これは一体どういう状況だ。
そう思いながら、漆黒の瞳の青年は目の前にある見慣れたサファイアブルーを見上げた。
背中が痛い。
その原因はついさっき眼前の彼に無理矢理地面に押し倒された時にぶつけたから。
手首も痛い。
その原因は今現在も眼前の彼が無理矢理彼……ノアールの手首を拘束しているから。
目の前にいるのは亜麻色の髪にサファイアの瞳の少年……否、青年だった。
見た目は、"少年"だが、実際のところ年齢はノアールと三つしか変わらない。
正直、彼の実妹である男装の騎士と双子の兄妹だといわれても納得してしまうだろうと、ノアールは今も思っていた。
幼いのは容姿だけではない。
歌うような話し方も、人をからかうような笑い方も、全部全部子供っぽいのだ。
幼い。
何処までも無邪気で、残酷で……それは、まるで物事の善悪が付く前の子供にもよく似ている気がした。
好奇心から虫眼鏡で蟻を平然と焼き殺してしまうような、しかもそれを面白がってしまうような、そんな無邪気な残酷さ。
それを消さずに大人になってしまったのが、今目の前にいる彼……フォルであるような気がした。
ノアールはそれに惹かれたのだ。
無邪気な残酷さ。
或いは、それを維持出来てしまうだけの強さに。
……とはいえ、だ。
話を、戻そう。
これはいったいどういう状況だ。
「……主」
ノアールは低い声で、目の前にいる、自分を押し倒している形になっている自身の主人を呼んだ。
亜麻色の髪の堕天使はいつも通りの笑みを貼りつけたまま、ノアールを見下ろしている。
サファイアの瞳に、光はなかった。
「……どうかなさいましたか、主」
そう、呼ぶ。
フォルは答えず、代わりに手首を拘束する力ばかりが強くなった。
それを感じてノアールは思わず顔を顰める。
フォルは、見た目に似合わずかなり力が強い。
無理矢理に押し倒されれば、しかもその手首をこんな無茶な力で拘束されれば、痛いに決まっている。
しかもその原因が、理由が、わからないのだ。
それは、不愉快でならなかった。
「……も、……の?」
「……え?」
呟くような声で、彼が何か言った。
一瞬聞き違いかと思って、反応が遅れるほど小さな声で。
ノアールは微かに目を見開く。
それを見下ろしたまま、フォルはもう一度口を開いた。
「……君も、僕の前からいなくなるの?」
そんな、問いかけだった。
彼らしくもない。
そう思って、ノアールは瞬きを繰り返した。
自分が知る主……フォルは、強い人だった。
否、強い堕天使、というべきか。
だから、だろうか。
まるで自分がいなくなることを恐れるかのような彼の質問に、驚き、困惑しているのである。
「……どうして、そのようなことを」
ノアールは冷静にそう問いかける。
後、出来る事ならばこの体勢はどうにかしてほしい。
此処は彼らがかつて"皆で"過ごしていた屋敷で、誰も来るはずがないのだから別段気にすることはないのだけれど……
もしかしたら、人が来るかもしれない。
たとえば、フォルの恋人である異国の書記長だとか。
或いは……――
「……ほら、ね」
何が。
ノアールがそう問いかけるより先に、フォルの細い手がノアールの首にかかった。
そのまま、手首を掴んでいた時と同じような力で締め上げられる。
彼のあまりに唐突な行動に、ノアールは目を見開いた。
「っく……っふ……」
掠れた声が漏れる。
しかしヘタにもがけば彼に怪我をさせる気がする。
そう思うと、下手に動くことも出来なかった。
「……だって、そうだろう。
此処には誰もいなくなった」
フォルはそう言うと同時に、手を離した。
げほげほ、とノアールは咳き込む。
そんな彼を見下ろすフォルのサファイアの瞳には、相変わらずに光がなかった。
「……な、んですか」
「ロシャは時々此処に来るよね。否、一応ここをまだ"家"にしてるのかな。
でも、ペルはもう此処には戻ってこないよね、あの子はもう"彼方"の子だ」
冷静な声でフォルは言う。
あまりに淡々とした声で、ノアールも口をはさめなかった。
「ブランはどうだろう、一応君が此処にいる限りは此処にいるだろうね。
シャムは……"まだ行き先が決まっていないだけ"かな。
……君はどうなの、ノアール」
ね、教えてよ。
そういって、フォルは微笑んだ。
にこり、と微笑んだ。
……あまりに綺麗で、柔らかくて、冷たい笑みだった。
「……主は、あの操り人形たちが自分たちの手から離れていくのを……」
「僕の質問に答えてよノア」
するり、と首筋をフォルの手が撫でていった。
もう一度絞めるよ、とでも言いたげに。
ノアールはそれを聞いてす、と目を細めた。
そして、言う。
「……私は、いつでも主の傍に」
「本当に?僕が"あの子"を殺しても?」
そう言われて、ノアールは思わず眉を寄せた。
一瞬の表情の変化、感情の変化、それを感じ取ってか、フォルは笑った。
そうか。
そうだよね。
やっぱりそうなんだよね。
そういいながら、フォルはノアールから離れた。
「……あのさ、ノア。
僕別に、どうでもいいんだよ。
僕が作った操り人形が何処に行っても、帰ってこなくなっても。
……でもさ、時々、思うんだよね……」
ふ、と息を吐き出すフォル。
彼は遠くを見るような顔をして、言った。
「……殺してしまおうか、ってね」
想い通りにならないなら。
いうことを聞かないなら。
……殺してしまおうかと。
フォルはそういって、笑った。
……彼は、寂しいのだろうか。
ノアールはそう思いながら、目の前の堕天使を見つめた。
彼のサファイアの瞳には、漆黒が揺れていた。
それは、ノアールの髪や瞳の色が移ったのではない。
―― 狂気の色。
それを感じ取って、ノアールは息を吐き出した。
元々彼は、狂気に染まっているとは思う。
けれどそれ以上に……染まってしまいそうな気がして。
「……殺したいのならば、どうぞ」
きっと自分は"彼の言う通り"にならないだろうから。
そう思いながら、ノアールは目を閉じる。
此処で殺されるならそれでもいい。
そう思っていた。
……だって。
先程の、彼の問いかけに頷けなかったのだから。
そう思いながらノアールは目を閉じていた。
しかしどれだけ待っても首に手が触れない。
どういうことか。
そう思って、ノアールは目を開ける。
フォルはノアールの上で微笑んでいた。
その青の瞳から、漆黒は消えていた。
「……嘘だよ」
全部嘘。
そういいながら、フォルはノアールの上から退いた。
そして愉快そうに笑って、言う。
"びっくりした?"
そういって、フォルは笑う。
……その瞳に揺れたのは、どんな色だっただろうか。
―― 全部、嘘だよ ――
(その一言で彼は誤魔化したつもりなのだろうか。
その瞳に点った"色"を、感情を、誤魔化したつもりでいるのだろうか)
(彼は、寂しいのか、怖いのか、苦しいのか。
それを理解することが出来ない時点で、俺も…――)