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あさきゆめみし






もしも世界がハッピーエンドで出来ていたら、わたしは幸せをつかむのかもしれない。




目を開くと同時に眦からぽろっと涙が零れた。
ぼやけた視界が次第に明瞭になり、薄明るい部屋の天井が見えた。
寝返りを打って、零れた涙を指先で拭う。
先ほどまで視ていた夢のせいだろう。あんな夢、みたくなかった。



枕元のスマホで時間を確認する。
朝の9時、家人を送り出してから回した洗濯が終わるまでソファーでテレビを見ているうちに寝ていたようだった。
立ち上がり、籠を持って洗面室へ向かう。
終わった洗濯物を持ってベランダへ行き、パンパン叩きながら物干し竿へ並べた。




バスタオルを叩いた時、柔軟剤の花の香りがふわりと香った。
瞬間、夢の内容が脳裏を過ぎって、胸がきゅっと痛む。




わたしには、すきなひとがいた。
当時はまだ夫ではなかった家人と上手くいっておらず、そんな時に会った人だった。
何もかもが好みだった。顔も声も身体も、自分の妄想が具現化したのかと疑うほどだった。
家人に黙って何度か会った。一度だけ、抱かれた。
最後に会った日、雨が降っていた。真夜中、自動販売機のぼぅっとした光の陰で、頬に触れてもらい、触れるだけのキスを貰った。



何年も昔の、よくない恋だった。
今日みた夢は、すきなひとと会う夢だった。
会って、昔のようにキスをねだって、抱きしめてもらう夢。



家人とは結婚したけれど、ついに子供は出来なかった。
母はわたしを責め、義両親たちはそれが選択ならと何も言わなかった。
普通に憧れ、付き合った人だった。付き合えば、わたしも普通の家庭の人間になれるのではと思って付き合った。
ふと手元を見る。あの頃ですら、老いに怯えていたけれど、今はもうすっかり中年の老いた女の手だった。
張り艶を失った、水気のない手。




家人とは夫婦にはなったけれど、きっと最後まであの名前を呼ぶことすら恥ずかしかった頃には戻れないのだろう。
情はあれど、家人はわたしをもう女としては愛せなかった。
だからこその恋だったのかもしれない。
わたしのいちばん最後の、すきなひと。



最後に会ったあと、次第に連絡は途絶え、気づけばもうずいぶん遠い日の出来ごとになっていた。
今はもうどこで何をしているのかさえ解らない。
けれど、何年かに一度、思い出したかのように同じ夢を見る。
キスをねだって、抱きしめてもらう夢。



夢の中のわたしは、自分でも見たことがないほど無邪気にはしゃいで彼に甘えていた。
夢の中ですら、家人と付き合っていて、彼と付き合うことはないのに彼はわたしのねだるまま、キスをし、抱きしめてくれる。



そうして彼がわたしの名前を呼ぼうとしてーーー、いつもそこで目が覚める。



きっと、実際は一度も呼ばれたことがないからだろう。
そこまでとりとめもなく考えて、ふと思う。



もしもあの時、わたしがあの人を追いかけていたら、わたしは今、違う未来を生きていたのだろうか。
子供だって本当は産みたかった。好きな人の遺伝子を残したかった。
けれど、応えてもらえることはないと知っていたから、望まれるままに家人と結婚した。




あの時わたしに大きな勇気があれば、家人でも、あの人でも無い、もっと違った幸せがあったのかもしれない。
けれど、たらればなんて言い出してもキリがないし、わたしには何度、あの頃に戻っても同じことを繰り返す確信があった。




世界はハッピーエンドで終わらない。
死ぬまで日々は続くし、御伽噺のように上手くはいかない。
わたしは臆病者だ。ハッピーエンドの次のページにどんなバッドエピソードが始まるのかと思うと恐ろしくて堪らない。
だからこそ、わたしはあの頃、あの選択をしたのだ。
一生、自分から逃げ続ける選択を。



「世界がハッピーエンドなら…」



どこかで使い古されたような科白が零れた。
不意に春の嵐。強い風がわたしを嬲り、思わず目を閉じる。
世界がハッピーエンドなら。
あの時、あの人を追いかけていたら。



そこで終わっていたなら、わたしはきっとここにいなかった。
そこまで考えてふ、と自嘲にも似た笑みがこぼれる。
全ては終わったこと。何もかも、夢のような出来ごと。



けれども思うのだ。
誰かを思うだけで幸せになれる世界なら、わたしはとっくにあの人の夢を視なくなって、あの人のことすら忘れてしまうのだろう。




それなら、あの苦い終わり方できっとよかった。
あの人を忘れなくてよかった。
暖かい日差しがゆるゆると頬をさす。すっかりたるんだ頬に不意にあの日触れたかさりとした感触を覚えて、わたしはまた小さく笑って、ベランダをあとにした。




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独り善がりのワルツ







どうせ誰からも愛してもらえないなら、誰と寝たって変わらない。




ふわっと、鼻の先を雨の匂いが掠めた。
うつ向けていた顔をあげると、しとしとと静かに雨が降り始めていて、わたしはふるっと空気の冷たさに身震いする。
足早に車に乗って、エンジンを掛けるとそそくさと発進した。
あのひとの気が変わる前に、どうしても会いたかった。
運転しながら、煙草を咥えて火をつける。
甘苦い煙の香りに顔を顰めつつ、煙草をくゆらせる。




再会して2年。会うのは、これで4回目。
解ってる。解ってるのにいつも諦められなかった。



お願いだからもう連絡してこないで、と何度言ったろう。
優しくしないで、要らないなら、そっとしておいて。
わたしをこれ以上、馬鹿な女にしないで。
言葉の裏にたくさんの言えない言葉を詰め込んで、あのひとへ送った。
けれど、それが伝わったことなんて一度たりともない。
だって、わたしは、わたし、は。




会える嬉しさと会えないかもしれない不安をおさえて、指定された場所へ向かう。
ちょうどたどり着いた時、見慣れた車のナンバーを見つけて、わたしはほっと息を吐いた。
車を停めて、隣に停まった軽の助手席へ乗り込む。




「おつかれ…ごめん、眠くない?」



「おん、おつかれー」




彼は口の端だけで笑い、わたしを一瞥して目を逸らす。
いつだか職場に来てくれた時よりも髪が短くなっていて、わたしは目を細めた。




「あれ、また髪切った?」



「そーもう少し切ろっかなって」



「似合うよ、かっこいい」




わたしが笑うと、彼はハ、と小さく笑った。
寝てたから寝ぐせやばいわー、と言いながら髪を掻きまぜる手に触れる。
かさりとした肌の感触に胸の奥のほうがきゅ、と小さく軋んだ。



彼はわたしの仕種には触れず、彼が2年前に別れてつかず離れずの関係でいる年下の女の子の話を始めた。
あいつはやばい、本当にいらいらする、子供すぎる。
この一年間、時折聞いていた愚痴と変わらず、わたしは笑いながら同調し、相槌を打つ。
いつ聞いても、彼女のイメージは変わらない。
可愛くて、細くて、無敵の女の子。わがままいっぱい言ったって、許される自信に溢れた可愛い女の子。




見たことも無い年下の女の子をイメージしては、いつも恥ずかしい気持ちになる。
歳よりは若くは見られるが、かすかに浮かぶほうれい線や、たるんできた胴回りを思い出して惨めな気分になる。
かなうはずもない、年下の無敵な女の子。
いたたまれなくなって、切ったばかりの髪を掻きあげる。
あなたが、似合いそうと言ったショートカットはいまだに褒めてもらえない。




「最近どーなん、彼氏とは」



「…変わんないよ」




牽制みたいな質問だなといつも思う。本当にそうなんだろうけれど、その質問をされる度に見当違いな期待と虚しさが襲った。
けれどそんな感情は出さず、ふふと声を潜めて笑った。




「とりあえず5月には籍入れるの。元気なニートから人妻にチェンジするの」



「元気なニートってなに」




くつくつと低く笑う。その声が好きだった。
笑ってくれたことに安心して、近くに来た彼の手にまた触れる。
緊張しているのか、手汗をひどくかいていて、わたしはそっと左手を引っ込めた。
それからこの曲がいいとか、あのアニメが面白いとか、そんなことを話して、気づいたら2時半過ぎていた。
雨は、相変わらず止まない。




「あなたと再会して2年経ってるんだよ」



「そんななるかな…早」



「うん、早いね」




ふとした拍子にそんな言葉がこぼれ落ちた。
そう、2年。2年も経ってしまった。
25歳のわたしは27歳になって、それでもまだ変わらない現状にしがみついて醜く生き延びている。
そう思ったら、ぽろぽろと言葉がこぼれ落ちていった。




「2年も経つのにまだ彼氏に抱いてもらえないの。
多分もう、彼からは抱いてもらえない。他の人とやってこいって言われたし…二度と忘れないわ、許さない」




「あなたが好きになったけど、それでも6年付き合ったあのひとを捨てられないから、連絡絶とうとしたけどあなた聞いてくれないし」




「あなたがほかの女の子といるのもわかってる、わたしのこと、なんとも思ってないのも解ってるのにどうしてもやめられないの」




泣くのかと思ったけれど、わたしは笑っていた。
彼は困ったような笑顔で空を見つめている。
責める気はひとつもなかった、けれど結局責めていたのかもしれない。
彼があー…と小さなうめきを漏らし、乾いた笑みを浮かべる。




「いや、ごめん。なんか俺、自分がされたことをさやにしてたんだな」



「今気づいた?」



ふふ、と小さく笑った。
遠のいてしまう前に彼の手を捕まえて、そっと撫でる。




「……自分がされたことを、わたしにして発散してるのかなって思ってる時もあったよ、でもね」




あなたに一度、抱かれたあの日から、わたしの心にあなたがすべりこんでしまった。
6年付き合ってきた男よりも、本音がいえて、けれどあなたがわたしを見つけてくれることはこれから先もきっとない。



解っていた。わたしは、都合のいい女。それでも。



「あなたがすきだからいいの、もう」



「泣くな」



「泣いてないよ」




声を潜めて笑う。もう楽しい時間は終わってしまう。
時計は既に3時を過ぎていた。これ以上はいられない。




「触って。そしたら帰るから」




両手で彼の手を掻き抱いた。唇を寄せて、小さなキスを落とす。



「すき…すきよ」




抱き締めた手をわたしの頬へ導いて、そっと擦り寄った。
低い体温を覚えたくてたまらなかった。
不意に彼の両手がわたしの頬へ伸びて、触れるだけのキスをくれた。
その瞬間が、震えるほど虚しくて幸せだった。



「ありがとう」



荷物を持って、車を降りる。
降り頻る雨は、ますます酷くなっていた。



「もう連絡しちゃだめよ」


「なんでだよ」



彼が笑う。
でもここ最近はわたしから連絡してばかりなのも解っていた。
彼からは、こんなこと言わなくたって、もう来ない。




2日前にしたメッセージのやり取りが脳裏に浮かぶ。
『俺でいいなら言ってよ』
本当は、もう一度なんて言わず、何度だって抱かれたかった。




「おやすみ」



車に乗り込んで、エンジンを掛ける。
手をパタパタ降ると彼も振り返して、去っていく。
その後ろ姿を見送りながら、煙草に火をつけてーーーぽろりと涙がひとつだけ落ちた。




彼には言わなかった。彼以外に抱いてくれる相手がいること。
彼じゃなくても、女になれること。
だってどうしたって愛してもらえないなら、誰と寝たって変わらなかった。
彼氏にしたって、あなたにしたってそうだ。
あなたが好きだった。けれども、誰だっていいなら、誰のことも好きじゃないのと一緒だった。




それでも。




「すき……」




胸に空いた隙間にすべりこんだこの気持ちだけは、1度だけでもあなたに直接伝えたかった。
軽く触れただけの唇をなぞり、頬に触れた掌を思い出すように触れる。
お願いだから、どうか。



わたしのこと、忘れないで。




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