開けられたカーテンから射し込んでくる穏やかな光。
開いた窓から風が、吹き込んでくる。
珍しくベッドに沈んでいる赤髪の少年……
アネットの腕や首筋には白い包帯が巻きつけられていた。
それらすべて、訓練というか疑似試合で負ったもの。
彼の"恋人"である金髪の少年によってつけられた傷だ。
ただ、彼がベッドに沈んでいる理由は、その傷のためではない。
自分の額に手を当てて、彼は小さく溜め息を吐き出す。
「はぁ……知恵熱って、子供(ガキ)かよ……」
赤髪の少年、アネットは小さく呟いた。
ベッドに沈んだままの彼の顔は赤く、吐き出す呼吸は速い。
少しではあるが、熱があった。
風邪を引いた、という感覚も別にないのだが、
体が怠くて動くことが出来ずにいたのである。
集合時間になっても会議室に行かなかった彼を呼びに来た統率官が彼の様子に気づき、
医療部隊の騎士を呼んだのだった。
―― 色々あって、疲れているんでしょう。
緑髪の魔術医……ジェイドは溜め息混じりにそういった。
そして、アネットにおとなしく寝ているように言いつけて、帰っていった。
色々あって、の意味はアネット自身も理解している。
多分、それが原因だろうということも、アネットは良く分かっていた。
幾つかの、"愛しい彼"の人格。
それに対応するにも、慣れていたつもりだった。
しかし、その実……
自分を嫌っている彼の人格に、傷ついているようで。
それがストレスになっているのだろう、とジェイドは遠回しにいっていた。
無論、だからといってハイドリヒを嫌うつもりはない、
愛しい愛しい彼だから。
でも……
事実、苦しいと感じることもある。
悲しいと感じることもある。
そんなことを思っているうちに、アネットは眠ってしまっていた。
***
眠いのとは少し違う、気怠い感覚。
その中に、アネットは暫し沈んでいた。
夢も見ない、静かな眠りの中……
ふと、額に何かが触れた。
優しい、掌。
慣れた彼の手の感覚に、アネットは目を開けた。
ガーネットの瞳に映ったのは……――
さらりと揺れる、長い金髪。
綺麗な、青い瞳。
それが、目を開けたアネットを見て、幾度か瞬く。
「え……」
「あ……」
アネットの目の前にいたのは、金髪の彼だった。
自分の額に触れた手の感触が彼のものだったから、
たぶんそうだと思ってはいたけれど……
「ラインハルト……?」
アネットは不思議そうに彼の名前を呼んだ。
目の前にいる彼は、こくりと頷く。
そして、すまなそうに微笑んだ。
「ごめんなさい……おこしちゃいましたか……?」
「ラインハルト、お前……俺のとこ、来てくれた……何で?」
アネットはそう呟いた。
正直、驚いたのだ。
カーテンから射し込んで来る光を見るに、まだ時間は昼過ぎだ。
いつもならば、まだ……仕事中の人格が、表に出ているはず。
しかし、今アネットを覗き込んでいる彼は、
明らかにいつもは夜に表に出ている人格……
一体どうして?
そんな、思いがあったのだ。
けれど、ハイドリヒはアネットの言葉にきょとんとした。
「え……あの、アネットさんが、熱あるって聞いて……それで」
迷惑でしたか?とハイドリヒは問いかける。
酷く心配そうな、不安げな表情。
それを見て、アネットは慌てて答えた。
「あ、いや……迷惑じゃないよ、大丈夫」
アネットはゆっくりと首を振って、そういった。
自分が多重人格者である自覚がない"今の彼"にそんなことをいっても、仕方がない。
そう思いつつ曖昧に笑うと、ハイドリヒは小さく首を傾げて見せた。
「何でもないよ……大丈夫」
アネットはそういって、ベッドの上に体を起こした。
そして、痛みに小さく呻く。
ハイドリヒに勝負を挑んだ自分がバカだったな、と今は思う。
命にかかわるような傷はなかったものの、
流石に幾度も斬りつけられて平然とはしていられない。
そんなアネットを見て、ハイドリヒは心配そうな顔をした。
その傷を負わせてしまったのが自分らしいということを知っている彼としては、
どうにも放っておけないらしい。
「痛い、ですか?」
おずおずと手を伸ばしてくるハイドリヒ。
しなやかな手が、アネットの腕に優しく触れる。
表情は酷く不安げで、泣き出しそうなそれだ。
アネットはそれを見て微笑んだ。
「大丈夫だよ、ラインハルト」
「っ、でも……」
ぽろり、とハイドリヒの目から涙が零れ落ちた。
今まで泣くのをこらえていたかのように、ぽつりぽつりと涙がこぼれて、落ちる。
アネットはそれを見て苦笑しつつ、優しく彼の頭を撫でた。
「大丈夫だって。
怪我したのは、俺が不注意な所為。
ラインハルトのせいじゃないよ」
「……でも」
それでも、ハイドリヒは不安げだ。
アネットはそんな彼を慰めようとするかのように、優しい声でいった、
「大丈夫だから。ラインハルト……」
そんなかおをしないで、と言うアネット。
ハイドリヒはそれを見ると、少しほっとしたような顔をして、笑顔で頷いて見せた。
「……はい」
***
それから、アネットとハイドリヒは暫し談笑していた。
久しぶりにこうしてゆっくり話す気がする、そんな風に思いながら。
ハイドリヒがバイオリンを取りに行って曲を弾きさえした。
そんな穏やかな時間に、アネットの心も晴れた。
こうして、自分を好いてくれる人格の彼も、いる。
そんな彼を"別の彼"が消したがっている……
そんな悲しい事態は、アネット自身も理解しているけれど。
今は、とりあえず今は……
目の前にいる"彼"の笑顔を見ていたいと、そう思った。
どれくらいの時間をそうして過ごしていたころだろう。
ふぁ、とハイドリヒが小さく欠伸を洩らした。
まだ、夕方だけれど……
ずっと喋っていたから、眠たくなってきたのだろう。
姿こそアネットとさして変わらない年齢の彼だが、
普段の言動や行動を見ている限り、今の人格の彼は幼く見える。
昼寝くらいしたっておかしくないような気さえ、する。
アネットはそんな彼を見て微笑むと、ぽんと彼の頭に手を置いて、言った。
「ほら、眠いんだったら部屋帰って寝ていいんだぞ?」
ごしごし、と目をこすりつつ、ハイドリヒは首を振った。
そして小さく呟くような声で、いう。
「嫌、です……」
「え?何で?」
別に戻っても問題はないだろう。
眠くなって眠るのならば、それで良いだろうし……
しかし、ハイドリヒは頑なに首を振って、言った。
「寝たく、ない……」
少し泣き出しそうな声になっているのに、アネットも気が付いた。
ハイドリヒはぎゅっとアネットの服を握る。
「眠りたくない……嫌、です」
「……ラインハルト」
なんとなく、彼の心理を理解した。
アネットは小さく微笑んでハイドリヒの柔らかな金髪を撫でる。
ハイドリヒは俯いたまま、アネットの胸に顔を埋めた。
小さく、その華奢な肩が震える。
アネットはそれを抱いて、優しく撫でながらいった。
「大丈夫だよ、ラインハルト。
眠っても、何にも変わらないから」
今のハイドリヒにとって、ほかの人格は自分が眠っている間に存在しているようなもの。
だから、眠って、目を覚ましたら、また"何か"……
自分に覚えのないことが起きているかもしれない。
それが、怖いのだろう。
アネットは大丈夫だよ、といいながら彼を撫でたが、
ハイドリヒは相変わらずいやいやと小さく首を振っていた。
「だって……私、何も覚えてないうちに、
貴方に怪我をさせてしまっていた、のに……」
また眠ったら、貴方を傷つけるかもしれない。
同じことが何度も起きたら、今度こそ嫌われてしまうかもしれない。
それが怖いのだといって、ハイドリヒは啜り泣いていた。
アネットは困った顔をして、そんな彼を見つめる。
確かに……
今の彼とは別人格の彼は、アネットのことも容赦なく攻撃してきた。
それも、それが原因で"弱い人格の彼"が自分から消えることを望むよう仕向けるために。
だから、この前のようなことが一切起き得ないということは、
アネットにもいうことが出来なかった。
しかし……――
そんなことを言っていては、彼の不安を拭うことが出来ない。
アネットはそう思いながら……ハイドリヒを呼んだ。
「ラインハルト、おいで」
「……え?」
ハイドリヒは戸惑った声をあげる。
幾度か青い瞳が瞬いた。
アネットはそんな彼を抱き寄せる。
ハイドリヒは驚いた声をあげる。
アネットはそんな彼をぎゅっと抱き締めて、にっと笑った。
「……このまま、寝ようぜ」
「え、で、でも……」
ハイドリヒは戸惑った声をあげた。
アネットの腕のなかは安心できる。
だから、意識がふわふわと揺らいでしまうのだけれど……
眠りたくないといっているのに、と言う顔をする。
「俺、このままでいるぞ……ラインハルトが眠るまで」
アネットはそんな言葉と同時、ハイドリヒの体をぎゅっと抱き締める。
息が詰まりそうなほど、強く。
ハイドリヒは小さく息を漏らした。
苦しい、と小さく呟く彼。
アネットは少しだけ腕を緩めた。
ハイドリヒは暫くもがいていたが、やがておとなしくなった。
いつもより少し高いアネットの体。
その暖かさに、ハイドリヒの意識もふわりと溶けていく。
きゅ、と自分の服を握ったままに眠ってしまった彼を見て、アネットは微笑む。
「……お休み、ラインハルト……
俺のこと、心配してくれてありがとうな」
そういいながら、アネットはハイドリヒにそっと口づけて、目を閉じる。
無意識に、"もう一人の自分"に怯える彼を、慰めようとするように……――
―― 恐れるモノは… ――
(彼が恐れているものは、彼自身。
大丈夫、恐れなくても良いように必ず守ってやるから…)
(覚えていない、その時間が、空間が怖い。
貴方を傷つけてしまうその可能性を思うとたまらなく怖いんです…)