脇腹が痛くてたまらない、だけど足は止まらなかった。
上がる息も苦しくてしょうがなかった。それ以上に、頭の中もいっぱいで苦しかった。
あたしは走りながら、しっちゃかめっちゃかな頭を必死に整理する。
桐島の姿が見えたのは、同じ階の北校舎だった。
だからこそすぐ追いつけると思ったのだけれども、先ほどいたはずの図書室の前には誰もおらず、しかし扉は少しだけ開いていた。
そして、まるでたった今まで誰かがいたかのように覚えのある香水の残り香がした。
知らず、口から零れ落ちるように囁く。
「……ライオンハートだ…」
以前、桐島の家に行った時だった。
大事に飾られたライオンハートの空き瓶を見て、あたしは訊ねたことがあった。
『ねー、なんでこれ捨てないの?』
それはいつ見ても埃一つなく、毎日手入れしていることが窺えた。
同じ香水をずっと使っているのに、どうして空き瓶を大事にしているのか不思議だったのだ。
ソファに腰掛けて、かったるそうに雑誌を読んでいた桐島は顔を上げて、ふと珍しく顔を少し赤らめた。
『…言ったらあんた笑うからいやだ』
『えー、余計気になるじゃん。教えてよー』
けらけら笑いながら、赤らんだ頬を突こうと近づくと桐島は嫌がって身をよじらせる。
何だかいつも以上に人間らしいというか、穏やかな仕草と表情にあたしは思わずスマホを構えてシャッターを押した。
シャッター音に桐島の顔が不機嫌そうに歪む。
『何撮ってんの、消せ』
『えーやだよ、こんな顔の桐島、レアだもん』
けたけた笑いながら、スマホを奪おうとする手を阻むと彼は仕方ない、と言いたげな顔で溜息をついた。
そのあと何故だかまたもや顔を赤くして黙り込んでしまったので、あたしまで赤面してしまったのだった。
結局あの時、瓶を捨てない理由は聞けなかったけれど、初めて見た表情がやけに嬉しくて、中谷にも写メをおすそ分けするほど、あの写真は宝物だと思った。
ほんの僅かに開いた扉に手をかける。
やけに重たい引き戸を意を決してゆっくりと開けた。
「……だれも、いない?」
そっと囁いた問いかけは不安げな響きを残して、空気に溶けていく。
昼下がりのやけに暗い図書室に恐る恐る足を踏み入れ、辺りをきょろきょろ見渡してみる。
やはりそこには誰もおらず、あたしの足音だけが古くさい空気に小さく鳴っていた。
立ち並ぶ本棚をジグザグ歩いて、何かを求めるように視線をあちこち動かした。
息が苦しくて、今にも泣きそうだった。
どうして桐島は消えてしまったのだろう。どうしてあたしだけ、彼を忘れなかったんだろう。
むしろ―――あたしが、選ばれた理由は?
立ち止まりそうになった瞬間、視界の隅でさっと何かが横切った。
それは、見覚えのある背中だったような気がして、体は勝手に走り出し、口は勝手に名前を叫んだ。
「桐島っ!!!」
走り出すと同時にライオンハートの香水がふわりとまた香る。
それがあたしのものなのか、桐島のものなのか、定かではないけれど、なくしてしまうのが嫌でいっそう強く床を蹴った。
(あたしが、桐島を、忘れなかったりゆう。)
走りながら考える。それがすべてな気がするから。
桐島が選んだ?―――違う、そんな中途半端なこと、桐島はしないだろう。
何かのミス?―――あたしだけ、なにか抗体みたいなものがあるってこと?
スマホをちらっと確認する。こうして追いかけていても、桐島の姿はどんどん薄くなって、もう胸の辺りまで消えてしまっている。
もう時間はほとんど残されていない。
それなのに、なんで―――頭の中にどんどん桐島の顔が浮かんでくるんだろう。
(いなくなったりなんか、させない)
だって、だって、もう、あたしは。
(桐島を忘れたりなんか…、できない!)
逃げていく影を追って、階段を駆けのぼる。
そうしてふと、その先が屋上であることに気づいた。
あたしと、中谷と、桐島でいつもサボる場所。
きっと――――学校で桐島がいちばん好きな場所。
驕りかも知れなかった、ただの自意識過剰かも。
だけれども、あたしはずっとそう思っていた。
桐島が、学校ではいちばん桐島でいられた場所。
「桐島!」
逃げる背中が見えた、黒のカーディガンを着た背中にミルクティー色の髪。
左耳には黒いピアス、骨張って大きな手。
手を伸ばせば、捕まえられる。
「どこ行くの、桐島!」
開け放たれた屋上の扉、その少し手前であたしはその手をやっと捕まえた。