白くけぶる山の連なりを望みながら、暖かいリザードンの背に跨(またが)って青空の中を翔ける。眼下に広がるのは、道幅の広い一本道である23番道路。青々と茂った緑がポケモンたちの姿を覆い隠し、澄んだ青色の湖面はきらきらと日を照り返し、時折ポケモンらしき影が身をくねらせている。長く変化に富んだ道路、そのところどころに構えられた有人ゲートを八つ数えると、そこからは深い森が地上を覆う。人を拒むほど険しい難所を内包する森の下には、チャンピオンロードと呼ばれる広大な洞窟が隠されている。
 その森はやがて広大な草原に取って代わられ、洞窟もぽっかりと地上へ口を開けている。その洞穴(どうけつ)の目と鼻の先に、巨大な建築物が存在していた。煉瓦の赤を基調として白煉瓦や大理石で白く化粧した瀟洒(しょうしゃ)なそれが、今や多くのトレーナーが憧れる場所、ポケモンリーグ本部。

 磨き上げられた正面玄関の手前には広々とした庭園が広がっている。四季折々の花が咲き乱れる美しい庭、その一角には、空を越えた来訪者のために発着場が作られている。その石畳の上へリザードンは降り立ち、背から赤い上着の少年、レッドが軽やかに降りた。
 彼は僅かに微笑んで、ここまで運んでくれたリザードンの首を優しく撫で「ありがとう」と礼を述(の)べた。リザードンもその手を心地よさそうに受け入れて嬉しそうに目を細めた。
 リザードンをボールへと戻し、代わりにボール嫌いのピカチュウを出す。ぷるぷると首を振ったピカチュウは、外に出られたのを喜ぶようににっこりと愛らしい笑顔を見せた。

 木々に囲まれ木漏れ日の踊る遊歩道を進み、リーグの正面玄関へ続く石畳へ出る。道の両脇では勇ましい表情をしたポケモン像たちが通行人を見守っている。
 ざあざあと梢(こずえ)を大きく鳴らしながら風が吹き抜ける。平地でも暑さが和らぎ始めた今時期、高原であるここは山から吹き降ろす冷風もあってとても過ごしやすい。ひっそりと木陰に設置されたベンチに腰掛ければ、すぐにでも微睡(まどろ)みを楽しめるだろう。弁当や遊び道具を持ってピクニックへ出るのもきっと楽しい。レッドがすでに持っているポケモンしか釣れないだろうが、この心地よさを楽しむためなら漫然(まんぜん)と糸を垂(た)らすのだって悪く無い。
 避暑地に最適な気候を惜しみながら、レッドは無粋な冷房のかかる室内へ入った。途端(とたん)に足は速まり、小柄なピカチュウが小走りになるほどの速度となる。あからさまに先を急ぐ様子を見せながらロビーを突っ切ろうとしていると、聞き落としようがないほとはっきりと「レッドくん」と朗らかな声が呼び止めた。
 レッドの表情が僅かに険しくなった。しかし振り返った時には既にいつもの無表情で、にこにこと明朗そうに笑う壮年の男を迎えた。男は水色のシャツに紺色のネクタイを締め、薄い灰色の夏用スーツを着こなしている。つま先から頭の天辺まで隙なくぴしりとしたこの男を、レッドは苦手に思っていた。

「いやあ〜、久しぶりだねえ、元気にしてたかな?」
 挨拶を皮切りに男の口は、蛇口を捻ったようにじゃばじゃばと言葉を垂れ流した。レッドの気乗りしない様子など目に入っていないかのように。これは、リーグ本部を訪れたレッドにとって恒例となっていた。
 この男はレッドの無愛想にも無口にも怯まず、辟易(へきえき)した様子も一切見せずに話しかけてくる。そしてレッドの短い返答にも負けずに次々と話題を出してくる。男から逃れる術(すべ)を思いつかないレッドは、毎回こうして捕まっていた。そうして今回ももたもたしている内に、同じ話題を切り出されてしまった。
「レッドくん、グリーンくんには会ったかい? ……そうか、最近は会ってないんだね。どうだろう、今度は君がここで、挑戦者として現れるグリーンくんを待つと言うのは」
 レッドは一番最初にグリーンに勝った時から、この男にチャンピオンの座を勧められていた。それでも前に訪れた時はまだ良かった。グリーンがまだチャンピオンの座に居てくれたから、断るのは簡単だった。
 しかし強化したパーティでもレッドに負けたグリーンはとうとうチャンピオンの座を返上し、今や旅の空の下だ。常々レッドがチャンピオンにふさわしいと言って憚(はばか)らなかった男は、ここぞとばかりに空席を埋めて欲しいと強い調子で言う。

 この男からの評価を、レッドは疎(うと)ましく思っていた。チャンピオンになると言う事は自由を奪われるのと同義だ。以前はそこまで考えが至っていなかったので、なんの覚悟も決めずにチャンピオンを目指していた。そして、チャンピオンになってしまった。
 チャンピオンになれば、バトルに今の仲間を出してやれなくなる。強化前のレッドに勝てる挑戦者が現れて初めて、今のベストであるこのパーティで迎え撃つことが許される。旅も自由にできない。まだまだこの仲間と冒険したい、まだまだやりたいことに溢れている。だからチャンピオンの地位に煩わされるのは嫌だった。

 無言を貫いて嫌だと意思表示をする。そんな態度は子供っぽいとわかっていても、口の上手い男を相手にどう言えば断れるのか、レッドにはわからなかった。
「そうだ、今から食事に行こう。ちょうどシンオウのチャンピオンが来ているから、彼女と一緒に。あちらの珍しいポケモンを連れていたよ」
 手を取ろうとする強引さに、レッドは首を振って「用事があるので」と素直に答えたが、男は用事を察して「四天王はもう誰も君には勝てないだろう?」と返してきた。面倒くさい男に捕まるかもしれないと知りながらもここへ訪れたのは、ワタルにバトルへと誘われていたからだったが、そんな事情など男はお見通しだったらしい。

 苦手な相手に加えて初対面の女性と食事だなんて、聞いただけでうんざりとする。レッドの断りを翻(ひるがえ)させようとするしつこい男に、首をふって後退(あとずさ)った。
「ピカチュウ、いくよ」
「ピッカー!」
「おおい、レッドくん?」
 張り上げられた声は無視した。踵(きびす)を返しても目的地などない。とにかく、煩わしい男の居ない場所ならばどこでもよかった。
 失礼します、と、背中ごしに一応は別れの挨拶を残し、強引にその場から離脱してそのまま洞窟へと逃げ込んだ。チャンピオンロードは熟練のトレーナーでも準備無しに入れはしない場所だ。野生では高レベルにあたるポケモンたちが数多く出現し、トレーナーの行く手を阻む。おまけにポケギアや携帯電話の電波が極端に悪い場所なので、リーグでそこそこの地位にいるらしい男は仕事中にここへは踏み込めない。
 何よりここには強さを求めるトレーナーたちが待ち構えている。チャンピオンだとか、それに纏(まつ)わる権利だとか、そういうものを考えずに純粋にバトルがしたかったレッドは、ランニングシューズでわざと音を立て、自分の居場所をアピールしながら奥へ奥へと潜っていった。





 長い洞窟の終わりを告げるのは、チャンピオンロードの入り口、23番道路へ繋がる洞穴(どうけつ)。それを目にした途端、レッドの心には不安が浮かんだ。男がもし空を飛んで追ってきたら……。
 仕事中なのだからリーグ本部から離れないだろうとわかっていても、もしもの想像は止まらない。嫌な事柄だからこそ、思考はネガティブへ傾き、溜め息ものの想像を掻き立てた。
 思考に気を取られ注意力が欠けた状態でも、彼の耳は草むらで何かが動いた音を拾った。すわ野生のポケモンかと、道路の両脇を覆う森へ素早く視線を走らせる。その視線の先、木々の間にどろりとした目の警備員の青年が真顔で立っていた。

「こんにちは、レッドくん」
 気持ちの悪い目をした人物が可笑しな場所に現れたのでぎょっとしたが、青年は笑うと朗らかな雰囲気を纏(まと)った。異様さを醸(かも)し出していた目も生き生きとして、先ほどのは見間違いだったのかと思うほどだった。
(なに、この人)
 劇的な表情の変化に戸惑うと同時に、突然なんの用だ、と警戒するレッドの前へ彼は進み出た。そして警戒心など気にした様子もなく、にこやかに話しかけてきた。
「一度だけ会ったことがあるんだけど、覚えてない、よね」
 言われた通り、覚えのない顔だった。しかしこんな場所で会う警備員だ、予想は付く。
「……ゲートの、どこかで?」
「そう! グリーンくんが通った時も驚いたけど、立て続けに君が訪れた時もすっごく驚いたんだよ。遅くなったけれど、リーグ制覇、おめでとう」
「ぁ……ありがとう、ございます」
 顔すら覚えていないのだから、当然こんな雑談を交わすような間柄ではない。この人は僕にいったいなんの用事だろう、そんな困惑と警戒心がレッドの口を重くする。
「突然驚かせてごめんよ。でもチャンピオンにも勝った君に教えたいことがあったんだ。シロガネ山って知っているかい?」
 目の前の青年に色々と引っかかりを覚えていたレッドは、戸惑いながらも頷いた。シロガネ山はテレビで何度も見たことがあった。カントーとジョウトの間にある雪山だ。
「じゃあ、シロガネ山に続くゲートは知ってる?」
 初耳だ、と首を振る。
「本当は正式にチャンピオンにならないと登れない場所なんだけど、何度もチャンピオンに勝ってる君なら大丈夫だと思うから、内緒で案内してあげるよ」
 突然に開けた新しい場所への道に、レッドは目を輝かせた。何故なら現状に不満を感じていたからだ。

 チャンピオンとしてリーグに居て欲しいと言われるのが窮屈(きゅうくつ)で仕方ない。街を歩いていて、チャンピオンだから、と勝負を申し込まれるのも嬉しくない。チャンピオンを倒せば有名になれるなんて、そんな下心で挑まれるのが悲しい。勝負を挑みに来て負けて、なのに「チャンピオンと戦ったなんてそれだけで記念だ」と喜ぶのが腹立たしい。
 レッドは、ポケモンが好きで、バトルが好きで、仲間たちと力を合わせてもぎ取る勝利が好きだった。そんな自分の“好き”を突き詰めた結果がチャンピオンだった。しかし上り詰めた地位が煩わしさを与えて来るようになった。
 仕方のない事だと頭では分かっていても、心が納得しなかった。こんなつまらない日々のためにチャンピオンになったのではない。
 とにかく図鑑を集めるまではとカントーに残ってはいるが、ナナシマで見た他地方のポケモンたちに心惹かれているのが正直なところだ。新たな出会い、新しい戦術、まだ見ぬトレーナーたち。それから、あまり期待はできないが、行方不明になっている従兄弟の足取り。
 不意につきんと頭痛が走って、耐え難い痛みに目を細めた。頭痛とは幼い頃からの付き合いだが、旅に出る少し前から特に酷くなり、時に思考を邪魔してくる。

(いたた……あれ、何を考えてたんだっけ……そうだ、新しい場所)
 新たな地方は新しい可能性に満ちて、心を躍らせる。まだそこへは行かないと自分で決めたものの、退屈さと不自由さに不満は募る一方だ。そんな日々の中で不意に開かれた新しい場所への道は、他の地方でなくとも、レッドの心を躍らせるに十分だった。
「あはは、目が輝いてる。行きたいんだね?」
「はい」
 こっちだよ、と緑をかき分けて森へ入ってゆく背中に、レッドはようやく疑問を感じた。
「森を通るんですか」
「うん、正規の道を通ると他の人にバレちゃうから……さっきも言ったけど、内緒なんだよ」
 振り向いて悪戯を企む子供のように笑ってみせる彼に頷き、後に続いて隠されていた細い道へ踏み込む。元々細い獣道がさらに廃(すた)れたような、辛うじて残っているそれは、元獣道と言った方がしっくりくるシロモノだった。
 廃れた道を通って、こっそり、秘められた場所へ忍び込む。これをレッドは悪い事と思っていなかった。実力さえあれば秘められた場所へ行っても大丈夫だ、と無意識の内に思っていた。以前、ロケット団と言うマフィアに占拠されたヤマブキシティへ侵入し、街の開放へ大きく貢献(こうけん)した経験が、彼を大胆にさせていた。

 そんな少々世間とはずれた彼でも、青年については違和感を持っていた。青年の後ろをぴたりと進みながら、最初に感じた疑問を口に乗せる。
「なんで、森の中にいたんですか」
「実はレッドくんが本部で話していたのを見ていたんだ。それでチャンスだと思って追ったら、洞窟に入って行ったから。きっとこっちで待ってれば出てくると思ってね。でも日向(ひなた)だと暑いから木陰(こかげ)で涼んでたんだ」
「なぜ、そこまでして待ってたの?」
 湧き上がった不信から投げかけた疑問に、警備員は「実は」と前置きをして話し始めた。
「頼みたいことがあって……本部に勤めていると、俺みたいな警備員でもシロガネ山へ入る機会があるんだ。その、以前入った時に大事なものを落としてしまったんだ」
「それを取ってきてほしい?」
「そう! 是非とってきて欲しい!」
 振り返って「頼むよ」と手を合わせる警備員に、レッドは頷いた。それくらいならお安い御用だ。
「なにを落としたの?」
「とても、大事なもの」
 内緒で案内して取ってきて欲しいと頼むくらいだから、大切なのは納得できた。が、レッドが聞きたかったのはそういった内容ではない。
「……形とかは?」
「丸い鏡。落すとしたら、祠のあたりだから。もしかしたら、掃除した時に祠の中に落としたかもしれない」
 このくらい、と両手を合わせたより一回り大きいくらいの輪を作って見せた青年にレッドは頷いた。
「……あの、あなたの名前は?」
「ああ、名乗りもせずにごめんね。ツグ、って言うんだ。後を継ぐ、のツグ。よろしくね」
 彼は人懐こい好意的な笑顔を見せた。フレンドリーな態度にレッドは僅かに口元を緩め、言葉少なに頷きを返した。
「……こちらこそ」

 やがて二人は森を抜け、明らかに人の手が入っている太い道へでた。そこもまた生命力溢れる緑に侵食されつつあるが、むき出しの土は歩きやすいよう固められ、道の両脇には雨の逃げ道が作られている。今も人の手で整備され続けている道路だった。
 緩やかな坂を少し登り、石で作られた階段を上がると直ぐにゲートが見えた。ゲートは古臭さも使用感も感じられない。秘された場所へ続くゲートである事と、トレーナー向けのタウンマップに載っていない事を合わせて考えれば、訪れる人の少なさが想像できた。
 しかし手入れは行き届いており、周囲の緑に侵食されず小綺麗な外観を保っていた。道と同様に整備され続けているのが見て取れる。
 ガラス製の自動ドアの前に立てば、使われる機会も少なそうなそれが、健気にも人を感知して開いた。

 内部は街の出入り口などに良くあるタイプの有人ゲートだった。十字路の形で各方面へ伸びる通路は広々として、手入れが行き届いているのはもちろん、やはりここも使用感がなかった。汚れを落すために設置されている玄関マットには汚れなど見当たらず、休憩用に設置されたベンチは傷ひとつない。
 手垢の一つもない案内板には、東西南北にそれぞれカントー(22番道路)・シロガネ山(山道)・ジョウト(26番道路)・チャンピオンロード(試練の道)、と書かれている。

 そこまで見て、レッドは素直な所感(しょかん)を口にした。
「こっちの方がゲートらしい」
 23番道路とチャンピオンロードの境目には、洞穴の手前に取って付けたような白い門があるだけだ。こちらの方がよほど、リーグへ向うゲートとして見栄えが良い。
「あはは、あっちは急いで作られたからね。もちろん手抜きなんかしてないけど、新たにこんな豪華なゲートを整える時間はなかったんだよ」
「……」
「こちらはシロガネ山へも通じている。人が簡単に通れるのはまずいって、今の23番道路が整備されたんだ」
「……すごく無駄だ」
「全く君の言う通り」

 肯定するツグに、レッドは少し呆れていた。
 ゲートの警備員はツグのように、時にこうして独断で人を通してしまう。不法占拠されていたヤマブキでも、レッドの他にグリーンも侵入していた。レッドが知らないだけで他にも誰か入っていたかもしれない。
 それを考えれば、こちらのゲートが使用されていないのも頷ける。本当に人を入れたくないのなら、ゲートを設(もう)けるより道を作らない方がいい。既に道があるなら、封鎖してしまえばいい。
(そんなのは作る前から分かってただろうに。なぜ無駄な物を作ったりするんだ? なんだっけ、建設業者と偉い人のユチャク? ってやつ? なのかな。全然意味わかんない)
 新古となっているゲートの綺麗な内装に、レッドは冷めた目を向けた。

 正式に稼働していればドアの数だけ配備されていただろう警備員は、今は目の前の青年たった一人。その濃紺の背中の向こうで自動ドアが開くと、高原のものよりも涼しい風が吹き込んできた。
「さあ、いってらっしゃい。よろしく頼むよ」
 首肯(しゅこう)したレッドに、青年は期待に満ちた笑顔で手を振った。