肌寒い風が服用になり始めた、秋の終わりの放課後……
校舎をでた生徒たちから小さく声があがる。
そんな中に彼もいた。
「寒いな……」
小さく呟いてふうっと息を吐き出しているのは黒髪の少年。
癖のある黒髪がふわふわっと吹いてくる風に揺れる。
ここ数日で一気に気温が下がった。
昼間はまだ良いが、行きや帰りはやはり寒い。
上着の前をかきあわせつつ、歩きだそうとしたとき。
「あれ……」
ちょうど門の方へ歩いていく生徒の波の中に、
自分達とは明らかに違う制服姿の女子生徒の姿が見えた。
制服は見慣れたものであり、その後ろ姿にもやはり見覚えがある。
ヒトラーは少し早足になってその生徒に追い付いた。
隣にならびかけた時に相手の方が気づいて、ヒトラーの方を見た。
少し驚いたように見開かれる、サファイアの瞳。
やはりそれはヒトラーもよく知った、
交流学習でこの学校を訪れることがある亜麻色の髪の少女で。
「ヒトラー、久しぶりだな」
そういって彼女は微笑みらしきものを浮かべた。
表情が顔に出づらいタチらしい彼女の表情変化はごく僅かで、
ヒトラーでも気づきにくいものではあるのだけれど。
「あぁ、久しぶり……珍しいな。フィアが此処にいるのは」
ヒトラーは亜麻色の髪の少女にいう。
彼女の兄の姿は良くこの学校の図書館付近で見かけるが、
彼女……フィアがこの学校に来ているのは珍しい。
フィアはあぁ、と声をあげてからいった。
「クラスメイトの手伝いでな。此方の生徒会に少し用事があって」
ちょっと来ていたんだ、とフィアはいう。
その言葉にヒトラーは少し不思議そうな顔をした。
「クラスメイト?」
「あぁ、シストだ。お前はあまり関わったことがなかったか……」
ヒトラーは少し考え込んでから頷いた。
確かに、あまり関わったことはない。
だが顔はわかる。
長い紫の髪を背に流したアメジスト色の瞳の少年だ。
「彼は生徒会役員だったか?」
「いや、違うよ。彼奴は雑用に使われてるだけというか……」
そういってフィアは苦笑した。
"損な性分だよな"と呟いている辺り、恐らくよくある事態なのだろう。
ヒトラーが記憶している限りでも、あの少年は大分人が良さそうだった。
頼まれたことを断れないタチなのだろうな、と思ってヒトラーも笑っておく。
「それで、何故フィアが手伝いを?」
「あぁ、彼奴もうすぐ部活の大会でな……
そんなときに主将が抜けたら部もしまらないだろう?」
「あぁ、なるほど。それで代わりに、ということか」
そういうことだ、とフィアは頷く。
そして小さく首をかしげ、今度は彼女の方からヒトラーに質問した。
「ヒトラーは今帰りか?クビツェクは?」
「あぁ、今日は公演前の練習でホールにいくとかで…そこで待ち合わせようと思って」
先に帰っていてもいいよ、と言われているのだが、ヒトラーはせっかくだし彼が練習しているところまで迎えにいこうと思っているのだった。そう答えるとフィアは納得した顔で頷いた。
「ホールっていうと……あそこか。
俺の家の方向も同じだし……一緒にいっても良いか?」
「あぁ、構わない」
帰りがけに話し相手がいるのといないのとでは体感時間も違う。
基本的に女子と話すのが得意な方でないヒトラーではあるが、
フィアがやたらサバサバした性格だからか、あまり苦手意識もなく話せる。
それにフィアも決してお喋りな方ではないし、趣味もあう。
ヒトラーの承諾にフィアは再び軽く微笑んで礼をいった。
***
そんなこんなで二人は一緒に歩いていった。
どちらかといえば文化系である彼らは話も合い、
音楽や美術の話をしつつクビツェクたちが練習しているというホールに向かう。
「あれ?お前……」
その道中でフィアは誰かに声をかけられてそちらを見た。
そこにたっていたのはフィアたちの学校の制服を来た男子生徒の二人組だった。
ヒトラーはきょとんとしてフィアに声をかける。
「フィア?」
「あぁ、クラスメイトだ」
知り合いか?という意味合いのヒトラーの問いかけにフィアは頷く。
小さく"あまり話したことないけどな"と呟いたのがヒトラーには聞こえた。
どうやら彼女も積極的に周りとコンタクトをとる性格ではないらしい。
「何でお前がそいつと一緒にいるんだ?」
訝しげな……というよりは、少々の悪意を含んだ声で少年はいう。
ヒトラーは明らかに彼らの視線が自分を向いていること、
彼の発言から感じる悪意が明らかにヒトラーに向いていることを感じ取っていた。
正直慣れていた。
自分は"アドルフ・ヒトラー"だから。
同じ学校内では皆フラグメントであるために気にかかりづらい事だが、
こうして外で、"そうでない人間"と関わるとどうしてもこういう事態は発生する。
だから、慣れていた。
一切辛くないといえば嘘にはなるし、
改めて自分が"何者であるか"を知らしめられるが……
しかし、一緒にいた彼女は違った。
少年の言葉に顔をしかめ、静かに、しかし明らかに怒っているとわかる口調でいう。
「なんだその言いぐさは。ヒトラーと私が一緒にいることが何かおかしいか?
帰り道の方角が一緒で話があうから話をしながら帰っているだけだが」
フィアのその言い方には明らかに刺があった。
そんな険のある物言いにもう一人の少年がいった。
「よく平気で一緒にいられるな、と思うだけだよ。怖くねぇの、お前は」
「怖い?何がだ」
「この前世界史でやったばっかりだろ、"そいつ"のことは」
ちらとヒトラーに視線を向けつつ、彼はいった。
少年の言葉にヒトラーは少し身を固くした。
世界史、という単語。
彼らが言わんとしているのは恐らくオリジナルの"アドルフ・ヒトラー"のことだ。
そういった授業で習う彼ら……
"フラグメントでない人間"の、自分に対する評価や捉え方は……
ある程度、理解している。
教師がどういう教えかたをしたかは知らないが……
少なくとも、擁護するような授業をする教師はこの世界にあまりいないだろう。
フィアはわざとらしいほど盛大な溜め息を吐くと肩を竦めて少年たちを見た。
その表情には明らかな軽蔑の色が灯っている。
サファイアの瞳はこれでもかというほどに冷たかった。
「そういう意味か。……馬鹿馬鹿しい。
了見の狭い貴様らに相手をしていること自体が下らん」
その言葉で少年たちの表情がひきつったのがわかった。
どうやらプライドの高いタチらしく、"了見の狭い"という言葉が引っ掛かったようだ。
フィア、とヒトラーは軽く彼女の制服を引っ張る。
もういいからやめろ、というように。
男子生徒が女子生徒にする挙動ではないような気もしたが、
そうしないとフィアは止まらない気がして。
しかしフィアはヒトラーを片手で制してきっぱりといった。
「何が悪い。お前らは直接ヒトラーに何かをされたことがあるか?」
「そ、れは別に……」
「ヒトラーは私の友人だ。
下らんことでいちゃもんをつけて彼に不快な思いをさせることは許さん」
行くぞヒトラー、と颯爽と歩きだしたフィア。
ちょっと待て、と少年の一人が強引にフィアの腕を引っ張った。
頭に血がのぼると物事を考えられなくなる人間というのはどうしてもいるもので、
どうやらこの少年はそのたちらしい。
もう一人の少年が"おいやめろ!"と叫ぶも、
お構いなしに自分より頭一つ分背が低いフィアの胸ぐらを掴みあげようとした。
女性相手に何をするつもりだこいつ、とヒトラーも思ったその刹那。
フィアの胸ぐらをつかもうとした少年の体が綺麗に一回転した。
そのまま地面におとされる。
フィアが着地寸前にぐいと相手の服を引っ張っていたため、
背中を強打はしなかったようだが。
呆気に取られる一同の前でフィアは吐き捨てるようにいった。
「なめるな。伊達にカフェで同僚の護衛(ボディガード)をしているわけじゃない」
フィアは息をはきつつそういった。
受け身のとれる体勢でおとしただけ手加減、といったところだろう。
そのまま今度こそフィアはさっさと歩きだす。
ヒトラーは慌ててそれを追いかけた。
***
「フィア、あんなことをして……平気なのか?」
少し彼らから離れたところでヒトラーはフィアに訊ねた。
あの様子からして恐らく怪我はしていないだろうが……
もし喧嘩したとかと言われ、休学になったりしたらあまりにいたたまれない。
原因が自分にあると思っているだけ、ヒトラーの表情は心配そうだった。
しかしフィアは小さく笑って、ヒトラーにいった。
「あれで先生に言いつけるぞ、等と小学生並みのことをしたら、
それはそれでお笑い草だな。
やれるものならやってみればいい。
女相手に不意打ち食らわせようとして失敗して返り討ちにされた、と
告げ口できるものならな」
"お前なら出来るか?"とフィアは含み笑いつきで訊ねる。
ヒトラーは即刻首を振った。
そもそも女性(否、男性でもだが)に手をあげるような真似はしないため、
前提として考えにくいのだが……
今フィアがあげた通りのことを教師に告げ口する勇気がある男子生徒は、
おそらくそうそういないだろう。
フィアは小さく鼻を鳴らしていった。
「手を出されたら出し返すまでだ。やられっぱなしは性に合わん。
まぁ……今のは、反射的に自己防衛が働いたのもあるけど」
手を出されてから仕返すのも馬鹿みたいだったしな、とフィアは呟く。
男らしいというか何というか、だ。
ヒトラーは思わず苦笑する。
彼女らしいな、とは思う。
以前もカフェのバイトを手伝ったときにナンパされているのをフォローしてもらった。
……何となく男として情けない気はしたが……これも彼女の個性だろう。
と、フィアは溜め息をはいて、いった。
「……フォルの気持ちがわかった気がするな」
「え?」
ヒトラーは少し驚いた顔をしてフィアを見る。
一体どうしてこのタイミングで彼の兄の名前が出るのだろう、と。
フィアは決まり悪そうに視線を逸らして、
"彼奴も同じことをしたらしい"と呟いた。
「彼奴の場合は喧嘩した相手が教師で、授業をエスケープしたらしいけどな。
多分、原因はスターリンに関することだろう」
ヒトラーは瞬きを繰り返した。
確かに、フォルはやりかねない。
彼がスターリンのことを大切にしていることは、ヒトラーも気づいている。
……恐らく、ヒトラーとクビツェクが互いを思うのと同じ感情を抱いて。
フィアもそれに気づいているのだろう。
ヒトラーは隣を歩いている自分より背の低い少女を見て、声をかけた。
「フィア」
「なんだ」
「……ありがとう」
ヒトラーは小さく、彼女に礼をいった。
怒ってもらえるようなことでないのに。
自分が"ヒトラー"であるのに代わりはない、
あの少年たちのいう事ももっともなのに。
流してくれても良かったのに。
そう思ってしまうのは自分本意で考えられない、彼の性分だろう。
フィアは礼をいうヒトラーをちらと見て照れ臭そうに頬を赤く染めると、
"別に、思ったことをいっただけだ"と何ともそっけない返事を返した。
「ほら、いくぞ。そろそろクビツェクたちも終わる時間だろう」
照れ隠しのようにそういって歩く速さを早めるフィアにおいていかれないように、
ヒトラーは慌てて足を進めつつ、小さく笑った。
―― You are my friend ――
(彼らの言葉を聞いたとき、少し傷ついた顔をしただろう?
"友人"を下らない理由で傷つけられるのは気にくわないからな)
(妙に男らしくてしっかり者の少女。
庇われたのは少し情けなかったけれど…嬉しかったのはきっと事実で)