大人はいつだってずるい、そして、無遠慮に子供の心へ傷をつける。




「湯野ちゃん、大丈夫?ゆっくり覚えていこうね」



鳴海はそう言って、メモを片手に分かりやすくテンパっている湯野を慰めた。
彼女が入ってから2週間が経った。いまだに湯野は鳴海に気づかず、鳴海も何となく言わずにいる。
湯野に言われたら渡そうと、撮った写真を焼き増しして持ち歩いているくせに何故かどうも名乗る気になれない。



「木村さん?」



ふと名前を呼ばれる。メモを書き終えたらしい湯野が不思議そうに鳴海を見上げており、鳴海は取り繕うように笑ってみせた。



「書けた? じゃあ今度はこっちの器具の説明するね」



「はい!」



あの時と同じで、弾けるように笑うさまは年相応で可愛らしい。
気がつくと、あの雨の日からは1ヶ月が経とうとしていて、急にあの出来ごとが本当は夢だったかのように思えてくる。
記憶とは酷く曖昧なものだ。場面場面の情景は思い出せても、その時何を話したのか、どんな声で笑っていたのか、あっという間に忘れてしまう。
だからかも知れない。
彼女は既に急に話しかけてきた変な大人のことなんて、覚えてないのかもしれない。
そう考えると、何となくもの寂しく、鳴海は複雑な気持ちになるのだった。



「木村くん。湯野さんどこ行ったかな?」



ふとシフトリーダーに話しかけられて、鳴海は厨房を振り返る。
10分ほど前にひと段落したので休憩に行くように指示したが、まだ作業中かと思えば、姿は見えない。




「さっき俺、休憩に行かせましたよ?」



「それがね、スタッフルームにもいないんだよねえ」



「ああ、それは困る…」



賄い出してあげようと思ったんだけど、と困った顔をするシフトリーダーに鳴海は曖昧に相槌を打ちながらふと窓の外を見た。
そこに見慣れつつある青みがかった黒髪が見えて、さらに首をひねった。
あそこは喫煙所の辺りだろうに、早速高校で煙草を覚えたのだろうか。



「リーダー、俺も1本行ってきてもいいです?」



「うん、いいよ〜」



ひらりと手を振って、彼は鳴海を快く送り出した。
鳴海もその手に応えて振り返すと、そそくさ煙草を握りしめ、喫煙所に向かう。
他の店員に見つかる前に辞めさせないと、バレたら首にされてしまう。
定時制に通っていると言っていたし、苦学生なのは見てとれた。
なんだか世話のやける妹でも出来たような気分だった。



店の外に出て、ため息をついた瞬間だった。



「いい加減にしてよ!」



鋭く震えた声が喫煙所から聞こえてきた。
電話でもしているのかと、首だけでこっそり覗き込んでみると、どうやら電話ではなく、人と話しているようだった。
しかし鳴海はその相手を認めて、一瞬だけ眉をひそめる。
湯野によく似た顔の女性だった。煙草を片手に半笑いで湯野に何やら言っている。
彼女は湯野にそっくりの声で、ごめんってばと笑った。



「パパがまた仕事休んじゃってお金足りないんだもん、ちょっとでいいのよ。おばあちゃんもうるさいし、加那しか頼れないのよ」



ね、と言って母親らしき女性は口から紫煙を吐き、湯野に笑いかける。
後ろ姿しか見えない湯野はどんな顔をしているのかは解らない。
けれども、その小さな背中からはどうしようもない虚しさや悲しさを察することはできた。
彼女の小さな手が、あの時見た可愛らしい小さな財布に伸びる。
その手が財布の口を開ける前に、気づけば鳴海は飛び出していた。



「湯野ちゃん!」



「…木村さん?」



鳴海の大声に湯野の背中がびくりと震え、驚いた顔で振り返る。
その背後で母親が気まずそうに目を伏せたのを鳴海は見逃さなかった。



「何してるの? リーダーが賄いどうぞって探してるよ」


「あ…はい、すぐ行きますね」



湯野は強ばった表情で笑みを作ると、一度止めた指先を使って財布を開き、万札を1枚抜くと母親の既に差し出された手のひらに押しつけた。
そうして何も言わずに鳴海に会釈すると、小走りで店の中へ戻っていく。
残された鳴海はそそくさ立ち去ろうとしていた母親に会釈し、煙草に火をつける。
母親の顔は嫌なところを見られたとありあり物語っていたが、湯野が押しつけた万札は既にしっかりとしまい込まれていた。



煙草以外の喉の苦さを覚えつつ、鳴海が一服して戻ると、湯野はスタッフルームで不味そうにサンドイッチを齧っていた。
顔色があまり良くない。何も聞くべきではないと思っていたけれど、気づけば勝手に口は動いていた。



「ーーーねえ、湯野ちゃん。今の人、親御さん?」



湯野の頬にカッと赤みがさす。顔色は土気色なのに、羞恥で頬は赤くなり、ますます体調が悪そうに見えた。
彼女は齧っていたサンドイッチを皿に置くと、伏し目になって鳴海から目線をそらす。
ぎこちなく笑ってはいるが、それは歳に不釣り合いなひどく大人びた仕草だった。



のちにあの時を振り返る度に鳴海は思った。
本当なら、あの時然るべき公的機関に通報するべきだったのだろう。
未成年から親が金銭を搾取する。まるでありきたりなドラマのようなシーンだった。
けれど、湯野が傷ついているのは現実で、本物だった。
鳴海のような、まだ大人の手を離れていない大人未満の子供が手を出したとて大した結果にもならなかったのに。



けれども、それでも。
彼は見つけてしまったのだ。あの寒い春の雨の日に。
いまだに救えずにいる子供と同じ瞳の彼女を。