―― 一体どれだけの時間を、その薄暗い部屋で過ごしただろう。
金髪の少年、ハイドリヒはぼんやりとそう考えた。
自分を監禁する男にペットとして扱われ、求められるままに抱かれ、
甘い声を洩らして、涙を溢すだけの日々。
時間の、日付の感覚は完全に狂い、意識さえもぼんやりしたままの日が多くなった。
精神的に限界で、泣くことさえも出来なくなってきていた。
そんな彼のリアクションが面白くないと、
首輪を強引に引っ張られるために擦れて、そこが痛い。
痛みに声を漏らせば、相手は満足そうに笑っていた。
あぁ、狂っている。
こんなの……
ハイドリヒは絶望と苦痛の中、生きていた。
***
そんな日が続いていた、ある日のこと。
ハイドリヒがいつものように、ベッドの上で組み敷かれていた時。
バンッと、派手な音が響いた。
不意に射し込んできた光に、ハイドリヒは目を閉じる。
自分の上に乗っている男が体を起こして、"何だっ"と怒鳴る。
ドアから射し入る光を背に、その青年は剣を抜く。
そして、すうっと息を吸い込んだ。
「ディアロ城騎士団炎豹ヴァーチェ、アネット・ホークルスだ!」
剣を抜き、高らかにそう宣言する青年……アネット。
ハイドリヒはぼんやりした意識のなかで、
それが夢なのか現実なのか図りかねていた。
その姿を見て一瞬動揺した表情を浮かべた男だったが、すぐに笑う。
余裕のある表情。
ハイドリヒはその男の変なところでの頭の良さを知っているために、不安になる。
アネットはあまり頭がよくないから……――
男は体勢と少し乱れた服を直すと、アネットを見据えて、いった。
「騎士、か……
随分強引な突撃だが、許可は得て来てるんだろうね?」
騎士は、こういった建物への突撃を許可されているが、
それはあくまでその理由が、許可がある場合。
単身で乗り込んできたところを見て、男はそう訊ねたらしい。
アネットはその言葉に"いや、まだとれてねぇよ"ときっぱりいった。
その言葉に、男は小さく笑った。
「ないわけだね。
ならば、両者合意の上だとしたら、そちらが悪になるわけだが……?」
その辺りは、どうかね。
そう訊ねると同時、アネットが動いた。
男が怯む。
その瞬間には、アネットはその男の首筋に剣を向けていた。
ハイドリヒを組み敷いていた男ははっと息を飲む。
アネットのガーネット色の瞳に揺れる、怒りの炎。
「ふざけんなおっさん。
両者合意?んなはずねぇだろうがよ」
「な……っ」
「規則だのなんだので大事な人間守れっかよ……
許可なんか待ってたら、ラインハルト助けにこれねぇだろうが!」
低い、低い声。
それに、男はひっと息を飲む。
アネットは剣を少し動かして、凄むような表情を浮かべた。
そして、一息に言う。
「どっちが悪ィかなんか、ガキが考えたってわかるだろッ!
今すぐ失せろ!消し炭にされてぇか?!」
大きな声で吠えるアネット。
普段は決してそこまで口が悪い方ではない彼。
珍しく思いきり暴言をはいたのは、ひとえにこれが、
ハイドリヒのための突撃だからだろう。
その気迫に押されたように、男は慌てて離れた。
両手をあげて、ハイドリヒから、アネットから離れる。
そのままアネットから一定の距離をとって、彼は逃げ出した。
アネットは暫しそちらを睨んでいたが……
「……ふぅ」
小さく、息を吐き出した。
どうせ逃げたって追っ付き他の騎士が向かってるから無駄だけどな、と呟く。
そして、アネットはゆっくりとベッドに倒れたままのハイドリヒに歩み寄った。
そのままそっと、ハイドリヒに手をさしのべる。
そして、彼が手をとると、優しく彼の体を抱き起こした。
「大丈夫か、ラインハルト」
そういいながら顔を覗き込むアネットを、ハイドリヒは見つめる。
揺れる、揺れる、青色の瞳……
暫し黙りこんだままだった彼だが、やっとのことで掠れた声を洩らした。
「何、で……?」
何で。
何で、助けにきたのか。
ハイドリヒのそんな問いかけに、アネットはきょとんとした。
「は?何で、って……恋人助けに来んのは当然だろ?」
あっさりと、アネットはそう答えた。
その言葉にハイドリヒは大きく碧い瞳を見開いた。
その青い瞳が、みるみるうちに涙で潤んでいく。
ぽたり、ぽたり。
雫が落ちたそのタイミングでアネットは大きく目を見開いた。
「な、何で泣くんだよ……
!ど、何処か痛いのか?!何かされたのか?!」
焦った顔をしてそう訊ねるアネットに、ハイドリヒは首を振って見せる。
何処も痛くない……
否、さんざん無理をさせられて体はぼろぼろなのだけれど、今痛いのは体ではない。
「ちが……っ」
首をふりながら、違うとハイドリヒは言う。
違う、違う。
何処も痛くない。苦しくない。
嬉しくて、切なかった。
アネットが躊躇いなしに"恋人"といってくれたことが。
しかし、そんな言葉はどれひとつとして声になってくれない。
涙が落ちて、嗚咽がこぼれる。
アネットは暫しそんな彼を見つめていたが、
そっとそんな彼の金髪を撫でて、いった。
「……ごめんな。本当は、もっと早く助けに来るつもりだったんだけど」
そういってすまなそうに微笑むと、助けに来るのが遅くなった理由を説明した。
***
ハイドリヒが帰ってこなくなってすぐ。
無論、その事は騒ぎになった。
捜索も行われて、ある程度の検討もついた。
その先……つまりハイドリヒを監禁していたあの男の経歴を調べた結果、
ハイドリヒが何故拐われたのかもわかった。
あとは、突撃の許可が降りるまでまつだけ、となったが……――
おとなしく待っていることができなかったのは、アネットだった。
アネットの気質、そしてハイドリヒとアネットの関係を知っている上官たちは、
きちんと許可がとれるまでは待機、外の任務にもいってはダメだと言いつけていた。
アネットが勝手に暴走することを恐れて、だ。
待てない、待っていられない。
愛しい彼が、どんな目にあわされているかもわかっているのに、
おとなしく城で待っていることなんて、出来るはずがない。
それでイライラしている彼に、一人の仲間がいった。
「放っとけば良いんじゃねぇのか。なるようになるだろ」
「は?!何、いってんだよ……!」
同僚の言葉に、アネットは怒りの表情を浮かべる。
しかし、アネットの反応を見てその騎士は溜め息をひとつ。
そして小さく肩を竦めると、アネットに諭すようにいった。
「お前が探しにいってやる筋合いねぇだろ」
その言葉に、アネットはいっそう大きく目を見開いた。
その表情は、みるみるうちに険しくなる。
そして、彼は同僚に、噛みつくようにいった。
「……っ、んなわけねぇだろ!?ラインハルトは俺の……」
「お前の、なんなんだよ」
「ッ!」
同僚の言葉にアネットはぐっと言葉をのみこんだ。
彼はお前の何なのか、と。
ハイドリヒに関する噂は、未だに消えていない。
流石に助けにいく必要がないという騎士はいなかったけれど、
こうなったのも自業自得なのではないかと言う声は、ちらほらあがっていた。
アネットはそんなことをいっている騎士を片っ端から殴り倒してはいたけれど……
面と向かってこういわれると、思わず反撃の拳を失う。
アネットの同僚は、半ば同情したような表情でアネットを見つめた。
そして、静かに諭すような声で言う。
「……やめとけって。お前、遊ばれてんだよ」
アネットが仕事でいない間に他の男と"遊んでいる"彼。
本気ではないのだろう、と言うのが周りの認識だった。
だから、やめておけと。
そんなに必死になって探しにいってやるほどの人間ではないだろう、と。
アネットはそんな彼の言葉に俯いた。
固く拳を握りしめて、震える。
どれくらいそうしていたか……
そんなタイミングで、アネットは不意に、呟くような声を洩らした。
「……てても」
「は??」
怪訝そうな声をあげた同僚。
アネットはさっと顔をあげる。
そして、同僚を見て、きっぱりと言いはなった。
「遊ばれてても良いよ!俺は……っ」
そういうと同時、アネットは部屋を駆け出していく。
その後ろ姿に灯る覚悟が、決意が、彼がこれからとろうとしている行動を予感させた。
「あ、っ!?馬鹿アネット!」
アレク様に叱られるぞ!と、アネットに怒鳴る彼の同僚。
アネットが何をしようとしているのかは、簡単に想像がついて……
でも、アネットはそう呼び止められても、止まらなかった。
そのまままっすぐに、大切な恋人の元へと走ったのだ。
***
そんな彼の言葉に、ハイドリヒは言葉を失った。
彼が無茶をする気質であることは知っていたけれど、まさかそこまで……
自分のためにそこまでしてくれるとは思っていなかった。
何を言えばいいのか、わからない。
そう思っているうちに、アネットがぎゅっと抱き締めてきた。
久しぶりに感じた、優しい、気遣いを込めた抱き締め方だった。
「俺、良いよ。たくさんいるなかの一人でも、構わないんだ」
遊ばれてても、いい。
たくさんいるなかの一人でもいいから、傍にいさせて……?
アネットはそういいながら、ハイドリヒを抱き締める。
そんな彼の言葉に、ハイドリヒはゆるゆると首を振った。
「違う、違うんです、アネットさん」
「違う?」
少し、ハイドリヒを抱き締める腕を緩めて、アネットは問いかける。
ハイドリヒは嗚咽を噛み殺して、こくこくと頷いた。
「違う……いっても、信じてもらえるかはわかりませんが……
私、が、本当に好きだと、思うのは……っ」
ほんとに一番好きなのは。
助けてほしいと願ったのは。
こうして抱き締めてほしいと願ったのは……
貴方だったのだ、とハイドリヒはアネットに言う。
涙声で、途切れ途切れにそういうハイドリヒ。
アネットはその言葉を静かに聞いていた。
「ごめん、なさ……っ、でも、でも、私は……っ」
ぎゅ、とハイドリヒはアネットに抱きついた。
その華奢な腕が震える。
そのまま、ハイドリヒは震える声で、嗚咽混じりにいった。
「好き、です……好き、なんです、アネットさんのことが……っ
本当に、好きで……だから……ぁ」
だから。
嫌わないで、離さないで。
怖かった。
見捨てられることが。
こうしてきてくれたのが、恋人だといってくれたのが、ほんとに嬉しかった……
泣きながらそういうハイドリヒ。
アネットはそんな彼の背中をそっと擦りながら、いった。
「ん……大丈夫だよ。大丈夫」
信じてるから、とアネットは弱い声で言う。
正直、全面的に信じろと言われたら、無理だ。
信じたいと言う思いは先行するけれど、全てを手放しに信じることは……
出来そうにない。
けれど、だからといって全面的に彼のことを疑う気はない。
彼の涙は優しく、暖かかったから……――
アネットは暫しそうしてハイドリヒの背中を擦り続けていた。
今までの恐怖と、こうしてアネットが助けに来てくれたことに対する安堵。
そして、そんなアネットに対する愛しさと申し訳なさ……
それを胸に泣き続けるハイドリヒだったが、
しばらくアネットに抱き締められていると、落ち着いてきたようだった。
アネットはそれを見て少し微笑むと、"ラインハルト"と、声をかける。
びくり、と彼の肩が跳ねた。
怯えたような目が、アネットの方を見る。
大丈夫だとアネットはいっていたけれど、
やはりいい加減に見限られたのではないかと言う思いがあるのだろう。
アネットは彼がそう思っていることを感じ取ってか、
安心させようとするかのように微笑んで、いった。
「帰ろう。な?」
アネットがそういうと、ハイドリヒはこくりと頷いた。
まだ少し、怯えたような表情で。
アネットは優しく彼の金髪を撫でると、視線を彼の首に、そして足に向けた。
首輪と足枷。それをそっと撫でて、アネットは言った。
「ごめん、ちょっとこれは取れそうにねぇから……このままだけど」
城についたら外してもらおう、とアネットは言う。
彼は細かい魔力の調整や力の調整が出来ない。
強引に外そうとしたら痛い目にあうのはハイドリヒだから……
アネットはすまなそうにそういう。
ハイドリヒもそんな彼の思いがわかっているから、こくりと頷いた。
「えぇ……」
そして、そのままベッドから立ち上がろうとするが……
アネットがそれをとどめる。
そしてにこりと微笑むと、そっとその柔らかな髪を撫でて、いった。
「良いんだよ。ラインハルト。おんぶしてくから」
「え、でも……」
「やだ。歩かせねぇよ」
問答無用、と言うようにアネットはハイドリヒに背を向けて、しゃがむ。
ハイドリヒは暫し、その大きな背中を見つめていた。
そのままの格好でいたアネットだったが、
一向にハイドリヒが乗ってこないために、怪訝そうな顔をして、振り向いた。
「……?なに、どうしたんだ?ラインハル……」
言葉は、途中できれる。
その理由は、ハイドリヒがアネットの唇を奪ったから。
「ん、……っ」
ハイドリヒからキスをすることは、あまりなかった。
だからか、アネットは驚いたように固まっている。
暫し舌を絡めてから、ちゅ、と軽いリップ音を立てて、唇を離す、ハイドリヒ。
アネットは彼の顔を見つめて、"ラインハルト?"と名前を呼ぶ。
ハイドリヒはそんな彼の顔を見て、表情を歪めた。
優しく、暖かい彼。
こんな無茶をしてまで自分を助けに来てくれた、彼。
きっと、帰ったら怒られるだろう。
どんな罰則があるか、わからない。
でも、そんなものをすべてかんがみないで自分を助けに来てくれた彼……
愛しい。
彼をまっすぐ愛せない自分が憎い。
さんざん汚された醜い自分が彼の傍にいることを望む浅ましさが憎い。
そんな思いを胸に、ハイドリヒは詫びる。
「ごめん、なさい……アネット、さ……」
「何で謝るんだよー?大丈夫だよ、ラインハルト」
子供を宥めるように、アネットはそういう。
ハイドリヒはそんな彼の肩に顔を埋めて、暫く声を殺して泣き続けた……
***
泣き疲れて眠ってしまったハイドリヒをおぶって、アネットは帰路につく。
眠った彼を起こさないように気を付けながら、歩いていく。
「……俺が一番、か」
アネットはそう小さく呟いた。
ハイドリヒが泣きながら訴えたこと。
貴方が一番だ、と言う言葉。
「ラインハルト……俺、信じてるから」
ずっと、とアネットは呟く。
その言葉に応えたように、アネットの首に回されたハイドリヒの腕の力が強くなった。
アネットはそんな彼の腕の暖かさを感じて、微笑む。
そして、前を見て小さく溜め息を吐き出した。
「帰るの、憂鬱だなー……アレク様に怒られるだろーなぁ……
でも、まぁ、いいや……ラインハルト、連れて帰ってこれたし」
自分はどんな罰則を食らっても。
構わない、気にしない。
それくらい……ハイドリヒが愛しいから。
ゆっくり歩く、道中。
アネットの背中で揺られるハイドリヒは、何度も何度もアネットの名前を紡いだ。
その声の隙間隙間に嗚咽を混ぜて、ごめんなさいと詫びながら……――
涙がこぼれる。
愛しい、愛しい、アネット。
貴方のことを大切にできなくてごめんなさい、と。
アネットはその声を聞きながら、悲しげに表情を歪めた。
謝らなくてもいい。
でも、きっと謝らずにはいられないのだろう……
「こんな関係で、いたいわけじゃないのになぁ……」
そう呟いた声は、静かな空に消える。
アネットはそっと、愛しい人の体を背負い直しながら、ゆっくりと歩き出した。
―― Only… ――
(一番大切な人。かけがえのない人。
唯一無二の、愛しい人なのに……)
(俺は、良いんだよ。
お前のなかで、特別であればそれは嬉しいけれど…)