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vivi

 




 薄紅色の、花びらがひらりと舞う。
 隣のぬくもりはずっと一生、あると思っていた。
 ただの口約束に、そんな確証なんてありはしなかったのに。
 




 結婚式前日、あたしは長く住んでいたアパートを引き払い、尚サンの住むマンションに移り住んだ。
 大きい荷物はほぼ新居に送っていて、2、3日暮らせる程度の衣服だけを入れたボストンキャリーと、いつも使っているバッグだけがあたしの現在の手荷物だった。




「尚サン、ご飯、出来たよ」




 キッチンからリビングを覗く。尚サンもそれほど荷物を持たない性分の為か、衣類や雑貨などの荷造はほぼ終わっているようだ。
 尚サンは梱包していたダンボールの蓋にワレモノ注意と書いて、立ち上がる。




「ありがとう、由依子さん」



「いーえ、大したもの作ってません」





 お盆に今日のおかずのおうどんと唐揚げを乗せて、あたしはキッチンからリビングに移動する。
 テーブルは早々に売りに出してしまったので、ダンボールを並べて、テーブル代わりにした。
 いただきますを言い合って、箸をとる。お腹がペコペコだったあたしはもくもくと食べ始めたが、尚サンは箸を持ったまま、あたしの顔をじっと見つめていた。
 それに気づいて、あたしは口の中に入れていた唐揚げを飲み込んでから尚サンを見つめ返す。




「なあに?おうどん伸びるよ」




「俺、由依子さんと結婚するんですねえ」




 ものすごく信じられないと言わんばかりの口調で尚サンは唐突に言った。
 その突拍子のない発言にあたしは目をぱちくりさせる。
 まさかいまさらやっぱやーめっぴ☆とか言うのか、この人。
 出来ればそれだけはやめてほしい。家無し職無しとか、人生のピリオドが一気に近づいてしまう。




 あたしの不穏なまなざしに考えていることを察したのか、彼は慌てて足りない言葉を補いだした。




「いやいやいや!プロポーズしたの俺ですし、結婚してくれるのなんて夢みたいですけども!」




「よかった。それはあたしもあなたに対して思ってる」




 ほっとしてまたずるずるとおうどんをすする。おあげうまー。
 もくもくと食事を続けるあたしに可笑しそうに笑いながら、尚サンはふと、そっとあたしの頬に指先で触れる。




「ねえ、由依子さん。俺は、あなたのいちばんでなくてもいいんです」




 優しい囁き。突然の言葉にあたしは、持っていた箸を取り落とす。
 きっと呆然とした顔をしているあたしを優しく見返して、尚サンはゆっくりとした口調で語る。
 耳が痛いほど、静かだ。




「あなたが、過去のひとを忘れられなくても構わない。
 俺は、あなたが、俺の側で、俺と生きる人生を選んでくれた。
 ただ、それだけの事実だけで、じゅうぶんなんです。
 最初の頃は…正直、彼に嫉妬もしました。あなたの愛情を独占していながら、何にも気づいていない彼に腹立たしさも覚えていました。でもね、」





 言葉が途切れる。優しい、ふわふわした愛情をあたしは全力で返せない。
 いなくなったら、怖いから。あんな、身体が引き裂かれるような喪失を、二度と思い出したくもないから。
 身勝手な理由。なのに。




 いつだって、目の前にいる尚サンは、それを許して、生半可な愛に優しい、溺れそうな愛を返してくれる。




「俺が由依子さんを愛している。それだけでどうしようもなく幸福だったから、俺はあなたと生きる人生を選んだんです」




 だから、幸せになりましょう。




 そのひとことを聞いた瞬間、まぶたが燃えるように熱くなった。
 びっくりして両目を掌で覆って、そこで初めてあたしは自分が泣いていることに気がついた。
 空気の振動で、尚サンが笑っていることを知る。
 あたしはべっしょべしょになった顔を隠しながら、尚サンの膝に擦り寄った。




「プロポーズしても泣かなかったのに」




「しゃらっぷ…」




 くすくす笑う彼に弱々しく反論するとよしよしと頭を撫でてくれる。
 その優しい掌があたしは好きだ。
 穏やかな声が好きだ。優しい笑顔が好きだ。
 尚サンが好きだ。このひとと、生きていきたい。




 なのに、心のどこかでいいの?と訊ねてきたあたしがいた。




「あたし」




 言いかけて口ごもる。尚サンはそれ以上、何も言わないあたしに、何も聞かない。
 きっと、何もかもあたしのことを理解していた。
 ほんとうは、迷っていたこと。もっと他に尚サンを幸せに出来る女の人がいるのではと思っていたこと。
 そして―――何よりも、藤に会えなくなることがつらかったこと。




 あたしは最低だった。けれども、この深い無償の愛情を誰かに譲ることなんて出来ない。
 あんなに愛した藤からでさえ、もらえなかった愛情を。
 あたしは、最低だった。





「…ほら、もう泣かないで。ご飯、食べましょう…味は美味しいですよ、見た目はアレになりましたけど」




 ちょっとだけげんなりした尚サンにつられて食卓を見れば、伸びきってでろんでろんのおうどんと冷めた唐揚げが悲しそうな風情で鎮座していた。





 それからあたしたちはでろんでろんのおうどんと冷めて固い唐揚げをけらけら笑いながら完食して、残しておいたお昼寝マットと毛布を敷いて、優しいセックスをした。
 まるでこわれものに触れるような愛撫にあたしはいつも困惑する。




 優しい手つきで肌に触れる指先をいつも怖がっているような気がする。
 けれどもそれと同時に、記憶の中の藤が薄れていく安心も覚えていた。





 翌日、目覚めたのは夜の明けきらない、朝方だった。
 遠くの空は仄白く、近くの空はいっそう暗い。
 あたしはぼんやりした頭で、あたしはまだ夜明けを彷徨っているままなのだと感じた。
 とろりとした柔らかい夜から抜けださなくてはならない。
 目指す先はもう見えていた。あの、仄白い朝へ。




 それが、藤とのさよならを意味していても。




 結婚式は一応、親族も呼んだ。けれども、来てくれたのは、高校を出るまで面倒を見てくれた母方の叔父夫婦たちだけで、あたしは苦笑せざるを得なかった。





「ごめんね、省吾おじさんたち。またなんか言われちゃうでしょ?」




 がらがらの親族席を眺めながらあたしが言うと、彼はばしっとあたしの背中を気合いを入れるように叩いた。




「なあに言ってんだよ、お前は俺と百合子の娘なんだから気にしなくていんだよ!」




「そうだよお、由依子姉ちゃんは俺達家族の長女なんだから来るに決まってんでしょ」




 一緒に育った5個下の従兄弟、千紘が笑う。
 その後ろで留袖を着た百合子さんがすでに涙ぐみながら、こくこくと頷いていた。…喋ったら、泣いてしまいそうらしい。
 なんて、優しいひとたちなんだろう。
 少しだけ泣きそうになった。それを堪えてあたしは笑う。




「省吾おじさん、百合子さん、千紘。今まで、育ててくれて、ありがとお!」



 ニッカリ笑うと、急に省吾おじさんが男泣きを始めて、あたしたちはあたふたしながら大いに笑った。
 嫁に行くな由依子おおお、と泣く省吾おじさんを百合子さんと千紘に任せて、あたしは数少ない友人達と挨拶を交わしにふらふら歩き出した。




 花嫁姿はあとのお楽しみだろーが!とか、お前は最後まで自由だな、とか色々突っ込まれたけれどまあ気にしない。
 会えるのは、きっとこれが最後だから。





 ふと、視線を巡らせた先に藤がいた。





 大人になっても藤は雰囲気がチャラい。
 そして人を寄せつけないオーラがある。それはきっと、藤がほんとうは誰のことも信用していないからだとあたしは気づいている。
 けれども、もうそれは指摘しない。それに気づいたのは、別れてからのことだったし、したとしても、あたしの言葉で彼が変わることなど、ありはしない。





 だって、あたしのことも、藤は、信用していない。




 あたしは気づくとにっこり笑っていた。
 なんて茶番。なんて馬鹿な結末。約束なんて、とうの昔に腐って消えた。
 あの幼い愛は二度と戻らない。藤はずっとあたしの首を真綿で絞めるだけのひと。





 解っていた。知っていた。けれど。
 そんなあなたをずっと、あたしは愛していた。




 いいよ、藤。あなたが出来ないなら、あたしが代わりにしてあげるよ。
 あなたがすべきこと、あなたが忘れてしまったこと、あたしがすべて持っていく。




 ふと藤の傍らにいた花くんと目が合う。
 彼はすいと目を細めて、あたしに頷いたあと、藤の肩を叩いて席を外してくれた。
 やっぱり、花くんはぜんぶ、お見通し。




 不思議そうな顔をして、藤がこちらを見る。瞬間、少し驚いたように彼は目を丸くした。
 あたしはさらににっこり笑った。ほんとうは、嘲笑っていたのかもしれない。自分と、藤のことを。
 




「由依子」




 名前が呼ばれる。ああ、もう時間だ。




「藤ちゃん、スーツだとまじチャラいねえ」





 ねえ、藤。あたしを、忘れていいよ。





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vivi

 



 16歳の、あの頃。
 わたしは、藤を。
 身も世もなく、全身全霊で、愛していた。
 いまは、?




『由依子?』




 花くんの声はとても静かだった。
 今思えば、いつだって彼の声はそうだった。冷たいのに、どこか暖かい色をした声。
 静まり返った湖のようだと思っている。




『元気か。畑山から聞いた、結婚おめでとう』




 電話越しの端的な言葉の羅列に何故だか笑いが込み上げる。
 きっといつもの無表情で言っているのだろうし、照れ臭くて早口になったことも容易に想像出来て、無性に可笑しい。
 先ほどまでのぐるぐるとした感情も収まってきて、あたしはライターを握り直して煙草に火をつけた。





「元気だよう、ありがとう。さっきまでアイコと一緒だったよ」




 紫煙を吐いて、穏やかに答える。すると少しの間のあとに、小さな声で知ってる、と囁かれた。
 その少しの間に、あたしはアイコが花くんにすべてを話したことを察する。
 だからあたしも、少しの間を置いてから、そう、と呟いた。




『……後悔、してるか?』




 短い、問。その意味が、どちらなのか解らなくて、あたしは低い声で笑う。




「そうだねえ…」




 後悔。している、のだろうか。
 先日、顔合わせをした尚サンの家族を思い出す。
 優しいご両親と、妹さん。
 ずっと昔にいなくなったあたしの両親とは天と地ほども違う、素敵なひとたち。
 死んでしまった屑たちの末路を話しても、笑って許してくれた。
 お互いの、浮気相手と一緒に違う場所で同じ日に事故死だなんて、ドラマみたいねなんて。
 だけれども、あなたはあなただから。
 息子が選んだ女性だから、尚と、幸せになってくれればそれでいいよ。




 尚サンのお母さんはそう言って、いつのまにか泣いていたあたしの頭を撫でてくれた。




 あたしには、もう引き返す道も、引き返したい場所も、なかった。
 だから、後悔ではない。もっと違う、複雑な、単純な、どちらでもないもの。
 けれどもそれをぴったりちょうどに表せる言葉が見当たらなくて、あたしは低く笑うのみにとどめた。
 電話越しの花くんが、煙草に火をつけた音が聞こえる。




『由依子、今幸せか?』




 煙を吐く息の音とともに、また短い問をもらう。
 ひどくゆっくりと、ひとつ、ひとつ、あたしの感情を彼は確認しようとしていた。
 それはパニックになりやすいあたしを気遣って出来た癖で、そうやって問うてもらえることがとても嬉しい。
 あたしは小さく、うん、と頷いた。





『平野さんのこと、大事か』




「うん」




『俺と、畑山と同じくらい?』




「うん、結婚も、夢じゃないかと思ってる」




 そうか、と花くんは呟いて、しばらく無言が続いた。
 そうして彼は最後の質問をあたしにくれた。




『由依子。今も藤が好きか』




 それは、答えを知っている声だった。
 好きか、と問われて、初めてあたしは自分が藤に向ける感情が何なのか気づいたような気がした。




「すき、ではないんだ。どうしようもなく、藤がほしいわけでもない。だけどね…戻るの、会うと。何年も昔のことが今になる」




 会って、藤が笑う。話す。歩く。
 それだけでどうしようもなく幸福な気分になる。
 そしてそれは、彼と別れてひとりになった途端、激しい自己嫌悪と、尚サンに対する罪悪感に変わった。
 よく考えなくても、あたしは答えをずっと知っていた。
 藤に、あたしはずっと執着している。




『………だよな』




 短い肯定の言葉に、花くんがあたしの感情をずっと気づいていたことを知る。
 彼はゆっくりと、先ほどのアイコのような口調で話し始めた。




『俺は、お前も、藤も好きだよ。きっとずっと、お前らとつるんでくと思う。でもな、お前は無理だ、藤とはずっとつるめない。解るよな?』




「うん、解ってる…」




『由依子は今も藤を愛してるんだ。底なしに。
 でも、平野さんのことはきっとそこまで愛せない。 たぶん…人生で身も世もなく、誰かを愛するのは一回だけだって、俺は思ってるから。お前もそうだろ?由依子』




「…うん、そうだよ」




 花くんには、いつだってぜんぶ、お見通しだね。
 そう呟くと、電話の向こうから当たり前だろ、と返されて、あたしはほのかに笑う。
 そう、ぜんぶ、花くんにはお見通し。
 藤の心が離れてから、あたしはずっとぽんこつのまま。
 尚サンを恐る恐る好きになってから、必要以上に愛そうとはしなかった。
 微温湯の愛情を彼に与え続けて、ここまで来てしまったとも言える。
 だって。あんな、身体が引き裂かれるような痛みをもう一度与えられたなら、あたしは今度こそ、ぐちゃぐちゃに、ぶっ壊れてしまうだろうから。




『……あと、この街から出てくのも、ほんとか?』




 かすれた囁きが花くんから溢れる。そう。
 たぶん、アイコが泣いたのはこのせい。



「……ほんとだよ。親類なんてほとんど付き合いないから、北海道に永住しちゃう」




『寒いの死ぬほど嫌いなくせに』




「うっさいな、しゃーないでしょう、尚サンの仕事の都合だよ」




 本当は沖縄とかが良かった。ハブは怖いけど。
 軽口を叩きだしたあたしに安心したのか、電話の向こうで花くんが笑う気配がした。
 ふと、思い出したように予定を聞かれる。




『いつか、由依子がいる間に4人で飲もう』




 その、遠慮がちな提案にあたしはみんなに無理をさせていることを申し訳なく思う。
 またメールでやりとりすることを約束して、またねと言い合い、通話を切った。




 電話を切った途端、自分が疲れていることに気づく。
 連続で尋問されれば、それもそうだと自嘲する。
 結婚式まで、あと一月ある。それまでにあたしは、藤に2度目のさよならを言えるのだろうか。




 脳内に擦り切れるほど聴いた、さっきの曲の歌詞が浮かぶ。




 愛してるよ、藤。
 だから、あたしは言わなくちゃ。



 この街に、ぜんぶ、置いていくために。





「……ねぇ、藤…」




 あなたは。あたしとした、最後の約束、忘れてるんだろうね。





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vivi

 





 さよならだけが、わたしからあなたに贈る最後のプレゼントだった。




 ある日、唐突に尚サンからラインで曲の検索結果が送られてきた。
 由依子が好きそう、という優しい言葉ともにその歌手の歌を聴いて、あたしは唐突に6年前も昔の恋を思い出す。
 きっとあれほど誰かを愛するのは、彼だけだったはずの、とうの昔に終わった、けれどもまだ終われないでいる恋を。




「あー、由依子が結婚かぁ」




 いいなあいいなあ、と羨ましがるアイコにあたしは苦笑しながら目の前のダンボールの蓋をガムテープでしっかり止めた。
 3年前に越してきた一人暮らしのワンルーム。今日は引っ越す為に荷物の整理をアイコに手伝ってもらっていた。
 元々そんなに多く荷物を持ってはいないから、部屋の中はずいぶんと閑散としている。




「アイコだって花くんと結婚しちゃえばいーやん。花くんもそのつもりでしょ」




「いや、まあ…あたしはヤツが何考えてんのか解んないからさ」




 最近、ようやくアイコに10年越しの想いが届いた花咲くんの名前を出すと、いつもは強気のアイコがひどく照れくさそうに頬をかいた。
 10年。そう、10年も経つのだ。自分で口にして、ふとあたしは自分の頬に手をやる。
 あたしとアイコ、花咲くんこと花くんに…あと、もうひとり。
 高校時代に出会ってから、10年、ずっとつるんできた。



 あの頃、特に気にもしなかった肌の調子も今や吹き出物一つで重大事件だし、住所変更だとか、免許の書き換え、毎日の書類仕事、あの頃することすら考えていなかったことが日常にある。




 それはひどく不思議なことで、それだけ自分達が年齢を重ねてきた結果なのだけれど、あの青い春があった日々が昨日のことだった気がして、やっぱりどうにも不思議でたまらなかった。
 ………あたしの隣に、彼ではない人がいることも。




 唐突に押し黙ったあたしに、アイコはすべてお見通しらしく、呆れ顔と溜息を一つもらってしまう。




「………最近、藤といつ会ったの」




 断定的な問いかけにあたしは苦笑した。藤。
 笹山 藤とあたしが付き合っていたのは6年前の春までのこと。
 それなのに、いまだに夜、ひとりで眠るときに思い出しては許したいような、ずっと憎んでいたいような、ぐるぐるとした気持ちに襲われることもある。




「……先週、会ったよ。招待状渡して、式場の場所伝えてきた」




「あんた、まだ終われないの?」





 何でもないことのように笑いながら伝えると、間髪入れずに次の質問が来た。どうせ、聞かれると思っていた、問。
 嘘を言ったって、すぐにばれるのだから素直に頷く。




「そうだねえ、お互い好きなひとと結婚、しそうなんだけども」




「平野さんは」




「あたしは尚サンを傷つけない」




 短い問いを遮るように答えると、アイコは少し困惑した表情を浮かべた。
 本当は何度も疑われた。まだ好きなら頑張れよとか付き合っているのに応援されたこともある。
 けれどもあたしは突き通した。今ようやくつかんだ安定した愛情を失うほうが恐ろしかった。




「由依子…」




「あたしは尚サンからたくさんのものをもらったから、あの人にはずっと誠実でいたいんだ」




 もちろん、アイコや花くんに対してもその気持ちは同じだった。
 あたしはどこか一本、他の人とは違うところにネジがあって、どうしても人から嫌われやすかった。
 そんなどうしようもない屑を、今でも側に置いて、心配して、怒ってくれる二人が大事だった。
 藤に対しては、よく、わからないけれど。




「由依子、立ち直らなきゃだめだよ」




 ずいぶんと部屋が片付いて、アイコを家まで送った去り際、彼女は真剣な顔をしてあたしに言った。
 車の運転席で咥えていた煙草に火をつけようとしていたあたしはきょとんとした顔でアイコを見つめる。
 彼女は、あたしのことをまるで困った子供をなだめるかのようにゆっくり、噛みしめるような口調で囁いた。




「由依子は、藤のいた幸福を忘れることが出来ない。解るよ、あんた、あの女たらしといる時、一生懸命恋してたし、あいつのこと愛してたの知ってるもん。
 でもさあ、藤はあんたに誠実じゃあないんだよ。
 今でも。あの頃のまんま、ずっとあんたを傷つけてる。あたしは、藤を許せそうにないけど…由依子、許したいんでしょ?
 だったら忘れなくてもいいから、」




 ふと、言葉が途切れる。彼女の両目からは既に塩っ辛い涙がだばだば溢れていて、あたしは逆にひどく冷静に彼女の声に耳を傾けていた。
 一つ、大きくしゃっくりをして、アイコはくわえ煙草のあたしの手を優しく握った。




「あいつのいた幸福から立ち直らなきゃだめだよっ!
 由依子、由依子は幸せになんなきゃぁっ」




「う?うおぉいっちょ、そんな泣かなくても、いや嬉しいけど、うん、幸せになるよーありがとー!頼むから泣き止んでアイコ!」




 民家の前で堰を切ったようにわんわん泣き出すアイコにあたしはギョッとして、慌てておめでとーおめでとーと泣き喚く友人を宥めにかかった。





 その帰りの車内で、あたしは尚サンから教えてもらった曲を聴いていた。



『悲しくて飲みこんだ言葉 ずっと後についてきた
苛立って投げ出した言葉 きっともう帰ることはない

言葉にすると嘘くさくなって
形にするとあやふやになって
丁度のものはひとつもなくて
不甲斐ないや

愛してるよ、ビビ 明日になれば
バイバイしなくちゃいけない僕だ
灰になりそうな まどろむ街を
あなたと共に置いていくのさ

あなたへと渡す手紙のため
いろいろと思い出した
どれだって美しいけれども
一つも書くことなどないんだ

でもどうして、言葉にしたくなって
鉛みたいな嘘に変えてまで
行方のない鳥になってまで
汚してしまうのか

愛してるよ、ビビ 明日になれば
今日の僕らは死んでしまうさ
こんな話など 忘れておくれ
言いたいことは一つもないさ

溶け出した琥珀の色
落ちていく気球と飛ぶカリブー
足のないブロンズと
踊りを踊った閑古鳥
忙しなく鳴るニュース
「街から子供が消えていく」
泣いてるようにも歌を歌う
魚が静かに僕を見る

どうにもならない心でも
あなたと歩いてきたんだ

愛してるよ、ビビ 明日になれば
バイバイしなくちゃいけない僕だ
灰になりそうな まどろむ街を
あなたと共に置いていくのさ
言葉を吐いて 体に触れて
それでも何も言えない僕だ
愛してるよ、ビビ
愛してるよ、ビビ
さよならだけが僕らの愛だ』




 検索すると動画が出てきて、あたしは車をコンビニの駐車場に停めて、食い入るようにそれを見つめた。
 時々襲われるぐるぐるとした感情が胸の中を食い荒らす。
 少しだけ震えた指先で煙草に火をつけようとしたその時だった。




 流れていた曲が途切れて、着信画面に変わる。




 ビートルズのイエスタデイ。
 名前を見なくても、誰からかは理解できた。
 指先でスワイプして、電話を耳元にあてる。
 聞き慣れた、静かなこえが届く前にあたしは彼のあだ名を囁いた。




「もしもし、花くん?」






※米津玄師 viviの歌詞をお借りしています。
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ガールズトーク

 





 結局、桐島は昼休みになっても登校してこなかった。
 メールをしてみようかとも思ったけれど、それはそれで変な気がしたので、桐島専用のメールボックスを開いては閉じるを繰り返していたら、瀬那にとてもうざがられてしまった。




 瀬那曰く、「喧嘩したカップルじゃねーだろうがよ」とのことで。




「………湯野さあ、桐島のことどー思ってんの?」




「う………どうって、」




 昼休みの穏やかな喧噪が続くなか、パックジュースを片手に瀬那はほとほと呆れた顔で言った。
 夏にファミレスで同じ質問をされたことが脳裏を過ぎるが、そんなことを言えばものすごく罵倒されるのが目に見えていたあたしは、言葉に詰まる。




 瀬那はパックジュースを置くと今度はメロンパンを齧り、あからさまに目を泳がせているであろうあたしを睨む。
 もぐもぐしていたメロンパンをごくんと飲み込んで、小さな溜息をひとつ。




「…ぶっちゃけさあ、みんな思ってるわけよ。桐島を好きな子たちはあんたには敵わないって」



「はあ…」



「それなのに当の本人達はあくまでもライクで突き通してんだから、周りは収まりつかないわけ。解る?」



「正直あんまり…」



「あはは、てめーは処女か」




 目を泳がせながら否定すると、軽やかな笑い声の後にドスの効いた罵りを受けた。瀬那は怖い。いや、優しいけど。
 あたしはサンドイッチをちまちま齧りながら、瀬那の追求から逃れようと頭の中で理屈をこねくり回していた。




「まー、その、ね。そういう子達に影で結構言われてんのは知ってるけどさ、なんか違うんだよ」




 きっと、桐島にあたしのことを好きかと聞けば、彼は今でもイエスと答えるだろう。
 彼の告白からもう半年以上経つ。答えはいらないと彼は言ったけれど、ことあるごとに気持ちは伝えられてきた。
 桐島はいつだってゴーサインを出しているのだ。
 煮え切らないままなのは、ずっと、自分のほう。




 桐島の気持ちを聞くたびに、脳裏には鳴海の顔が浮かぶ。そして桐島も、気持ちを伝えてくる度に鳴海の話題を必ず出した。
 それはまるで、桐島のほうからあたしに答えを出させないようにしているようにも思えた。




 お互いにつかず、離れず。そんな関係の居心地の良さが踏み切らないままでいる理由だ。





「…………前もそんなこと言ってたな、あんた」




「…いやー…まあそんな怒んないでよ…ご飯美味しく食べたいよ」




 困ったように眉を下げて笑うと、瀬那は渋々といった風情でようやく口を閉じた。
 あたしはほっとしつつも、周囲が自分たちに注目していたことに気づく。
 学校という場所はわりとゴシップに飢えている。
 何組のだれそれとだれかれがどーなったあーなったとか、別にあたしは興味はないけれど、いざ自分がその渦中になると、とても鬱陶しく感じた。




 溜息をつきそうになって堪える。
 ふいに、あの甘い匂いがして、それと同時にふわりと視界の隅で栗色の巻き毛が揺れた。
 それとほぼ同時に目の前に座る瀬那の顔がこれでも足りないと言わんばかりに歪む。
 そして心底嫌そうにうめき声を上げた。




「うげっ…」




「ふふ、心底嫌そうな顔も愛してるわ、瀬那ちゃん」




「あー…瀬那、綺麗なお顔がものすごく崩れてるよ」




 陶磁器のように滑らかそうで白い掌とブレザーに隠れてもなお細い腕がするりと首筋に絡んでくる。
 振り返る前に華奢な指先で顎を上向かされて、とても綺麗で可愛い顔とかちあった。




「うふふ、来ちゃったカナ」



「あー、……来られちゃった?」




 あは、と軽く苦笑いしながらあたしは、いたずらっぽい笑みを浮かべたアンジュに答えた。
 彼女の桜色の花びらみたいな唇がゆるりと笑みの形を作る。
 アンジュはうふふ、ともう一度密やかに笑って、あたしの髪をするりと撫でた。
 女のあたしでもうっとりしてしまう仕草を平然とやってのけながら、アンジュはにこにこしながら桐島の席に腰掛ける。




「うん、来ちゃった。ねえ、なんのお話してたの?」




 くすくすと何が可笑しいのか、アンジュは笑い続けたまま、あたしと瀬那に交互に視線を送った。
 それは何気ない質問のはずなのに、あたしはひどく嫌悪感を覚えた。
 瀬那も何か違和感を覚えたのか、変な顔をしている。
 けれども質問した側のアンジュはにこにこしながら返事をずっと待っている。




 その笑顔が、少し、怖い。




 何か言わなくちゃ―――そう思って、口を開きかけた時、アンジュの背後に見慣れたカーディガンが見えた。




「……あんた、誰?どいてくれない?」




「桐島、」




 どうしたの、と聞きかけて、ふと桐島の顔を見て安心した自分に気づく。
 桐島は口ごもったあたしに不思議そうな視線を送ったあと、きょとんとした顔で彼を見つめるアンジュを睨みつけた。




「ここ、俺の席なんだけど。さっさとどいてよ。座れない」




 低い囁くような声が不機嫌に歪む。アンジュは一瞬つまらなそうな顔をして、それからゆるりと嫣然に微笑んだ。
 ゆっくりと立ち上がり、少し考えるような仕草のあと―――なんと、あたしの膝に腰掛けた。




「ごめんね、カナ。重くない?」




「………いや、何かのごほうびかと」




「ちょっと待て会話おかしいから、湯野」




 あんまりにも自然な動きに少し唖然としていた瀬那が慌てて突っ込む。
 当のアンジュはくすくすと笑うだけで、あたしの方はいい匂いと近くにある美形な顔にぽーっとしていた。
 ふいに横からの強い視線に気付いて、振り返る。
 ……桐島がとてもとても怖い顔をしていた。
 思わずヒッと小さく息を呑む。同時にガシッと頭を彼の大きな掌に掴まれた。




「………あんたさあ、誰だか知らないけどごめんとかそういうこと言えないわけ? てか、この子に触んないで」




 今の桐島なら視線で人を殺せそうだった。ていうかあたしのせいではないのに何故、こめかみをグリグリされているのだろう。痛い。
 しかしアンジュには効かないようで、アーモンド形の瞳をいたずらっぽく歪めて、くすりと笑った。




「勝手に座ってごめんなさいね。でも触るのはいいじゃない、カナは友達だもの」




 それより、とさらに彼女は楽しそうに言った。




「そおんないじめっ子みたいにしたら、カナに嫌われちゃうわよ?」




 痛いことする男の子って最低。
 鈴のなるような声で手痛い一言を囁いて、アンジュはにっこりと桐島に笑いかける。
 途端に彼の手が離れて、ものすごく苛立たしそうにアンジュを睨みながら、桐島は席についた。




「…………あの、」




 一気に悪くなった雰囲気に目眩がする。
 目を泳がせて瀬那に助けを求めるが、既に彼女はあらぬ方向を見ながら食事に没頭していて、早々に戦線を離脱していた。くそう、卑怯者め。




「…あ、ね、ねえアンジュは瀬那に会いに来たんじゃ、」



「ううん、瀬那ちゃんにも会いたかったけれど、カナともお話したかったの」




 せめて話に巻き込んでやろうと、瀬那の名前を出すが、アンジュはにっこりと反論する。
 何だかアンジュに遊ばれているような気がして、あたしはすっかり困ってしまっていた。
 そんなあたしを見て、アンジュはとても楽しそうな顔をする。
 するりと華奢な指先が伸びてきて、あたしの頬をツンとつついた。




「うふふ、遊びすぎちゃったわね。ごめんなさい、カナ。許してくれる?」




 するりと羽みたいに軽かった体重が消える。
 立ち上がったアンジュはあたしの髪を指先で弄びながら、あたしの顔を覗きこんだ。




「あたし、カナのこと好きよ。また遊びに来てもいい?」




 ふわりと栗色の巻き毛が揺れる。
 さっきまでずっとにこにこしていたのに、今は少し不安そうに瞳が揺れていた。
 あたしはこの馴れ馴れしくて、わがままな女の子が無性に可愛く見えて、気づけば勝手に口は動いていた。
 いや、実際モデル並みに可愛いんだけれども。




「うん、あたしも遊びに行くね」




 そう答えた瞬間、ぱあぁっとアンジュの顔が文字通り輝いた。
 いちばん欲しいものをもらえた子供のように、先ほどまでの蠱惑的な笑みではなく、無邪気な明るい笑顔を浮かべる。
 そうして彼女はおずおずとブレザーのポケットからスマホを取り出した。



「じゃあ、アドレス。教えてくれる?」




「あ、うん。ちょっと待って」




 急にしおらしくなったアンジュに萌えつつ、あたふたとアドレス交換していると、不機嫌顔のままな桐島が口を開いた。




「湯野、今日はバイトあるの?」




「え、うん。あるけど」




「悪いんだけど、しばらく送り迎えできない」




 思わず、握っていたスマホを取り落としそうになった。
 突然の宣言に固まるあたしに、桐島はバツが悪そうに視線を逸らす。
 気まずそうに口元を手で覆い隠しながら、ごめんともう一度囁く。
 何か用事なのだろうとは容易の予想がついた。
 同時に今朝の中谷の言葉が頭の中に浮かび上がってくる。



『あいつんちもまあまあ複雑だし』




 聞くなら今しかないと思った。
 意を決して、口を開きかけた時。




 ―――キーンコーン…。




「あ、チャイム。吉良、帰んなよ」




「名残惜しいけど仕方ないわね、愛してるわ瀬那ちゃん」



「どさくさまぎれに告白すんな」




 心底嫌そうな瀬那の声とアンジュの心底寂しそうな声が耳をすり抜けていく。
 中途半端に開いたあたしの口を不思議そうな顔でアンジュは見つめ、首を傾げた。




「どうしたの、カナ」




「あ、いや、その」




「連絡先、ありがとう。メールするわね」




「え、うん、またね」




 爽やかに笑って、アンジュが去っていく。
 それを見送ってから、桐島を振り返ると彼は既に寝る体勢に入っていた。




「………なに、怒ってる?」




 拗ねた顔で訊き返されて、あたしは完全に聞くタイミングを逃したことを悟った。




「ううん、怒ってない。むしろいつもありがとう…」



「なんでそんなへこんでんの」



「何でもない…」




 食べかけのサンドイッチを口に押し込みながら首を振り、あたしは嵐のように去っていったアンジュを少しだけ恨んだ。




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