拾って来た俺たちが責任持って面倒見ろと言う、そう言うお話でしょうか?」
「え? やだ、責任問題を押し付けるわけじゃないのよ。ただ、ポケモンのタマゴは元気なポケモンの近くでしか孵らないから、ここで安静にしているよりトレーナーに任せた方が、無事に生まれてくるの」

 ゲームじゃタマゴは歩数に応じて孵る。そう言うシステムだから。だけど、元気なポケモンの近くに居るのが条件なら、この世界なら一歩も動かなくてもよさそうなもんだけどな。

「ポケセンで元気なポケモンの近くで安静にしてた方がいいんじゃないんですか?」
「うーん、どこから説明したらいいかしら……親元を離れたタマゴは、いくら元気なポケモンが居ても、安置されたままじゃ、孵化までにとても時間がかかるの。知らないかしら」
「初めて知りました」

 レッドも隣で頷いてる。たぶん一般的な知識じゃないんだろう。レッドを一般枠に入れていいのかわからんが。

「普通のタマゴならそれでも無事に生まれて来るんだけど、罅の入ったタマゴは、孵化までの長い時間に耐えきれず亡くなってしまう事もあるの。ボールに入れてトレーナーの近くで元気なポケモンと過ごす方がずっと早く孵るから、無事に生まれる確率は上がるわ」

 へー、不思議だなぁ。ああでも胎教ってのがあるくらいだし、タマゴも元気に生まれてねって大事にされた方が、生まれてやるぜ! って気合いが入るのかな。わからんけども。

「あ、治療が終わってるならタマゴを親元に返してあげるってのは?」
「ボールの中なら絶対に安全だから生まれて来れるだろうけど、自然に帰したら多分孵化できないわ。今度こそ本当に割れてしまう可能性が高いと思う」
「そうですか……」
「……リョウ、孵してあげて」
「うーん、レッドさんじゃ駄目ですか?」
「手持ちがいっぱい」

 そういや6匹フルだっけ、この人。例え無事に健康体のラプラス孵してもボックスに預けっぱなしになりそうだな。……あれ、そういやエーフィ連れてたけど、金銀で入ってたエーフィはHGSSで解雇されて、代わりにラプラス入ってるんじゃなかったっけ。
 もしやここでラプラス入手すんのレッドなのか!?

「レッドさん、ラプラス持ってないんですか?」
「? ボックスにいる」

 あ、既に入手済みでしたか。だよねー、確かシルフで外を見せてあげて、みたいな事言われて託されるんだっけか。
 いかん、思考が逸れた。

「ジョーイさん、俺は孵化するまでって言う条件付きなら預かりますけど」
「そうよね……」

 俺の事情を知るジョーイは困った顔で口を閉ざした。
 自分の言い草がとても無責任なのはわかる。だって孵すだけ孵して後はジョーイに丸投げなんて、生まれた犬猫を無理やり誰かに押し付けるようなもんだ。
 でもそれが俺のぎりぎりの譲歩だ。同情して連れて行く事は簡単だけど、俺は最後まで面倒を見てやれない。それが健康体でも障害を抱えていてもだ。
 それにメリープの事だってまだ片付いてないのに、これ以上抱えて込んでも責任とれないぜ。

「私は、リョウくんに連れて行って欲しかったのだけれど……」
「え、なんで?」

 驚きのあまり敬語を忘れてしまった。しかしメリープといいタマゴといい、なぜ俺に頼もうとすんの、この人。

「あなたはポケモンが生き物だと良く知ってるわ。生きて、感情があって、どうしようもない別れがあるって」

 つまりなんだ、俺ならもしタマゴが死んでも納得できるだろうと、そう言いたいのか?
 嫌な気分になって黙り込むと、ジョーイは不思議そうに首を傾げた。それが全く邪気のない様子だったから、穿って考えすぎただけかもしれない。

「だから、あなたなら本当にタマゴを大事にしてくれると思ったの。不思議なものでね、タマゴは大切にされればされるほど、きちんと生まれてくるのよ」

 ジョーイは無事に生まれてくる可能性を上げたいだけだったらしい。そーだよな、医療従事者なんだから助けようとするのが当たり前か。
 穿ちすぎてすみません。

「……うーん、でも俺、障害抱えたポケモンの面倒なんて見れませんよ。無事に生まれても、まだメリープの金も工面できてませんから連れていけません」
「障害を抱えていた場合は、ポケモン協会で引き取る事もできるわ」

 え、何それ。確かポケモン協会ってリーグやトレーナー管理してる組織だったよな。

「どういう事ですか?」
「ラプラスが乱獲されて数が減ったのは知ってるわね? 繁殖活動の一環で、野生で生き抜けそうにない個体は保護の対象なの」

 へー、保護。そんなのがあるのかぁ、なるほど。

「健康体で生まれた場合も保護して貰えますか?」
「それは無理ね。あくまでも、自力で生きられない個体の保護が目的だから」
「そうですか……じゃあ、無事に生まれたら、洞窟に返す事になりますね」
「そうね、あなたたちが連れていく気がないなら。今回は事情が事情だから特例になるだろうし、逃がした後を心配しなくても大丈夫よ」

 それなら安心だな。だけど、うーん……どうしよう。ここまで聞いても俺は決断できない。
 孵すだけなんてやっぱり無責任だと思う。ラプラスが珍しいなら、欲しがってるトレーナーに事情話して託した方がいいと思う。……てか、思い出したんだけどあのタマゴの親って、怪しい男どもに一度捕まったはずだ。人間不信になって、住処も変えてるかも。

「ジョーイさん、あのタマゴとその親、変な男たちに一度捕獲されたんです」
「え?」
「ちょっとまともには思えないトレーナーの集団だったんで、レッドさんが勝負して結局逃がして貰う事になったんですが」

 嘘は言ってない。色々端折ってオブラートに包んではいるけど、事実しか言ってない。物は言い様って範囲だ。

「ラプラスたち、もしかしたら人間不信になってるかもしれません。そんなラプラスが、人間に孵化されたラプラスを受け入れられるんでしょうか」
「それは……わからないわ。でもラプラスは穏やかで賢いから、助けてくれたあなたたちに孵化された子なら、もしかするかもしれないわ」

 つーことは何か、タマゴの事を思うならどうあがいても俺かレッドが孵化するしかないのか!

「リョウ」
「なんですか?」
「なにを、迷ってるの」

 何を、かあ……うーん、納得してもらうためには、事情やら俺の考えやらを掻い摘んで話すしかないかなあ。

「健康体で生まれて、親元に返してやれなかったら、たぶんラプラスは孵化してくれた親代わりのトレーナーの元を離れがたく思うと思うんです」
「そうね、タマゴから孵ったポケモンは、野生のを捕獲したよりずっと人間を慕うわ」

 あー、そうなんだ。野良を拾うより子供の頃から育てた方が懐くのは、動物もポケモンも一緒なんだな。

「だから、俺は連れて行けません。俺は身よりがないので、俺が死んだりしたら、ポケモンは野生に返されます。その時、ラプラスは行き場を失う。一緒に居たトレーナーとも仲間とも離される。辛い別れが必ず来るのに連れて行くなんて、俺にはできません」
「ポケモン保険」

 驚いた。レッドは浮世離れした雰囲気を持ってるから、ポケモン保険を知っていたとは思わなかった。

「あれ高いじゃないですか。メリープの分も確保できてないのに、ラプラスを連れてくのは無責任ってもんでしょう」
「問題は、それだけ?」
「え?」
「お金があれば、連れてく?」

 えーっと、まあ、そうだなあ。お金があればラプラスを連れて行きたかった。戦力的にも、波乗り的にも、手持ちに居てくれたら嬉しいポケモンだ。
 と思ったけれど。
 膝に視線を落とせば、未だに震えるメリープと気遣わし気に寄り添う2匹の姿が目に入る。連れてくってこういう事なんだよな。

「……やっぱり、連れてはいけません。軽い気持ちで引き受けて、恐い思いをさせるのは、良くないでしょう」

 戦力になる、そんな気持ちでメリープを手持ちに加えた結果がコレだ。今までチコリータとイーブイは瀕死になるのも構わず飛び出して行ったもんだから深く考えて無かったけど、戦闘を厭う質の子も居るだろう。俺はチャンピオンを目指すつもりだ、バトルは避けて通れない。勝つため、チームを生かすために犠牲を要求する時は必ず来る。けれど、それでポケモンに二度と消えない様な傷を負わせるのも嫌だ。
 そして、俺は戦力外のポケモンに金をかけられる程の裕福さもない。

「……バトル、恐怖はつきもの。野生でも、トレーナー、の、下でも。……トレーナーの、ポケモン、は、人が、生き残る、のを、優先させる。……人は、ポケモンより、ずっと脆い。ポケモンは、強い」

 レッドの片言を必死に、俺なりに解読する。
 野生でもトレーナーの手持でも諍いは避けて通れない。ポケモン大好きクラブの人間だって戦わせるのだから、バトルは絶対に避けられない。そしてバトルに恐怖は付き物だ。
 ラプラスに限って言えば、貴重種として犯罪者に狙われるかもしれない野生で居るより、俺の元に居る方が生存率は上がるだろう。何かあればポケモンセンターに担ぎ込んで貰えるし、元気の欠片や傷薬なんて回復アイテムも使って貰える。
 そして、人の元に居るならば、ポケモンより遥かに弱い人間を守るのが、ラプラスの、いや、トレーナーの手持ポケモン全ての成すべき事になる。生存率を上げる代償は、人に力を貸す事。人を守る事。
 思えば俺の手持は、メリープを除けば貴重種ばかりだ。こいつらは人から離れては無事に生きていけないのかもしれない。

「……人とポケモンが共存する道を否定する気はありません。でも、そこにラプラスの意志は? 孵化するにしても、やはり里親を探すべきではないんでしょうか」

 人災で親と離れなきゃいけなかったラプラス。歩むべき道を生まれる前から決めてしまうのは、どうなんだろう。……少なくとも、俺はそれに負い目を感じてしまうし、親の様に無償の愛情を注いでやる事はできない。
 隣へ向き直ると、静かな黒い瞳が俺を見据えていた。何を考えてるのかわからない、感情の凪いだような目。

「……意志は、後、から、着いてくる。君だって、そう」
「俺?」
「……ラプラスを助ける、のに、躊躇した?」

 いや、まあ、それは躊躇しなかったけど。あの時はあれこれ考える余裕がなかったから、目の前の事に全力だっただけだ。

「それとこれとは話が別でしょう」
「……ポケモンも忘れない」
「え?」

 意味が分からずに聞き返したのに、レッドは手元で大人しく座っていたピカチュウに視線を落として、赤い頬をむにむにと撫でた。気持ちよさそうにピカチュウが手へ顔をこすりつける。

「……優しく、して、貰った事、辛かった事、忘れない。……自分で、生き方、選び取る。……ラプラスに、その機会を、あげて……君は、強制しないトレーナー、だと思う」

 顔を上げて再び真っ直ぐ俺を見たレッドは、途切れ途切れの言葉の頼りなさとは裏腹に、揺るぎない静かな声で続けた。

「……君の元でなら、自分で……ラプラス自身で、生き方を決められる、と思う。」

 ふとレッドが移した視線の先は、未だ丸まっているメリープと寄り添う2匹。
 懸命に話しているのだろうけど、片言の域を出ない言葉は意志疎通するのに不十分だ。とりあえずラプラスの未来を思いやる言葉なのはわかったが、同時にそれは俺には負担にしかならない。俺は、慈善事業でトレーナーをしてる訳じゃない。
 俺に何を期待してると言うのだろう。やはり連れてくのは無理だと断ろうとした時、レッドが先に口を開いた。

「……怯えた事、叱らなかった。無理を、させなかった……助けたい、と、ポケモン自身が動く。……そんなトレーナーに会えるのは、幸せ……幸せの、一つ。……ラプラスも、きっと、君の力になる」

 メリープが怯えている事を頭ごなしに叱ったりしなかった。戦闘を強制しなかった。
 俺を助けるためにチコリータとイーブイは自らボールから飛び出した。
 だから、俺の元なら、ラプラスは俺たちと共に居る事を、強制されるのでなく、トレーナーのポケモンである事を自ら選ぶだろう、と、そう言いたいのだろう。

 奇麗事だ、理想論だと切り捨てるには、レッドの瞳は真っ直ぐで揺らぎがなさ過ぎた。たぶん経験から物を言ってるのだろうし、少なからず俺自身、似た考えを持っている部分もあった。……レッドが言うような、慕われるトレーナーになれたらいいと思う。でも、俺は、最後には置いてくのに。
 言葉を失う俺の耳にジッパーの音が届いた。自分でも気付かない内に俯いていた顔を上げると、レッドがリュックを漁っているところだった。
 意図を計りかねて様子を伺っていると、レッドは薄汚れた黄色い財布をだした。厚みがちょっと尋常じゃなくて、ピカチュウの刺繍もぱんぱんになってる。

「あの、レッドさん、もしや」

 俺の要領を得ない問いには答えず、男が持つには可愛すぎる財布から4枚の萬札を抜いて差し出して来た。

「使って」
「いや、いやいやいや、そんなの受け取れません!」
「使って」
「だめです!」
「いいから」
「レッドさんが良くても、俺はだめです。ってああ、貸して貰えるって事でしょうか?」
「いや、あげる」
「そんな大金貰えるかっ!!」

 俺はすごくまともな事を言ったのに、レッドは不満そうに少し眉根を寄せて、お札をずいっと差し出してくる。

「あほかっ! いいか、貸して貰うならまだしも施してもらったらなあ、俺は結局ラプラスについて責任を持ってないって事になるんだよっ! だいたいまだ連れてくなんて言ってないし! つうかそもそも軽々しく大金を渡そうとすんな! 不用心だ!」
「なんで」
「なんでもへったくれもないわ。俺は受け取りませんよ」
「……君は……」
「はい?」

 お金と財布を握ったまま、レッドは何か考えるようにしばらく視線をさまよわせた。

「君のできる事、して。……ラプラスを、大切に、して。……お金出すは、僕が、出す。……それが、君、と、僕に、できる事」
「…………えーっと、つまり、お互い出来る限りの事をしてラプラス助けてやろう、って言いたいのでしょうか?」

 こくっと、無表情にレッドは頷いて金を差し出して来た。

「いや、でも」
「受け取ってあげたらいいと思うわ。タマゴはあなたたち2人が拾ってきたのだもの、協力すると思えばいいのよ。もしあなたが逃がしたいと思ったなら、そうすればいいわ。その時は、私も力になる。個人的にだけど」

 個人的に、って、もしかしてラプラスを引き取る事もやぶさかじゃない、って事だろうか。なら安心だな。
 いやしかし金もらうってどうよ。この金はレッドの心尽くしなんだろうけど……。
 真っ直ぐで期待を込められたレッドの瞳から逃げるようにジョーイを見ると、こちらも期待するような顔をしていた。
 あああ、なんで、俺、真面目でも優しい人間でもねーってのに!

「……うう、わかりました。ラプラスとお金、お預かりします」

 いつか返そう。そう考えながら金を受け取ると、レッドは嬉しそうに微笑んで、ピカチュウも嬉しそうに鳴いた。

9 不穏過ぎる団員

今回は少々暴力的な表現があります。


* * * * *






 人がすれ違うのがやっとの狭い階段をゆったりとした足取りで降りてくる金髪の男。その表情を見て俺は迷わず踵を返した。とても味方には見えなかったから。
 男は人を小馬鹿にした笑みをへらへらと浮かべ、瞳だけはぎらつかせていた。その攻撃的な笑みは、他者を踏みにじろうと言う雰囲気が出ている。
 外れてたら後で謝ろう。

「あれぇ? 逃げちゃうの?」

 人の神経を逆なでする気満々な粘っこい声をかけられて、俺はなるべく階段から距離を取りながら鞄を手放し、身軽になった。また水中に入る事になった時、少しでも泳ぎやすいようにだ。
 ここに降りて来られるって事は、相手は波乗りを使える。フィールドで波乗りを使うにはジムバッジが4つ必要なはずだ。どう考えても俺の手持ちじゃ適わない。フシギバナなら大丈夫かもしれないけど、俺が指示できるもんでもないし、決して広くない足場でトレーナーにダイレクトアタックを躊躇わない攻撃されたら、たぶん俺死ぬ。

「レッドさん!」
「カビゴン」

 轟音が収まりつつある戦場へ向かい声を張り上げれば、レッドはすぐに救援を出してくれた。ほんっと足手まといですみません。と心の中で手を合わせながら、再び冷たい地底湖へ飛び込む。少しでも男から距離を稼ぐためだ。
 容赦なく体温を奪う湖、そしてレッドたちの戦闘の余波である波とまとわり付く服が泳ぎを阻害する。

「リョウ! 波乗り! エーフィ!」

 焦ったようなレッドの声に、心の中で俺は波乗り出来ませんと突っ込む。腹に衝撃が来た。胴を引っ張られて水面に、つうか空中に掴み上げられてしまった。
 遠目にカメックスの腹の下の水面が不自然に盛り上がってるのが見えた。どうやらカメックスに波乗りの指示を出し、俺を助けようとした、のか? 波乗りされたら俺も食らうと思うんだけど。
 怖い考えから思考を逸らすように、腹に巻きつく触手の元を辿る。正体は水中で無数の触手を揺らめかせるドククラゲだ。たぶん男の手持ちだろう。

「はいはい全員停止してぇ〜。じゃないとまとめて潰しちゃうからね〜。部下だって容赦しないよん?」

 間延びした口調で、しかし男の声は良く通った。まず向こう岸にいた洞窟探検装備のやつらが動きを止めて、一泊置いてレッドも停止する。不自然に盛り上がっていた水面が元通りになって、攻撃は中止された。
 すみませんレッドさん、どう考えても俺が人質になってるからですよね。本当、もう、ごめんなさい。焼き入れられても文句言えないっス。
 どうすれば抜け出せるだろう。空回りし続ける思考を持て余しながら階段を見ると、さっきの男がボスゴドラを連れて現れた。もしや地震起こしたのこいつだったりする?

「隊長!」
「あーあ、もう。なんでこんなトコで道草くってんのよ、お前らさぁ」
「すみません。ですが、これは不可抗力で」
「あ、いい事思い付いた! お前らもレッド少年もまとめて破壊光線で葬っちゃおうゼ!」

 部下だと言う探検装備の男の言い訳なんてなかったように、金髪の男は手を叩いて妙案だとでも言うように笑っていた。その笑顔はさっきと打って変わって毒気0。思わず心の中でお前はワタルか! と突っ込んでしまう。

「なんてネ。嘘だよぉ? だーからさぁ、そんなに睨んじゃヤダよぉ、レッド少年」
「………………」
「オレはそこの探検隊連中を回収しに来ただーけ。ネ、ドククラゲ」
「はぐっ……」
「ちこぉっ」

 同意を求められたドククラゲは、それが合図だったのか触手に力を入れた。締め付けられて強制的に空気を吐き出させられ、我慢する間もなく苦鳴を漏らしてしまった。それを聞きつけたチコリータがモンスターボールから飛び出し、ドククラゲにくってかかる。俺を締め付けるたった一本の触手を引き剥がそうと蔓を絡め、逆にドククラゲに掴まれた。ぐんと引っ張られて、チコリータの蔓がぶちっと嫌な音をたてて千切れた。

「わ、かなっ」
「ぎゃっ」

 苦しい息の下で掠れた声も伸ばした手も、なんの役にもたたない。チコリータは岩壁に叩きつけられ、悲鳴一つ残して動かなくなった。

「わか、なっ」
「離せ」
「いいよぉ、でも交換条件ね。ドククラゲ」

 レッドが取り引きに応じる姿勢を見せると、男はつまらなさそうに頷いた。名を呼ばれたドククラゲが力を緩める。

「はい、もう苦しくないでしょ?」
「……はい」
「じゃー今度はそっちの番だね。レッド少年、ポケモンしまってー? あ、一匹は残していいよん。護身用、ネ」

 レッドは対岸に上がり、エーフィを残して後はボールに戻した。

「素直だねぇ、つーまんないの。ドククラゲ」

 つまらなさそうに呟く男の近くへ下ろされる。チコリータを戻すのを止めもせず、金髪は俺を見下ろして笑った。

「ねぇ、チコリータが心配?」
「……」
「アハッ、オレとはお喋りしたくないのカナー? ま、いいや。――お前たちもポケモンしまって、こっちに来い」

 男たちはそれぞれメノクラゲだけを出し、それから小さなゴムボートも取り出して乗り込んだ。メノクラゲたちは皆瀕死なのか、ふらふらと緩慢な動きでボードを引く。

「とっろ! あいつらトロすぎデショ。あーあ、暇だにゃー」

 男が、まるで友達にするように馴れ馴れしく背後から手を伸ばして肩に触れようとした。ボールの開く音がした。見えなくてもイーブイが飛び出して男にくってかかったのがわかった。こっ、とん、と靴の音が身軽に遠のく。
 振り向こうとした俺の視界に、振り抜かれるボスゴドラの太い腕が見えた。

「がっ」
「モチヅキ!?」
「そーんな心配しなくても〜。ちょっと仲良くするだーけ、だよ。ネ」

 壁に叩きつけられてぐったりしたイーブイの元へ反射的に駆け寄ろうとしたが、金髪が俺の首に片手を回して遮った。危険な相手に急所を掴まれて、それ以上は動けない。イーブイをボールに戻してやりたいけど、なにされるか怖くて動けない。

「うーん、こうも簡単に人の命を握れちゃうと……気持ちいーい!」

 ふふふ、と悦に入ったような声音で男が笑う。

「ねぇ、君もそう思うデショ? 他人の命を自分の手のひらで転がせるのってさぁ、気分爽快だよネ!」
「………………」
「なんだよぉ、だんまりしちゃって、つまんないのー。怒らないから正直に言ってみ? 弄ぶの楽しいよネ!」

 機嫌を損ねたら何かされそうだ……なんと答えたらいいのやら。同意、してもなあ、心にもない事言ったら、それはそれで機嫌損ねそうな気がする。

「……人の趣味に口を出すなんて、無粋な真似はしない事にしているんです」
「エエー? そんな風に逃げちゃうのズルいでしょ。本当に怒らないからさぁ、さあ正直にドーゾ!」
「……じゃあ。悪趣味だと思います」
「あはは、キミ馬鹿だね」

 これって正直者は馬鹿を見るって状態?
 焦った俺を、男は馬鹿に仕切った声で嘲笑った。

「キミは、自分が良ければ他者を踏みにじってもなんとも思わない人間だ」

 イーブイのために動けなかった俺を詰ろうとしているのだろう。湧き上がる罪悪感のままここで動くのは簡単だけど、挑発に乗っても誰も助からない。

「お兄さんは嫌世家?」
「キミはオレと同じ匂いがするのに奇麗事で煙に巻こうとするから、気に入らなくってネ。気分悪いなあ。キミのせいで濡れちゃったし、早くお風呂入りたーい」

 不意に解放されて、また何かされない内にとイーブイを戻す。チコリータとイーブイのボールを見れば、瀕死になっていた。死んではいなくて、少しだけほっとした。
 ようやくこちらへ着いた男たちが、袋を手に順にボートを降り、メノクラゲとボートをしまう。それを眺めながら、金髪の男は気のない素振りで言った。

「首尾はぁ?」
「上場です」
「タマゴもありましたよ」
「マジで? 見して〜」

 首尾は上場でタマゴもあった、って事は、こいつら、わざと地震で崩落起こして、封鎖してる間にポケモン捕まえたのか!
 ああ、そういや怪獣マニアが言ってたじゃん。今日はラプラスの声が聞こえないって。たぶんこいつらがラプラスを捕まえたんだろう。こんなやり口、まともなトレーナーの行動じゃない。
 怒りで腹の中が熱くなった。こいつらにラプラスを、つうかポケモンを渡したくない。なにか俺にできる事はないか? フシギバナは残っているけど、人のポケモンは言うことを聞かせられないし、出す前に取り押さえられるのが関の山だろう。
 まんじりとしながら眺める前で、金髪の男にクリーム色と青の、30cmくらいのタマゴが渡される。ゲームのグラフィックとは違うけど、あれがポケモンのタマゴなんだろう。

「んー、カタカタ動いてる。もうすぐ生まれるのカナ?」
「おそらくは」
「やっぱそーだよネ。つーか、青っ。青って食欲減退色なんだよネー」
「は? はぁ、そうですね」
「1回ポケモンのタマゴ食べてみたいけど、コレはまずそう……あ、今割ったらもうポケモンのカタチになってんのかなあ。えーい」

 衝動だった。タマゴを振り上げた金髪を阻止しようと、タマゴを奪おうと手を伸ばした。ボスゴドラが金髪を守るように動き、部下の男が俺をねじ伏せ、そして金髪の男の喉には蔓が巻き付いていた。チコリータじゃない。太い蔓を伸ばしたのは、数人の男を下敷きにしながら現れたフシギバナだった。

「あーあ、やってくれたね、レッド少年。エーフィにテレパシーで指示ださせたのかぁ」
「……リョウとラプラスを離せ」
「オレの命と交換かな?」
「………………」
「隊長っ!」

 きり、と、蔓がこすれる微かな音がした。
 取り押さえられたままじゃレッドの顔は見えなかったけど、レッドもフシギバナも本気らしい事と、なぜこのタイミングでフシギバナが出たのか、わかった気がした。金髪を人質に取るだけでなく部下も数人巻き込んだこの状態なら、相手方も無理はできないだろう。
 ……レッドはこういう状態になると、予想していたんだろうか。

「けほっ……しょーがない、今回は引いてやるよ。まずはそれを解放してやって」
「はい」

 蔓が緩むと咳払い一つ、面白そうに笑いながら金髪は指示した。俺が無事に立ち上がると、フシギバナが足蹴にしていた男の1人を解放する。

「ラプラスもだ」
「はい」

 しぶしぶと男たちがラプラスを逃がす。
 ボールから青い光につつまれて現れたラプラス達は傷だらけで、弱々しく鳴いて湖に帰ってゆく。タマゴといい複数のラプラスといい、細かいゲームとの違いがある。
 一番違うのは、こいつらみたいな犯罪者がいる事だけど。

「さて、タマゴはキミに預けるよ」

 金髪がドーゾとタマゴを差し出して、俺が手を伸ばす前にタマゴを手放した。

「っ!」

 受け止めようとして前のめりに手を伸ばすが、落下するそれに届かず、ごっ、と音をたてて、タマゴに罅が入ってしまう。

「ごっめーん、手が濡れてたからすべっちゃったぁ」
「リョウ、ボールに!」

 タマゴを拾い上げて岸に捨て置いた鞄へ駆け寄る俺を、金髪は止めずにケラケラと笑った。

「ごめんねぇ、間に合うといいね? さって、オレらは一足お先に。フーディン」

 いつの間にフーディンは現れたのか。ふぃん、と、独特な音がして、洞窟は一気に静かになった。

8 金曜日はラプラスの日

今回は地震や津波に関する描写があります。


* * * * *






 無線から漏れ聞こえる声はさして大きくないが、静かな洞窟では良く響いた。やりとりを聞いているとレッドだけ連れてくって事で話がまとまった。

「聞こえていたよね?」
「はい」
「じゃあ行こうか。現場はもう一つ下の階だから、僕について来て」

 お兄さんは鞄からゴムボートを出し、メノクラゲがそれに触手を伸ばした。メノクラゲにボートを引いて湖を渡るのか。
などと感心してる場合じゃない。

「すみません、待ってください。レッドさん」
「?」
「悪いんですが一度上に戻って、湖の向こうに戻して欲しいんです。俺、波乗り使えないんで……ヒワダに向かって、応援呼んできますね」
 レッドはかっくんと頷いて、カメックスも階段へと道を譲ってくれた。

「と言うわけで、ごめんなさい、お兄さん。一度上に戻ります」
「ああ、わかったよ。気を付けて」
「ありがとうございます。行こう、ワカナ」
「ちこっ」

 軽く頭を下げて階段に向かう。先頭からワカナ、俺、ピカチュウを肩に乗せたレッド、カメックスの順番だ。

「あ、待って君たち! 落とし物だ」

 少し登ったところでお兄さんが声をかけてきた。しかし振り向いても細い階段はカメックスの体で塞がれているばかり。こんな狭いところでカメックスは方向転換できるかな。あ、ボールに戻せばいいのか。
 すぐに思い付いて口を開こうとした俺の腕をレッドが強く引く。腕に指が食い込んで痛いとか同性と顔近付ける趣味ねーよとか、文句を言う前にレッドは低く耳打ちしてきた。

「壁に寄って」
「は?」
「ワカナも」

 わけがわからないまま、強制的にぐいぐいと壁に押し付けられてしまった。よくわからないが何か不穏な空気は感じる。なんとなく不安で足元を見やれば、ワカナも疑問でいっぱいと言う顔で、それでも素直に壁に身を寄せる所だった。

「君たち?」
「カメックス、戻れ」

 不信そうなお兄さんに、レッドはカメックスを戻す事で応えた。瞬間、水の奔流が目の前を通過し、続いてぱりりと電気が弾けるような音がした。

「ピッカァ」

 愛らしい声に被るようなタイミングで、ドオン! と、心臓が竦むような轟音が近くに落ちた。咄嗟に閉じた瞼越しにも目が眩むような光。

「行け」

 お兄さんのメノクラゲに攻撃されて、レッドとピカチュウが反撃した。そう理解した時はすでにレッドは振り返ってボールを放り投げていて、地下1階の足場にカメックスが現れる。その体の影にピカチュウが駆け込むと、ピカチュウを狙ったらしい触手はカメックスに叩きつけられ、そのまま胴体に絡みついた。
 たぶん巻きつく攻撃だろう。それに微塵も動じた様子なく、カメックスは前傾姿勢をとった。

「う、わああああ」

 お兄さんの引きつった声と慌てた足音を、カメックスの肩の大砲から吐き出され始めた激流のドドド、と言う低い音が打ち消してしまう。そしてバン! と激しく衝突する音をたてて、お兄さんとメノクラゲをぶっ飛ばしてしまう。メノクラゲは巻き付いていたのに、それを水圧で負かして無理やりに引き剥がして、そのまま吹っ飛ばしたみたいだった。
 ばしゃんと湖面に落ちる音が2つ響いて、それでカメックスの噴射も止まった。

「って、いや、レッドさん! 人間まで攻撃しちゃいかんでしょ!?」
「やり返しただけ」
「あ、そっか、正当防衛か」

 階段を塞いでたカメックスをしまった瞬間、トレーナーにダイレクトアタックしてきたお兄さんの攻撃が発端だもんな。ってそれでも過剰防衛じゃないか? そもそもなんで攻撃されたんだ。なんかしたか、俺たち。それともお兄さん悪い人だったのか?

「レッドさん、あのお兄さんは……」
「死んでない」
「あ、はい」

 それは、ねえ。当たり前っつうか。殺してたらまずいだろ。っていやいやそうじゃなくて。
 何から言うべきか、と言うかまず事態に頭がついて行けずに口ごもっていると、レッドに手首を掴まれて階段を降りてしまった。

「ちょ、ちょちょちょ、レッドさん? どこへ?」
「下、あいつの仲間がいる。急ぐから、ここで待て」

 待てって俺は犬じゃないぞ! ってどうでもいいんだ、そんな突っ込みは。
 レッドは1人でお兄さんの仲間を倒しに行くつもりなんだろう。って、まてまて。

「待って下さい、まだ悪いやつらか確定してないのに倒すのはどうかと」
「確かめてくる」

 あ、そうですよね。いきなり問答無用で倒したりしないですよね。

「わかりました、待ってます」

 頷いたレッドはボールホルダーに手を伸ばして、一つのモンスターボールを手渡して来た。

「……フシギバナ」
「え?」
「頼む」

 モンスターボールに向かっての言葉は、フシギバナに俺たちを頼んだらしかった。俺たち、涙がちょちょぎれるほど役立たずだ。
 すでにピカチュウを載せて水面で待機していたカメックスにレッドが乗ろうとした所で、ピカチュウが耳をピクリと揺らした。

「ぴかっ」
「来る?」
「ぴ」
「上へ」
「はい。気を付けて下さい」
「ちこちー」

 ホルダーにフシギバナのボールを付けてから、俺とチコリータは階段を上がり始めた。待てって言われたり上に行けって言われたり慌ただしいけど、先輩トレーナーの言うことには素直に従って置きますよっと。
 地下1階は何があってもレッドが丸く収めるだろ。

「逃げろ!」

 すでに終わったような気でいた所へ飛んで来た鋭い声に、俺とチコリータはつい振り向いてしまった。もう上に上がるだけだからと気を抜いていた俺たちは、レッドの切羽詰まった声音の意味を、緊急の警報である事を理解できなかった。
 ずん、と、低い地響きに俺とチコリータは固まる。地震だと思った時には既に遅く、下から突き上げるような揺れに立っていることが出来ない。

「っ、ワカナ!」

 目を見張ったまま固まっているチコリータを抱き寄せ、覆い被さる。ボールに戻せばいいんだと思ったが、激しい揺れの中でボールを取り落とすかもしれないと思いとどまった。

「ち、こっ」
「大丈夫だから、動くな!」

 腹の下で身じろいだチコリータを抱き締める。どどど、と低い地響きが聞こえる。落石あったら死ぬな。そんな思考がよぎったがどうしようもない。もし落石があっても、せめてチコリータを守れるように……あ、やべ、イーブイとメリープとフシギバナ、背中側のホルダーじゃん!
 慌ててホルダーに手を伸ばしたが、焦ってうまく外せない。そうこうしている内に地震は収まり始めた。
 いつの間にか詰めていた息を吐き出し、起き上がろうとした時。またどどどと低い地響きがして、俺は再びチコリータを抱きしめてうずくまった。

「リョウ、逃げろ!」
「ちこちっ」
「ワカナ、うごく……」

 どぱん! と大量の水が激突するような音と振動。地震大国で育った人間ならみな知っている、地震の後は津波、という知識がぱっと浮かんだ。2度目の警告と地響きは、地震じゃなくて津波だったらしい。
 慌ててチコリータを抱き上げて走り出そうとした俺の足を、階段を逆流してきた大量の水が掬う。

「うわあっ!?」
「ちこぉっ!!」

 水位は腰より少し上ぐらいだった。けれど勢いよく背後から押され、体制を崩して水中に潜ってしまった。そのままチコリータを逃がす間もなすすべもなく、重力に従って地下1階の湖に戻る水に浚われてゆく。
 口に入り込んだ水を追い出そうとして、反射的に息を吐いてしまった。口を閉じてももう遅く、息が苦しい。激しい流れに目を開けている事さえできない。どうしたら助かるかもわからない。焦りと不安の中で、チコリータを離さないようにきつく抱き締めた。
 地底湖の底へと引きずり込まれてゆく俺の全身に衝撃が走った。肺に残っていた空気がすべて逃げてしまう。壁にぶち当たったのかと思ったが、目を開けると視界は白い壁で埋め尽くされていた。
 太く大きな何かに胴体を抱えられる感触に続いて、ぐんと体が引っ張られる。そして混乱の内にざん! と勢いよく湖面に押し上げられる。

「ひゅっ、げほっ、ごほっ、ひゅう、ひゅう……」
「ごぽんっ、げぇっ、ひゅっ、げほっ、げっほ、はっ、はっ、はっ」

 急に入ってきた大量の酸素にむせりながら腕の中のチコリータを見やると、いくらか水を飲んでしまったらしく、勢いよく吐き出すところだった。助けになるかわからないが、背中を叩いてやる。咳き込みながらもちゃんと息をしているチコリータを抱える手は、細かく震えていた。
 ドオンと、心臓に来る轟音と光に振り返れば、水面を猛スピードで泳ぐカメックスの上にレッドとピカチュウ、それからエーフィがいた。見てる間にもカメックスは攻撃を上手く避け、ピカチュウとエーフィが、洞窟探検装備の男たちに応戦している。
 それはバトルとは言い難い光景だった。男たちもレッドも、ポケモンの放つ技に人を巻き込む事を戸惑っていない様子だ。その戦場とも言える激しい戦闘から、俺たちを守るようにリザードンが中空でホバリングしている。
 俺たちは完全に足手まといだった。

「はあ、は……ワカナ、逃げるぞ」
「はあ、はあ、ちこ、ち……」

 蔓を首に絡めてきたチコリータをしっかり抱き直してから、俺たちを水面に押し上げてくれたポケモンを見上げる。3mはあるかと言う巨体のカビゴンはぷかりと水面に上半身を出し、片腕で軽々と俺たちを抱えて覗き込んでいた。

「お前は、レッドさんの?」

 こくりと頷いて、空いた片手で自分の背中を指差す。どうやら背中に乗れと言いたいらしい。しかしどうやって移動したらいいのか。肩口によじ登るにしてもどこ掴んだらいいんだ?
 チコリータを片手に恐る恐る肩口を掴んでみると、戸惑いを感じたらしい。カビゴンがそっと俺たちを湖面につけた。たぶん一度潜って背中に押し上げるつもりなんだろう。

「ちこっ!?」
「大丈夫、沈まないようにするから、掴まってて」
「ちこち、ちこぉ」
「深呼吸。すってー」
「ちこ……すー」
「はい、とめて。目も瞑って」

 ぶるぶる震えながらも聞き分けてくれたチコリータを片腕に水面で立ち泳ぎをする。カビゴンは予想通り、一度水中に潜ってから俺たちを上手に背中へ乗せた。

「もういいよ、ワカナ」
「ぷはっ、ちい」
「あ、そうだ、ボールに戻ってて」
「ちこっ」

 背中に乗る前にボールに戻せば良かったと、今更気付いた。非常事態で思考能力低下してるなあ。
 そんな事を考えながら、力強く頷いたチコリータをボールに戻す。ついでにちゃんとボールが4つあるか確認しとく。よかった、なくしてない。

「ごんごー?」
「え? ごめん、よくわかんないや」
「ごーん」
「わっ、とぉ」

 1階へ続く階段のある岸を目指してカビゴンは泳ぎだした。突然の事にバランスを崩して遠慮なくカビゴンの柔らかい背中を掴んでしまったが、文句はないようなのでそのまま掴まっておく事にした。
 カメックスより揺れるが、予想外に泳ぎが上手い。そういやカビゴンって波乗り覚えるんだよな、こいつも覚えてたりするんだろうか。
 どうでもいい事を考えて背後の轟音から気をそらす。それでもびりびりと振動が響いてきて生きた心地がしない。なんつうか、近くで落雷が頻発しているような、そんな感じで反射的に身が竦んでしまう。

 あっと言う間に着いた岸へ降りると、カビゴンはレッドの方へ向かって泳ぎだした。意外にも素早くて、脳裏に動けるデブと言う言葉が浮かんだ。どうやら俺の調子も戻り始めたらしい。
 まだ手足が細かく震えてるけど体は普通に動く。濡れた足場を転ばないよう慎重に、なるべく急いで、今度こそ俺は階段を上がりはじめ、そしてまた足を止めた。
 誰かが降りてこようとしていたからだ。


次話 不穏過ぎる団員
前話 繋がりの洞窟

雨とマリルリ

 土砂降りの中を安っぽいビニール傘で頭だけをカバーした人間が歩いてゆく。高層ビルの立ち並ぶ場所柄、強風に煽られた雨で腰から下は水気を含んでいた。マリルリの視界に映るスニーカーはとっくにずぶ濡れで、足を進めるたびに色の濃くなった生地からぐじゅりと音が聞こえそうだった。
 見上げた人間の顔は無表情だが、歩きづらく思っている事が窺えた。

 ぼんやり人間の足を眺めながら足を進めていたマリルリを、横から叩き付けるような雨脚が襲う。ビルの群が作り出す暴風雨に耐えかねて、もうやだ! と憤りながら人間は足を止めた。マリルリも立ち止まって人間の様子を窺うように見上げて、傘の骨がぐんにゃりと曲がり、そのまま一本が折れるのを目撃してしまった。
 風が収まるのを待ってからるりりるりーと鳴いて傘を示すと、人間は折れてしまった骨に目をしばたかせた。

「……あーあ、せっかく傘買ったのに」
 落胆する人間を見たマリルリは、唐突に走り出した。どうしたの、どこ行くの? と追い掛けてくる人間を置いて、それなりに歩いている人の隙間を抜けながら先へ先へ進む。曲がり角を曲がったところで足を止めたマリルリは、人間が追い付いて来たところで身軽にジャンプした。

 きゃ、と短い悲鳴を上げながらも、胸元へ飛び込んできたマリルリをしっかり受け止めてから、こんなとこで甘えないの、泥付いちゃったじゃない、と文句を言った。マリルリは不満そうに口を尖らせ、下向きにぽぽぽと泡を吐き出す。

 威力皆無のバブル光線は人間の胸元や肩口で弾けた。幾つかは空に逃れて、シャボン玉のように雨の中をゆらゆらと登ってゆく。町中で技はダメよ、と注意してくる人間の胸元を押し返して地面へ降りたマリルリに、人間の楽しそうな声が降ってきた。
 街の外ならいいよ、今からいこうか。ちらりと見上げれば、人間はにっこり笑っていた。ずぶ濡れになった髪をかきあげてからマリルリを抱き上げる。
ごめんね、ちょっとイライラして、八つ当たりしちゃった。間延びした声でるりーと鳴いたマリルリは、気にしなくていいと伝えるようにポンポンと軽く肩を叩いて、人間の腕からそっと抜け出した。そのままぴょんと跳ね出す。
 マリルリ、待ってよ。追ってくる人間の声を背中に受けつつ、マリルリはボールのように弾みながら街の外へ駆けていった。





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 マリルリも雑巾臭くなるのでしょうか……。
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