「…こ、誰?」
「後輩。薫、コーヒーは」
「いる。志朗…」
「なんだよ、…ん、」
………俺はおいとますべきだろうか。
束の間、吐息と濡れた音が湯の沸く音に混じって聴こえた。
何だか変な気持ちだった。心臓がビックリ箱を開けた時みたいに騒いでいる。
志朗先輩が、男と暮らしている。
思えば、会った時だって「私だけじゃないからな」とも言っていた。
てっきり涼平先輩と凛太朗先輩で飲むのかと思っていた自分が恥ずかしい。
あまりの自分の鈍感さに引戸の前でうずくまっていると、すぱーん!と勢いよく引戸が開いた。
再び固まったら、背中を容赦なく踏まれる。
志朗先輩がマグカップを両手に不機嫌そうな顔をしたのが低い声で解った。
「おい、邪魔」
「すみません。いま退きますから背中から足おろしてくれませんか」
志朗先輩は俺の背中をぐりぐりしてから、解放した。
地味に痛かったが、盗み聞きした俺が悪いので、沈黙を突き通した。
志朗先輩は悠々とコーヒーをすする。俺もそわそわしながら出されたコーヒーをすすってはみる。
すすってはみたが、極度の気まずさでコーヒーの芳ばしい味も解らない。
駄目だ。逃げよう。
俺は何も見てない。聞いてない。知らない。
「……えーと…俺、帰ります」
そろそろと後退しながら告げると、志朗先輩はにやにやと悪戯めいた笑みを浮かべた。
遊ばれる時に浮かべる表情は久しぶりに見ても変わらず、こんな状況なのに何故か懐かしいと思った。
「ふーん…なあ、貴巳。お前さあ」
志朗先輩が不自然に言葉を切る。
彼女が何を言うのか、俺には皆目見当がつかなかった。
「…覗きが趣味とは私より変態だな」
「そのふざけた頭刈り上げますよあなた」
………考えるよりも口をついて出てしまった。
知らず知らずのうちに冷や汗が米神を伝う。
この人のチョークスリーパーは痛い。
けれど、志朗先輩はさも可笑しいと言わんばかりにげらげらと笑いだした。
「し…シロ先輩…?」
「あーほんとお前、楽しい。言っとくが、薫は恋人じゃないから」
おそるおそる呼ぶと、彼女はひーひー言いながら、そう否定した。
その一言に俺は首を傾ぐ。
キスしといて、恋人じゃないってどんな関係なんだろうか。
「でも、キス」
「薫は甘えただから。それくらいしかないぞ。寝たこともない」
きっぱりと断言する志朗先輩は嘘をついているようには見えない。
だが、一緒に暮らしているということはそれなりの感情を抱いているのではないのか。
クエスチョンマークが頭のなかをぐるぐる巡る。
「シロ先輩、」
「別にすきでもない。嫌いでもないけど…うまくは言えないが、」
俺の問おうとしたことを告げて、彼女はふと遠い目をした。
足りない言葉を探すように、そっと。
「とりあえずさあ、あいつは私がいなきゃ死んじまうんだよ」
夕陽のように紅い綺麗な髪の持ち主は見たこともない、切ない顔をして呟いた。
それは甘やかな恋でも、穏やかな家族という形でもなく、ただ凪いだ海のような静かな依存であった。
俺はただ、その切ない表情を見つめるしか出来なかった。
どこかで覚えのあるそれは、どうしようもなく優しく、痛い欲望のように思えた。
押し黙る俺に彼女は優しく笑った。
コーヒーの芳ばしい香りが室内にゆるゆると漂っている。
「悪いな。変なこと言った、忘れてくれ」
「シロ先輩、」
なにかを彼女に告げたかった。
けれど、言葉は見つからなくて、俺は唇を噛み締める。
志朗先輩は優しく笑ったまま、俺を見ていた。
変わらない、なにを考えているのか解らない眼差しで。
不意に。
「……貴巳、今度飲みに来いよ」
雇われバーテンをしているのだと、志朗先輩は言った。
「凌とかタローとか連れて。売り上げ貢献しろ」
そう言って、彼女は肉食獣のような目を細めていつものようににやっと笑う。
その笑みに噛み締めた唇からゆっくりと力が抜けていく。
そんな志朗先輩がずっと昔から俺はすきだった。
別に恋でもなんでもない、この花がすきというような感覚で。
このひとたちの間柄は、きっと、たぶん、そんな気持ちにも似ていて。
「はい、あいつら酒弱いんで強くしてやってください」
「任せろ」
冗談めかして笑えば、志朗先輩がまたにやっと笑う。
なんだかそれが嬉しくて、俺はまたもう一度、笑った。