静かな、視聴覚室。
そこに集まっている生徒たち。
そのなかに、黒髪の少年……ヒトラーはいた。
今は、何の時間だっけ。
一瞬そう考えたが、クラスメイトたちが机の上に出している教科書で、理解した。
世界史の、授業。
視聴覚資料を使った授業か、とヒトラーは思う。
それと同時に、ざわめいていた生徒たちが静かになった。
室内の明かりが更に落ちて、プロジェクタの電源が入れられる。
生徒たちの顔は前のスクリーンを向いて、ヒトラーもそちらへ向いた。
写し出された映像。
それを見て、思わず目を見開く。
写し出されたもの。
それは、ヒトラーのオリジナルの姿だった。
世界史の授業。
内容として扱うことは、あり得ない話ではない。
それはわかっていたけれど……
ヒトラーは反射的に視線を逸らした。
映像で流れる自分のオリジナルの所業から。
赤と黒。
翻る党の旗。
独特な敬礼。
並ばされた人々。
向けられる銃。
倒れるそれらの人々。
並んだ人々を次々に小さな部屋のなかにいれていく。
そこが"何"であるかは、恐らくこの場にいる誰もがわかっている。
それを命じたのは他でもない、"ヒトラー"で。
「やめて、くれ……」
ヒトラーは掠れた声で呟いた。
もうやめてくれ、と。
もう見たくない、と。
しかし、顔を背ける彼の顎を誰かが掴んだ。
シルエットでしか認識できない、クラスメイトたち。
彼らはヒトラーに言う。
「目を逸らすな、アドルフ・ヒトラー」
「これが、お前のしたことだ」
これが現実。
これがお前の犯した罪。
響く声が、彼に言う。
「嫌……」
小さく声をあげてもがくが、その体も周囲で押さえつけられる。
ヒトラーは必死に暴れて、もがいて、逃げようとした。
次第に大きくなる音。
はっきりと見えてしまう、映像。
それから逃げようとするように……――
***
「嫌、嫌ぁああっ……!」
ヒトラーは悲鳴をあげて、飛び起きた。
夢だった。
そう認識しても呼吸は、恐怖は、収まらない。
薄暗い自分の部屋。
「は、……はぁ、はぁ……」
荒い呼吸。
震える体。
ヒトラーはそれを自分で抱き締める。
それでも体の震えは、収まらなかった。
ふらり、とベッドから降りる。
そのままヒトラーが向かったのは、自分の勉強机だった。
おいたままの課題。
散らばった筆記用具。
そのなかに転がるカッターナイフを、手に取っていた。
カチカチカチ、と無機質な音が響く。
彼はそのまま、それを自分の手首に押し付けた。
すでに無数の傷がついた手首。
そこにカッターの刃が滑る。
赤い筋が幾つも幾つもついた。
赤い血が流れる。
提出すべき課題にぽたぽたと滴り落ちて、シミを作る。
「ごめ、んなさい……ごめんなさい……」
彼は無意識にそう呟いていた。
ごめんなさい、と。
先程の夢の、続きのように。
見えない何かに謝っていた。
カラン、と間抜けな音をたてて、カッターナイフが床に転がった。
ヒトラーはその場にへたり込む。
彼が刻んだ傷から流れる血は、青白い腕を伝って落ちていく。
ヒトラーはぎゅっと自分の手首を握りしめたまま、唇を噛んだ。
「許して……」
ヒトラーは掠れた声でそう呟いた。
もう、許して。
切実な心の叫びが漏れる。
流れ出した血は、すでに赤黒く固まり始めていた。
***
そんな夜が明けて、ヒトラーはふらふらと学校に向かった。
自分がつけた傷は適当な処置をした。
汚してしまった課題は提出できそうになかったから、
プリントをなくしたといって新しいものをもらってきた。
何もかも、上手く隠した。
ただ一人、親友であるクビツェクは何か察したのか、
心配そうに何かあったのかと訊ねてきたのだけれど、
そんな彼にも心配はかけられないと、微笑んで大丈夫だと返した。
一日を何とか乗りきって、ヒトラーは一人、帰路についていた。
いつもならば隣にいる親友。
今日は、家族で食事にいくとかで、そのまま学校で別れた。
一人で歩く帰り道は退屈だけれど、今はちょうどいいとも思った。
クビツェクとずっと一緒にいたら、そのうち泣き出して彼を困らせる気がしたから。
そんな、帰り道。
「ヒトラー」
呼び掛けられて、ヒトラーは振り向いた。
そして、赤い瞳を瞬かせる。
「あ、フィア……」
そこにたっていたのは、他校の女子生徒……ヒトラーの友人であるフィアだった。
彼女はサファイアの瞳を細めつつ言う。
「久しぶりだな」
彼女の言う通り、久しぶりに顔を合わせたと思った。
ここ最近はクビツェクと帰っていることが多かったし、
彼女に会う機会もあまり多くはなかったから。
交流授業の時に少し言葉を交わしたくらいか、と思い出す。
と、フィアはヒトラーを見て眉を下げた。
「……大丈夫か?少し、顔色が悪い気がするのだけれど……」
フィアはそういって心配そうな顔をしている。
ヒトラーは彼女の言葉に幾度かまばたきをした。
顔色が悪い。
それは、今日何度も友人に指摘されたことだった。
スターリンにも、ムッソリーニにも、遊びに来た中等部のゲッベルスにも。
顔色が悪いのも、致し方ない。
昨夜はあの夢の所為で満足に眠れなかったわけだし、
ああして自傷したことによって血も流しているのだから。
事実、体調は頗る悪かった。
普通に立っていても目眩がしたし、一時間は保健室で休んでいたくらいだ。
しかし、ヒトラーは彼らにいったのと同じように答えた。
「あぁ、大丈夫だ……多分、夏バテだから」
心配かけてすまない、とヒトラーは微笑んで見せる。
フィアは彼の言葉に今一つ釈然としない様子ではあったが、一応頷いた。
「夏バテか……無理はするなよ?」
「あぁ……」
ありがとう、といってヒトラーはフィアと一緒に歩き出す。
一人で帰っている時に彼女と帰りが一緒になると、
何となくそのまま一緒に話をしながら帰るのが常だったからだ。
「今日、クビツェクは?」
フィアは気になったことを彼に訊ねた。
ヒトラーはあぁ、と答える。
「今日は、少し用事があるみたいで……私一人で帰ってきたんだ」
「そうなのか」
珍しいなと思って、といいながらフィアはさりげなく車道側を歩く。
それは男である自分の役目なのだけれど、とヒトラーが言うと、
フィアは苦笑気味に肩を竦めて、いった。
「何だか足取りが危ないから。
車道側を歩いててふらっと向こうにいかれても困る」
怖いからな、といいながらフィアはそのまま歩いていく。
なんだか彼女に守られているような体になって恥ずかしかったが、
彼女のいっていることも否定しきれないため、ヒトラーはおとなしくそのまま歩く。
いつも通りの話をしながら、二人は歩いた。
互いの学校のこと、友人のこと、最近あったこと……
そんな話をしているうちは昨夜見たあの夢を忘れていられた。
と、交差点に差し掛かって、二人は足を止める。
行き交う車は多くて、フィアはふうっと息を吐き出した。
「今日は車通りが多いな……」
時間帯の所為かな、とフィアは呟く。
ヒトラーはそうかもな、と言いつつぼうっと流れていく車を見つめていた。
エンジン音が遠く聞こえる。
行き交う車が、ぐにゃりと歪んで見えた。
歪んだ景色。
歪んだ音。
それが、昨夜の夢と重なる。
見たくない映像。
聞きたくない罵倒。
あぁ、嫌だ。
嫌だ、嫌だ、嫌だ。
もう逃げ出したい……
自分と言う存在が、"アドルフ・ヒトラー"である自分が、
この上なく煩わしく、疎わしい存在に思えて、吐き気がした。
―― その刹那。
「危ないっ!」
聞こえたのは悲鳴じみたフィアの声。
それと同時に強く強く、腕を引っ張られた。
どさり、と尻餅をつく感覚。
しかし痛みはあまりない。フィアに抱き寄せられたような体勢のまま転んだのだと、
そう認識するまでには少し時間がかかった。
どうやら、ヒトラーが車の行き交う通りに歩道から出ていこうとしたらしい。
それをフィアが引き留めた体のようだ。
二人の体は歩道に座り込むような格好になっていた。
転んだときの痛みはない。
しかし強く掴まれた腕は昨夜彼が傷を刻んだ左腕で、彼は悲鳴をあげた。
「い、……っ」
痛い、と声をあげる彼。
フィアは彼の言葉にはっとすると、慌てて彼の手首を離した。
「あ、すまない、そんなに強く……」
握ったつもりはないのだが、といいかけたフィアは、
自分が掴んだヒトラーの腕を見て、目を細める。
彼女は、知っている。
ヒトラーの"癖"を。
そして、そっと彼の腕に触れながら、フィアは問いかけた。
「……ヒトラー、ちょっと見てもいいか」
その問いかけの意味を、ヒトラーは理解した。
こくり、と小さく頷く。
もう今さら、隠しても仕方ないと思った。
フィアは注意深く彼の袖をめくる。
そして、腕の内側についた真新しい傷を見て、顔を歪める。
「これ……」
小さなフィアの声。
それを聞いてヒトラーは目を伏せる。
「……すまない」
彼はそう詫びた。
どうして謝ったのかは、自分でもよくわからなかったけれど。
フィアも、困惑したように言う。
「謝ることはないが……
こんな手当てじゃ、酷くなるぞ……」
適当に貼られていた絆創膏はとっくに剥がれていた。
包帯を巻こうと思ったのだが、ちょうどきれていてなかったのだ。
ヒトラーがそう言うと、フィアは小さく息をはいた。
そして、ヒトラーの顔を見ながら、言う。
「少し、うちに寄ってくれ。手当てくらいなら、出来る」
大丈夫か?といいながら、フィアは立ち上がる。
そんな彼女の声に、ヒトラーは力なく頷いたのだった。
***
そうして、ヒトラーはフィアの家に来ていた。
兄のフォルはまだ帰ってきていないようで、家は静かだ。
そのリビングのソファに座らせたヒトラーの傷を、フィアは手早く手当てする。
そして綺麗に包帯を巻き付けると、これでよし、と呟いた。
「……すまない、ありがとう、フィア」
ヒトラーは弱い声で彼女に礼を言う。
フィアは彼に首を振って見せつつ、問いかけた。
「どうして、と聞いても構わないか?
……何かあったのなら、相談に乗るくらいは、出来る」
私でよければだけれど、とフィアは言う。
ヒトラーは少し躊躇ってから、ゆっくりと口を開いた。
「別に、誰かに何かされたわけではない、から」
「そう、なのか?」
じゃあどうして、といいたげな彼女。
ヒトラーは暫し目を伏せた後、呟くようにいった。
「夢を、見たんだ」
「夢?」
「……授業中に、"私"を見る夢だった」
映像のなかの、オリジナルの自分。
犯した罪を目の当たりにするあれは、地獄のようだった。
そして、目を背ける自分にかけられる声。
罵倒。
嘲笑……
「私は、私……は……」
掠れた声。
速くなる呼吸。
胸を押さえて体を丸めたヒトラーの背を、フィアはそっと擦った。
「落ち着け。大丈夫だから」
今は私しかいないよ。
私はお前を否定しはしない。
咎めたりしない。
フィアは柔らかな、静かな声でそう言う。
その声に、涙が浮かんだ。
ごめんなさい、と懺悔の言葉を紡いでいた。
誰にどう詫びればいいのかなんてわからない。
オリジナルの罪はどう足掻いたって消えないのだから。
じゃあ、自分はいったいどうしたらいいの?
永遠にオリジナルの罪を背負って、罵倒されて、生きていく?
「もう、……」
解放されたいよ。
願ってはいけないとわかっているけれど。
ヒトラーはそう呟いた。
フィアはそんな彼を見て、顔を歪める。
彼が背負うものの重さは、フィアもよく知っているつもりだった。
でも、きっと……その重さは、自分が想像している以上なのだろう。
そう思いながら、フィアはそっとヒトラーを抱き締めてやった。
「……大丈夫だから」
頼ってくれればいいから。
周囲を頼ればいいから。
怖いときは怖いっていっていいから。
フィアは彼にそう諭す。
それくらいしか出来ない自分を不甲斐なく思いながら。
ヒトラーは彼女の手を、温もりを感じながら涙を流す。
他人の前で……しかも女子に慰められながら泣くなんて情けないと思いはしたが、
もう涙は止められなくて、ヒトラーは啜り泣きながら懺悔の言葉を呟く。
消えない、夢の光景。
消えない、罪。
それを思い返しながら……――
―― 消えないもの ――
(私が背負う、"私"の罪。
嗚呼、願ってはいけないと知っているけれど…)
(逃げ出したいという彼の想い。
苦しげな声での懺悔が、手首に刻まれた無数の傷が、あまりに痛々しくて…)