ある日の放課後のこと……
長い黒髪の少年……ヒトラーは校門の前に佇んでいた。
放課を告げるチャイムがなってから十五分。
一緒に帰る親友を待っている彼の携帯が震えた。
画面を確認すれば、メール一件の文字。
差出人は待ち人である彼……クビツェクで。
部活が入ってしまったから先に帰ってくれても構わない、と言う旨のメール。
ヒトラーは待っているから大丈夫と彼に返事を返して、小さく息を吐いた。
「図書館にでも、いようかな……」
急いで帰らなければならない用事はないし、
出来ることならばクビツェクと一緒に帰りたい、と思いながら、
ヒトラーは何処で時間を潰そうか、と思案する。
とその時、ちょうど門の前を見慣れた姿の生徒が通りかかった。
亜麻色のショートヘアにサファイアブルーの凛とした瞳の女子生徒……
それは幾度か交流授業やその他で会話をしたことがあるフィアで。
彼女は携帯を見て、小さく溜め息を吐いていた。
ヒトラーが見つめていることにも気づかない。
少し怪訝そうな顔をしつつ、ヒトラーは彼女を呼んだ。
「フィア?」
「え?あ、ヒトラー」
声をかけられて初めて気がついた、といった様子のフィアを見て、
ヒトラーは小さく首をかしげる。
「どうかしたのか?」
元々彼女は活発なタイプでは無さそうだったが、何だか困っているような様子で。
現に今、ヒトラーの学校の前まで来ていたことにも気づいていなかったようで、
"あぁ、お前の学校だったか"と呟いたほどだ。
かなりぼんやりしていた様子。
ヒトラーの問いかけにフィアは少し視線を彷徨わせた。
いうか言うまいか、といわんばかりに暫し沈黙した後、彼女はいう。
「あ、いや……大したことじゃないんだ。
今からバイトなんだが、バイト先の人間がちょっと足りないみたいでな……
友達にも頼んだんだが、今部活も忙しい時期だろう?
うまく手伝いを見つけられなくて」
なるほど、とヒトラーは納得して頷いた。
フィアが責任感の強いタイプであることは、
ごく数回しか交流したことがないヒトラーでもわかっていた。
恐らく、手伝いを見つける、と店の人間に約束してきたのだろう。
それで、上手く手伝いが見つからずに途方にくれていた、といったところか。
ヒトラーは少し躊躇ってから、口を開いた。
「私が手伝おうか」
「え?」
フィアは驚いたかおをしてヒトラーを見る。
ヒトラーは風に揺れた髪をそっとかき揚げながら、言う。
「私もちょうど、グストルの部活が終わるまで待っていようと思ったし……
その間だったら手伝える。此処から店が遠くなければ、だが」
あまり遠くだと、クビツェクを逆に待たせることになってしまう。
しかしそうでなければ手伝えるぞ、とヒトラーはいった。
フィアは何度かまばたきをして、いった。
「いや、此処からすぐ傍の店なんだが……本当に大丈夫か?
もし、本当にヒトラーが大丈夫だというのなら……手伝ってもらえると、ありがたい」
すまなそうな顔をするフィアにヒトラーは微笑んで頷いた。
元々周りの役にたてるなら、と立ち回るタイプの彼だ。
女子であるフィアが働けるような場所ならば、さして肉体労働ではないだろうし、
多少の接客くらいならば自分でも出来るだろう、と思って。
フィアはヒトラーの表情を見て、ほっとしたような顔で
"ならば、よろしく頼む"といった。
***
フィアがヒトラーをつれていったのはヒトラーの学校のすぐ傍のカフェだった。
お洒落な雰囲気の店で、感じが良い。
ちょうど時間が時間だけに、店内はかなり賑わっている様子。
しかし人手が足りない、といっていたフィアの言葉通り、
店内にいる店員の数は客の数に比べて少な目だった。
あれでは立ち回るのも大変だろう。
「店員はこっちからだ」
「あぁ」
ヒトラーはフィアにつれられて、裏口から店の中に入る。
恐らく店員のものであろうロッカーが並んでいた。
制服でも入っているのだろうか、とヒトラーはおもった。
彼をつれてきた本人、フィアはきょろきょろと辺りを見渡して、
誰かを探している様子。
漸く目当ての人間を見つけたのか、フィアはあっと声をあげた。
「伯母上!」
フィアが声をかけたのは恐らくこの店のオーナーと思われる女性。
黒髪に淡い紅色の瞳をした女性は誰かに似ていた。
呼び止められて振り向くと、彼女はフィアを見て目を細めた。
「あら、フィアちゃん。そっちの子は……?」
「他校の友人です。
事情を話したら手伝ってくれると……」
「あらまぁ、本当?」
女性は心から嬉しそうな顔をして、ヒトラーの手をとった。
にこり、と笑って自己紹介をする。
「私はイブ。イブ・ラフォルナ。
このお店のオーナーをしてるわ。
ごめんなさいね、いきなりお手伝いをしてなんてお願いをしてしまって」
「ラフォルナ……」
そのファミリーネームをきいて、
そして先程フィアが彼女のことを"伯母上"と呼んだことを総合して、
ヒトラーは納得した顔をした。
道理でどこか見たことがあるような顔だちだと思ったわけだ。
ヒトラーも何度か交流したことがある少年……ルカの母親らしい。
ならば名前を名乗っても大丈夫だろうか、と思いつつヒトラーは口を開いた。
「……アドルフ・ヒトラーです」
イブと名乗った女性は一瞬大きく目を見開いた。
一瞬やはり驚かせてしまっただろうか、と様子を窺うような表情をしたヒトラーだが、
イブはすぐに明るく笑って、いった。
「あら、貴方が?
ルカに聞いてるわ。話に聞いていた通り綺麗な子ね!」
イブは笑顔でそういう。
思わぬリアクションにヒトラーはフリーズだ。
綺麗な子、と言う評価を与えられることはしばしばあったが、
"聞いていた通り"とはいったい。
ヒトラーはフィアに視線をやり、
"お前の従兄は親に私の事をどう紹介したんだ"と聞きたげな顔をした。
フィアは小さく肩を竦めて、自分のロッカーの方へ向かう。
そしてイブに声をかけた。
「伯母上、制服は貸出しできるものがありますよね?」
「えぇ。予備のものがあるわ。
フィアちゃん、着替えてきて頂戴?
準備ができたら今日はヒトラー君と一緒に接客その他の仕事を頼むわ」
「わかりました」
フィアはそういうと更衣室の方へ消えていった。
さて、とイブはヒトラーの方に向き直る。
暫しじっと彼を見つめていた彼女は"ねぇ、ヒトラー君"と声をかける。
ヒトラーは赤い瞳を瞬かせ、"なんでしょうか"と首をかしげた。
「制服のことなんだけど……」
イブはそういって、微笑む。
彼女が差し出したものを見て、ヒトラーは大きく目を見開いた。
「な……」
思わず言葉を失う。
彼女が手に持っていたのは、フィアが持っていたものと同じ制服……
つまるところ、"女性用の"制服だ。
「こっちの服の方が似合いそうなのよねぇ」
「え、え……?」
似合いそう、と言う言葉にヒトラーは完全に困惑。
そういう問題じゃあないといってやりたいが、相手は大人。
しかも一時とはいえ雇い主である。
「ね、我儘をもうひとつ聞いてちょうだい?」
笑顔でウインクなんかされては、断るものも断れない。
ついでに彼女はルカに似ず(?)かなり強引なタイプと見える。
ヒトラーは小さく頷いて制服を受け取った。
「着替えてきました……って、えぇ?!」
フィアはヒトラーの姿を見て、驚きの声をあげた。
先程イブに渡された制服を身に付けたヒトラーは顔を背ける。
「……伯母上」
「可愛いでしょう?ウェイター服より似合うと思って」
「そういう問題じゃあないでしょう!」
フィアの的確な突っ込みにヒトラーは苦笑。
彼女が突っ込んでくれたことがせめてもの救いである。
ちなみにイブはどこ吹く風。
"皆も忙しそうだから早く入ってあげて?"と言う笑顔で一蹴。
フィアは小さく溜め息をはくと、ヒトラーを見た。
「……すまない、行こうヒトラー」
こうなったらイブが折れないことを知っているらしい。
ヒトラーも何となくそれを理解したため、苦笑ぎみに頷いたのだった。
***
―― それから、数分。
「いらっしゃいませー、ご注文はお決まりでしょうか?」
ヒトラーは精一杯に笑顔を浮かべつつ、背客をする。
ちょうど時間が時間と言うこともあって、店は大盛況。
くるくるとカウンターとテーブル、キッチンを行き来する店員たちの足取りはせわしない。
「可愛いねぇ、新人さん?」
「え、あー……」
声をかけられて、ヒトラーは困惑した顔をする。
にこにこと笑っているのはいかにも軽そうな男性だ。
こういったカフェで女性客や店員を口説くのが趣味、といったところか。
とりあえずヒトラーは逃げ腰。
彼はこういったことに耐性がない。
ついでにいうなら、相手は完全にヒトラーのことを女だと思い込んでいる。
まぁ、女性用の制服を着ているのだから当然なのだけど。
「お仕事終わるの何時?」
「あの……」
ヒトラーが困惑した声をたてたとき。
ぐい、と肩を強く引かれるのを感じた。
振り向けばそこにたっているのは亜麻色の髪の少女で。
「お客様。此方の店は女性を口説く飲み屋ではありません。
店の子や他のお客様に迷惑をかけるようであれば、今すぐお帰り願います」
笑顔でそういうフィア。
しかし、目は少しも笑っていない。
正直、かなり迫力がある。
男はたじろいで黙りこんだ。
フィアはそんな男を一瞥すると、ヒトラーを連れて引っ込む。
「ありがとう……助かった」
ヒトラーはほっと息を吐いて、礼をいう。
フィアは小さく手を振った。
「気にしないでくれ。アレは私の仕事だし」
「え?」
彼女の言葉にヒトラーはきょとんとする。
フィアはフッと笑って、いった。
「ああしてちょっかいを出してくる輩もいるからな。
そういう時におい払うのは私の仕事なんだよ。
男がやると喧嘩になりかねんが、私はこれでも女だからな……
下手に殴ることもできないだろうし、ちょうどいいんだよ」
そういうフィアはなんだか勇ましい。
ヒトラーは苦笑してもう一度礼をいった。
フィアは亜麻色の髪をかきあげて、ヒトラーにいう。
「あと少しやったら休憩入れるから……行けるか?」
「あぁ」
「また何かあったら呼んでくれ。傍にはいるから」
フィアはそういって、ヒトラーから離れていく。
ヒトラーも小さく息をはくと、接客に戻った。
***
あっという間に時間は過ぎる。
大分人の波も途切れてくるようになってきたところで、
フィアが"休憩入りますー"と声をあげた。
ヒトラーの手を握って、店の裏に引っ込む。
ヒトラーは休憩用の椅子に座って小さく息を吐いた。
流石に少し疲れたな、と思ってうつむいていると……
「ヒトラー」
フィアに声をかけられてヒトラーは顔をあげた。
彼女は心底申し訳ない、と言う顔をしつつうつむいている。
「……すまない」
恐らく、ヒトラーの格好のことをいっているのだろう。
その格好の所為であれからも結局何度かからまれたし。
ヒトラーは苦笑を浮かべて、首を振った。
「気にするな……」
当然恥ずかしいし、動きづらいしで大変ではあるが、
手伝うと引き受けたのは自分なのだから仕方ない、ともはや開き直っている。
……開き直らざるを得ない、というのが正解だが。
あとは、知り合いが来ないことを願うばかりである。
「……?どうした」
ふとフィアが自分をじっと見つめていることに気づいて、ヒトラーは訊ねる。
声をかけられてはっとしたフィアは慌てて首を振った。
「な、何でもない!すまない!」
唐突に謝るフィアにヒトラーはきょとんとする。
何を謝っているんだ、と言うヒトラーの問いかけにフィアは首を振って、顔を背けた。
小さく息をはいて、"本人に言えるはずがないだろう"と呟く。
正直……見ていて、思ったことはといえば。
女性用のカフェ制服を着ているヒトラーに違和感がない、と思ったのである。
可愛らしい制服が女性客に人気のこの店。
少し短めなスカートや控えめなフリルのついたブラウス。
明らかに女性らしい制服なのだが、それを身に付けているヒトラーに違和感はない。
長い黒髪や美しい紅色の瞳。
街行く人に訊ねれば、皆が美人だと答えるであろう容姿。
決して人懐っこいタイプではないがそれはフィアも同じ。
あれだけ男性客に絡まれるのも納得がいく、というのが正直なところである。
こんなことを言えばヒトラーが気を悪くするであろうことは想像がついたため、
おとなしく口をつぐんで、思ったことは胸に秘めるにとどめたが。
「クビツェクの部活は何時くらいに終わるんだ?」
フィアは話を逸らすべくヒトラーにそう訊ねた。
ヒトラーは携帯を見て、"五時半頃だそうだ"と答える。
先程メールが来たときにちらりと確認して事情を説明してある。
気を付けてね、と返事があったのはほんの少し前のことだ。
「そうか。
なら、私と一緒に五時に上がろう」
「あぁ」
あともう一頑張りだな、と微笑むフィアにヒトラーは頷き返す。
短いスカートを翻して二人は接客に戻っていった。
―― Pretty boy&girl ――
(下手をしたら私より可愛いんじゃないか?
そう思ったのは秘密と言うことにしておこう…)
(思わぬ展開と思わぬ格好
開き直る敷かなかったけれど不安が軽減されたのは友人が傍にいたからか…)