ふ、と目が開いた。
ゆっくりと瞬きをして、周囲を見渡す。
辺りは一面、柔らかな緑に包まれていた。
広い、広い草原だ。
それをみて亜麻色の髪の少年騎士はゆっくりと瞬きをする。
そして反射的に、武器である魔術剣に手をかけようとした。
幼い頃から訓練を続けてきた体は素早くその草原の上に立ち上がり、何者かに襲われることを伏せごうとする。
しかし……あるはずの魔術剣はそこには無く、手は空を掻いた。
それに驚きつつ彼……フィアは視線をそちらへ向ける。
そして次の瞬間、驚きに目を見開いて、固まった。
「え……」
思わず漏れた、声。
それにさえも違和を感じて、サファイアブルーの瞳が幾度も瞬く。
彼は恐る恐る、といった感じで視線を自分自身の手に向けた。
「な、なんだ、これ……どうなって、いるんだ……?!」
そう声を上げる。
その声は、勇ましい男装の騎士の声ではなく……稚い、少女の声だった。
見れば、手も子供のそれになっている。剣を握ったために出来た肉刺もない、紅葉のような掌。
それをみて幾度も瞬きを繰り返し、固まっていた、その時。
「あらフィア、こんなところに居たのね」
聞こえた声にびくり、と体を跳ねさせる。
おずおずとそちらを見ると、そこには……一人の、女性の姿。
長い黒髪。
綺麗な、橙色の瞳。
その姿を見たフィアは思わず、目を見開いた。
「母さん……」
ぽろり、と漏れた声は彼女……フィアの"養母(はは)"には届かなかったらしい。
彼女は"どうしたの?"といいながら、フィアの前にかがんだ。
そして柔らかい、フィアの亜麻色の髪を撫でる。
「大分陽射しも強くなってきたでしょう、ちゃんと帽子を被らなくては駄目よ」
そう言いながら、母であるネリアはフィアの頭に帽子をかぶせた。
フィアは信じられないと言いたげな表情で、もう二度と会えないはずの母の顔を見る。
そんな彼……否、"彼女"の様子に流石に気がついたのか、ネリアは不思議そうに首を傾げた。
そして小さく丸いフィアの頬をなで、問いかける。
「一体どうしたの?フィア」
具合でも悪いの?と問いかける彼女は心配そうだ。
フィアはゆっくりと首を振ると、おずおずと母の方へ手を伸ばした。
「あらあら、甘えん坊ね」
くすくすと笑って、彼女はフィアを抱き上げた。
優しく、暖かい母の腕の中に抱かれて、フィアは顔を歪めた。
―― 嗚呼。
これは、夢だろうか。
……夢で、いい。夢で、構わない。
そう思いながらフィアは母の胸に顔を埋める。
懐かしい匂いがした。
失ったはずの温もり。
愛しい母の温もり。
柔らかな声。
失くしたはずの、穏やかな時間。
それを体いっぱいで感じていれば、涙があふれ出した。
「……っ」
「一体どうしたの?」
そう言いながら、ネリアはあやすようにフィアの頭を撫でる。
その手つきも柔らかい声も、全部全部、よく知った母親のそれで……
「……ママ」
ずっとずっと封じていたその呼び方。
ぽろ、と口から零れたそれ。
母はそれを聞いて、ふわりと微笑む。
「なぁに、フィア」
どうしたの?
そういいながら彼女はそっと、フィアの額に口づけた。
優しい、愛しい、母の温もり。
それを感じて、フィアは目を閉じる。
「……変な、夢をみた」
「夢?こんなところでお昼寝していたの?」
駄目よ、風邪を引いてしまうわ。
そう呟く母の声が少し、揺れる。
あぁ、ねむい、ねむいんだ。
でも、眠ってはいけないと、本能が告げる。
眠ってしまっては、目が覚めてしまう。
そんな矛盾した思考の中、フィアはしっかりと母の体に縋り付いて、いう。
「……一人ぼっちに、なる夢」
ママもパパもいなくなって、一人きりになる夢。
フィアが呟くようにそういうと、ネリアは眉を下げたようだった。
彼女はポンポン、とフィアの背を叩く。
「大丈夫よフィア、私たちはちゃんと此処にいるからね」
フィアの傍にいるわ、と彼女は言う。
絶対に貴女を一人にはしないわ、と。
それを聞いてフィアは顔を歪めた。
―― きっと……
実際、母も父も、そう思ってくれていたのだ、とフィアは思う。
父も母も、血の繋がらない娘である自分を、大切に育ててくれていたのだ、と……そう思いながらフィアは眉を下げた。
―― ママ、ありがとう。
そう呟くのと同時に、ふつりと意識が途切れる。
お休みフィア、と囁く優しい母の声が聞こえた気がした。
***
目を開けると同時、視界に飛び込んできたのは見慣れた天井だった。
自分の手を見れば、それはいつも通りの自分の手。
「……やっぱり、夢……だった、んだな」
呟くように言うフィア。
その声も、やはり自分の声、いつもの、"男装騎士"の声で。
「……母さん」
もう、ママとは呼べない。
そう思いながらフィアはふっと息を吐き出して、くしゃりと髪を掻き揚げた彼は、苦笑を漏らす。
「忘れた、つもりだったのにな」
乗り切ったつもりだった。
両親の死もどうしようもないものだったと割り切ったつもりだった。
こうして騎士として、仲間たちと過ごす事を受け入れたつもりだった。
これが最善の道だと、わかっていたつもりだったのだけれど……――
……先刻の夢の中で、望んだ。
自分は此処で生きたい、と。
父のもとで。
母のもとで。
普通の、女として。
もしあの夢が現実になると悪魔に囁かれたならば、自分はあのうたかたの中で生きることを決めていたことだろう。
そのくらい、フィアは……まだ、両親を愛して、求めていた。
「……俺も、まだまだ、だな」
そう呟いたフィアはぱん、と一度自分の頬を叩く。
そしてベッドから起き上がる。
窓から降り注ぐ初夏の早朝の光は柔らかく、優しく……まるで、あの夢のようだった。
―― 捨て切れぬ希望 ――
(強くなったつもりだった。
もう何もかもを割り切って、まっすぐに生きてきたつもりだった)
(それなのに…きっと、割り切れてなんかいなかったんだ。
目の前に甘い、淡い夢を差し出されたならば、俺は、"私は"きっと…)