結局、桐島は昼休みになっても登校してこなかった。
メールをしてみようかとも思ったけれど、それはそれで変な気がしたので、桐島専用のメールボックスを開いては閉じるを繰り返していたら、瀬那にとてもうざがられてしまった。
瀬那曰く、「喧嘩したカップルじゃねーだろうがよ」とのことで。
「………湯野さあ、桐島のことどー思ってんの?」
「う………どうって、」
昼休みの穏やかな喧噪が続くなか、パックジュースを片手に瀬那はほとほと呆れた顔で言った。
夏にファミレスで同じ質問をされたことが脳裏を過ぎるが、そんなことを言えばものすごく罵倒されるのが目に見えていたあたしは、言葉に詰まる。
瀬那はパックジュースを置くと今度はメロンパンを齧り、あからさまに目を泳がせているであろうあたしを睨む。
もぐもぐしていたメロンパンをごくんと飲み込んで、小さな溜息をひとつ。
「…ぶっちゃけさあ、みんな思ってるわけよ。桐島を好きな子たちはあんたには敵わないって」
「はあ…」
「それなのに当の本人達はあくまでもライクで突き通してんだから、周りは収まりつかないわけ。解る?」
「正直あんまり…」
「あはは、てめーは処女か」
目を泳がせながら否定すると、軽やかな笑い声の後にドスの効いた罵りを受けた。瀬那は怖い。いや、優しいけど。
あたしはサンドイッチをちまちま齧りながら、瀬那の追求から逃れようと頭の中で理屈をこねくり回していた。
「まー、その、ね。そういう子達に影で結構言われてんのは知ってるけどさ、なんか違うんだよ」
きっと、桐島にあたしのことを好きかと聞けば、彼は今でもイエスと答えるだろう。
彼の告白からもう半年以上経つ。答えはいらないと彼は言ったけれど、ことあるごとに気持ちは伝えられてきた。
桐島はいつだってゴーサインを出しているのだ。
煮え切らないままなのは、ずっと、自分のほう。
桐島の気持ちを聞くたびに、脳裏には鳴海の顔が浮かぶ。そして桐島も、気持ちを伝えてくる度に鳴海の話題を必ず出した。
それはまるで、桐島のほうからあたしに答えを出させないようにしているようにも思えた。
お互いにつかず、離れず。そんな関係の居心地の良さが踏み切らないままでいる理由だ。
「…………前もそんなこと言ってたな、あんた」
「…いやー…まあそんな怒んないでよ…ご飯美味しく食べたいよ」
困ったように眉を下げて笑うと、瀬那は渋々といった風情でようやく口を閉じた。
あたしはほっとしつつも、周囲が自分たちに注目していたことに気づく。
学校という場所はわりとゴシップに飢えている。
何組のだれそれとだれかれがどーなったあーなったとか、別にあたしは興味はないけれど、いざ自分がその渦中になると、とても鬱陶しく感じた。
溜息をつきそうになって堪える。
ふいに、あの甘い匂いがして、それと同時にふわりと視界の隅で栗色の巻き毛が揺れた。
それとほぼ同時に目の前に座る瀬那の顔がこれでも足りないと言わんばかりに歪む。
そして心底嫌そうにうめき声を上げた。
「うげっ…」
「ふふ、心底嫌そうな顔も愛してるわ、瀬那ちゃん」
「あー…瀬那、綺麗なお顔がものすごく崩れてるよ」
陶磁器のように滑らかそうで白い掌とブレザーに隠れてもなお細い腕がするりと首筋に絡んでくる。
振り返る前に華奢な指先で顎を上向かされて、とても綺麗で可愛い顔とかちあった。
「うふふ、来ちゃったカナ」
「あー、……来られちゃった?」
あは、と軽く苦笑いしながらあたしは、いたずらっぽい笑みを浮かべたアンジュに答えた。
彼女の桜色の花びらみたいな唇がゆるりと笑みの形を作る。
アンジュはうふふ、ともう一度密やかに笑って、あたしの髪をするりと撫でた。
女のあたしでもうっとりしてしまう仕草を平然とやってのけながら、アンジュはにこにこしながら桐島の席に腰掛ける。
「うん、来ちゃった。ねえ、なんのお話してたの?」
くすくすと何が可笑しいのか、アンジュは笑い続けたまま、あたしと瀬那に交互に視線を送った。
それは何気ない質問のはずなのに、あたしはひどく嫌悪感を覚えた。
瀬那も何か違和感を覚えたのか、変な顔をしている。
けれども質問した側のアンジュはにこにこしながら返事をずっと待っている。
その笑顔が、少し、怖い。
何か言わなくちゃ―――そう思って、口を開きかけた時、アンジュの背後に見慣れたカーディガンが見えた。
「……あんた、誰?どいてくれない?」
「桐島、」
どうしたの、と聞きかけて、ふと桐島の顔を見て安心した自分に気づく。
桐島は口ごもったあたしに不思議そうな視線を送ったあと、きょとんとした顔で彼を見つめるアンジュを睨みつけた。
「ここ、俺の席なんだけど。さっさとどいてよ。座れない」
低い囁くような声が不機嫌に歪む。アンジュは一瞬つまらなそうな顔をして、それからゆるりと嫣然に微笑んだ。
ゆっくりと立ち上がり、少し考えるような仕草のあと―――なんと、あたしの膝に腰掛けた。
「ごめんね、カナ。重くない?」
「………いや、何かのごほうびかと」
「ちょっと待て会話おかしいから、湯野」
あんまりにも自然な動きに少し唖然としていた瀬那が慌てて突っ込む。
当のアンジュはくすくすと笑うだけで、あたしの方はいい匂いと近くにある美形な顔にぽーっとしていた。
ふいに横からの強い視線に気付いて、振り返る。
……桐島がとてもとても怖い顔をしていた。
思わずヒッと小さく息を呑む。同時にガシッと頭を彼の大きな掌に掴まれた。
「………あんたさあ、誰だか知らないけどごめんとかそういうこと言えないわけ? てか、この子に触んないで」
今の桐島なら視線で人を殺せそうだった。ていうかあたしのせいではないのに何故、こめかみをグリグリされているのだろう。痛い。
しかしアンジュには効かないようで、アーモンド形の瞳をいたずらっぽく歪めて、くすりと笑った。
「勝手に座ってごめんなさいね。でも触るのはいいじゃない、カナは友達だもの」
それより、とさらに彼女は楽しそうに言った。
「そおんないじめっ子みたいにしたら、カナに嫌われちゃうわよ?」
痛いことする男の子って最低。
鈴のなるような声で手痛い一言を囁いて、アンジュはにっこりと桐島に笑いかける。
途端に彼の手が離れて、ものすごく苛立たしそうにアンジュを睨みながら、桐島は席についた。
「…………あの、」
一気に悪くなった雰囲気に目眩がする。
目を泳がせて瀬那に助けを求めるが、既に彼女はあらぬ方向を見ながら食事に没頭していて、早々に戦線を離脱していた。くそう、卑怯者め。
「…あ、ね、ねえアンジュは瀬那に会いに来たんじゃ、」
「ううん、瀬那ちゃんにも会いたかったけれど、カナともお話したかったの」
せめて話に巻き込んでやろうと、瀬那の名前を出すが、アンジュはにっこりと反論する。
何だかアンジュに遊ばれているような気がして、あたしはすっかり困ってしまっていた。
そんなあたしを見て、アンジュはとても楽しそうな顔をする。
するりと華奢な指先が伸びてきて、あたしの頬をツンとつついた。
「うふふ、遊びすぎちゃったわね。ごめんなさい、カナ。許してくれる?」
するりと羽みたいに軽かった体重が消える。
立ち上がったアンジュはあたしの髪を指先で弄びながら、あたしの顔を覗きこんだ。
「あたし、カナのこと好きよ。また遊びに来てもいい?」
ふわりと栗色の巻き毛が揺れる。
さっきまでずっとにこにこしていたのに、今は少し不安そうに瞳が揺れていた。
あたしはこの馴れ馴れしくて、わがままな女の子が無性に可愛く見えて、気づけば勝手に口は動いていた。
いや、実際モデル並みに可愛いんだけれども。
「うん、あたしも遊びに行くね」
そう答えた瞬間、ぱあぁっとアンジュの顔が文字通り輝いた。
いちばん欲しいものをもらえた子供のように、先ほどまでの蠱惑的な笑みではなく、無邪気な明るい笑顔を浮かべる。
そうして彼女はおずおずとブレザーのポケットからスマホを取り出した。
「じゃあ、アドレス。教えてくれる?」
「あ、うん。ちょっと待って」
急にしおらしくなったアンジュに萌えつつ、あたふたとアドレス交換していると、不機嫌顔のままな桐島が口を開いた。
「湯野、今日はバイトあるの?」
「え、うん。あるけど」
「悪いんだけど、しばらく送り迎えできない」
思わず、握っていたスマホを取り落としそうになった。
突然の宣言に固まるあたしに、桐島はバツが悪そうに視線を逸らす。
気まずそうに口元を手で覆い隠しながら、ごめんともう一度囁く。
何か用事なのだろうとは容易の予想がついた。
同時に今朝の中谷の言葉が頭の中に浮かび上がってくる。
『あいつんちもまあまあ複雑だし』
聞くなら今しかないと思った。
意を決して、口を開きかけた時。
―――キーンコーン…。
「あ、チャイム。吉良、帰んなよ」
「名残惜しいけど仕方ないわね、愛してるわ瀬那ちゃん」
「どさくさまぎれに告白すんな」
心底嫌そうな瀬那の声とアンジュの心底寂しそうな声が耳をすり抜けていく。
中途半端に開いたあたしの口を不思議そうな顔でアンジュは見つめ、首を傾げた。
「どうしたの、カナ」
「あ、いや、その」
「連絡先、ありがとう。メールするわね」
「え、うん、またね」
爽やかに笑って、アンジュが去っていく。
それを見送ってから、桐島を振り返ると彼は既に寝る体勢に入っていた。
「………なに、怒ってる?」
拗ねた顔で訊き返されて、あたしは完全に聞くタイミングを逃したことを悟った。
「ううん、怒ってない。むしろいつもありがとう…」
「なんでそんなへこんでんの」
「何でもない…」
食べかけのサンドイッチを口に押し込みながら首を振り、あたしは嵐のように去っていったアンジュを少しだけ恨んだ。