ふわり、と花の香りに包まれる。
慣れないそれに目を覚まして、少年はぱちりと目を覚ました。
ゆっくりと瞬くブルーグレーの瞳。
彼は体を起こして、ベッドを降りる。
ふらふらと、何かに導かれるように。
淡く、白百合の香りが満ちている。
見慣れた自分の部屋のはず。
それなのに……
ぼんやりとそう思いながら、少年……セレスは歩みを進めていった。
まだ夜は深い。
両親もまだ寝入っている様子なのが気配でわかる。
外もしんと静まり返っている。
そんな中を通って、外に出れば。
「……貴方は?」
見慣れない人物が、外に立っていた。
亜麻色の髪にサファイアブルーの瞳。
そして……背には、大きな翼が開いている。
その姿を見て、セレスは驚いたような表情を浮かべた。
彼に声をかけられて、その人物は目を細めた。
ゆっくりとセレスに歩み寄り、その頬に触れる。
驚いて目を見開くセレスの瞳を見つめながら、その人物……天使は言った。
「私の名前はリリエル、リリエル・ウォーターシュ。
大天使の一柱、ガブリエルの力を持つ者」
鈴の音のような声で、天使は名乗る。
セレスはそれを聞いて、大きく目を見開いた。
「!ガブリエル様の……」
セレスは信心深い性質だ。
天使という存在は尊い存在。
それも、ガブリエル……大天使ともなれば、一層である。
自分のような存在と接触してくるとは想像したこともなくて。
「その通りですよ」
そういって穏やかに目を細める、リリエル。
夢を見ているのか、とセレスは思ったのだが、それを読みとったかのようにリリエルが"夢ではありませんよ"といった。
セレスはそれを聞いて、ゆっくりと首を傾げて、リリエルに問うた。
「何故神の御使いが、私のところに?」
何か、御用が。
そう問いかけるセレスを見つめ、リリエルは言った。
「貴方を私が認めたからですよ。
私の……ガブリエルの力を継ぐ者として」
その言葉の意味を一瞬飲み込みかねて不思議そうな顔をした。
リリエルはそれを聞いて、初めから説明しないといけませんね、口を開いた。
そして語る。
天使の中でもガブリエルは特殊なのだという。
"血を継ぐ"のではなく"力を継ぐ"らしい。
そしてその力を継ぐ者として、リリエルはセレスを選んだのだという。
「しかし……」
話は理解出来た。
しかし、気になるところがある。
セレスは真っ直ぐにリリエルを見つめながら、言った。
「私は、天使ではありません。
天使様であればご存じかとは思いますが、私はただの人間です」
特別な力などありません。
困ったようにそう言うセレス。
リリエルはその言葉に静かに頷いた。
「ええ。確かに貴方は普通の人間です。
しかし、その中でも貴方は優れた存在ですから」
「優れた……?」
セレスは不思議そうな顔をした。
自分は特別優れた能力を持たないはずなのだけれど。
彼がそう呟くのを聞いて、リリエルは目を細めながら、言った。
「純真に神を信ずる姿、姿勢、思考……
普通の人間の中に、貴方程の素質を持った者はそういませんからね」
こうして私の話を信じ、聞き入れていることが何よりの証拠ですとも。
そう言いながら、リリエルは緩くセレスの頬を撫でた。
深いサファイア色の瞳の奥、そこに自分が映り込む。
セレスがそれを見つめていれば、リリエルはふっと息を吐いた。
そして、静かな声音で言う。
「無論、今のままでは貴方は天界には来られません。ですから」
そんな言葉と同時。
緩く頬を撫でたその手から、魔力が伝わってくる。
一層強くなる百合の香り。
くらりと、一瞬視界が揺らいだ。
「っ……ぁ」
意識が遠のく。
そんな彼を支えたリリエルはセレスの額にそっと口づけて、いった。
「私の魔力が馴染んだら、迎えに来ます」
「迎え、に?」
掠れた声で問いかけるセレス。
リリエルはゆっくりと頷いて、言った。
「無論です。ガブリエルの後継者を地上に置いたままにする訳にはいかないでしょう?」
地上は穢れ多き場所。
出来うることならば今すぐにでも、貴方を連れていきたい所ではあるのですけれど。
その言葉に、セレスは大きく目を見開いた。
天使に選ばれるというのは光栄なことだと思った。
しかし、天界に行くということは、人としての生活は……
「お待ちしていますよ」
そんな言葉と同時、ふっと意識が途切れる。
淡い白百合の香りと同時、ちりっと胸の辺りに痛みが走る。
―― 天使様の後継者。
光栄だ。
そう思うと同時に、微かな不安。
それを感じながら、セレスは眠りの中に意識を落としたのだった。
―― 選ばれし者 ――
(美しい天使様。
私がその後継者になれるなんて…)
(嗚呼、けれど。
天使の仲間入りとなれば、ヒトとして生きることは…?)