お姉さんと話した翌日。捻挫に響かない簡単な仕事を任されていた俺は、その晩正式にバイトとして雇ってもらえる事になった。気持ちが持ち直した分だけ仕事に集中できたのがプラスに働いたらしかった。
 夕食後、宛てがわれた部屋に戻りヒビキと二人して手持ちを出してのんびりくつろいでいると、襖の向こうからコトネが「入っていい?」と尋ねてきた。

「い〜よ〜」
「お邪魔しま〜す」

 のんびりと答えたヒビキの隣で、咄嗟に俺は悪戯心を出し、羽織っていたカーディガンを手早くはだけ、胸の前で手をバッテンに交差させた。そしてコトネが入ってくると同時に言い放つ。

「いやん、コトネちゃんのエッチ!」
「え? え? わわ、ごめんなさい!!」

 一瞬フリーズしてから大慌てて後ろを向いたコトネ、その足元ではマリルたちがきょとんとして、俺とコトネを交互に見た。出ていこうとしたコトネだったが、ヒビキがぶふっとが吹き出したのを聞きつけて、冗談だったと理解するとへにゃりと表情を崩した。

「も〜、びっくした〜! 着替えてるとこ入っちゃったのかと思ったじゃない」
「そこは俺がセクシーすぎてドキっとした、じゃないの?」

 うっふんとセクシーポーズを取ってついでにウィンクするとコトネは「え、え?」と繰り返しながらコメントにつまり、それを見ていたヒビキはまたぶふんと吹き出して「セクシーすぎるよリョウくん」と笑った。

「あ、もう! リョウくんってば、そんなにからかうとアイスあげないよ!?」
「ごめんなさい、コトネ大明神様。どうかお恵みくださいませー」

 ははーと大げさに平伏して見せると、コトネは「や、そこまでしなくてもあげるよ、冗談だからね!?」と焦って訂正してきた。だから俺は驚いた顔を作って言ってやる。

「コトネちゃん……」
「え? なに?」
「俺を騙したのか!?」
「ええ!? えっと、えっと、そんなつもりはなかったんだけど、ごめんなさい」

 沈痛な面持ちで俺は首を降る。

「コトネちゃん……知っててからかっただけだよ」
「ああーもう! そんな気はしてたの! でももしかしたらって思って謝ったのにー!」

 終始見守っていたヒビキは茶番の終わりに遠慮無く笑った。コトネは反応がいちいち新鮮で面白くて、ついからかいが長くなってしまう。
 ヒビキがコトネの分の座布団を出してやる。コトネがいつでも遊びに来れるように、この部屋の座布団は三枚ある。
 当然のように座布団へ腰を下ろしたコトネは棒付きアイスを配った。四月ももう終わりとは言えまだアイスには早い気もするが、礼を言って受け取る。マリルは持ってきた籠を床に置いて、その中身をポケモンたちに配り始めた。それをミミロルとピチューが手伝う。その様子は手馴れたもので、コトネの手持ち3匹普段からポケモンたちの世話をしているのが見て取れた。
 引き寄せた屑籠にアイスのパッケージを捨てる。目の覚めるような水色のアイスは、名前こそちょっと違うが完全にガリガリくんだ。味もしっかりソーダ味である。

 とりとめない会話が心地よく空間を満たす。ヒワダの宿泊施設で一緒になった時と同じ、穏やかな時間が戻ってきた。ここ二日は俺が落ち込んでたのもあり、どうにも会話に乗れずにいたから、随分気まずい思いをさせたんじゃないかと思う。それを謝ろうかと思って、結局取りやめる。むし返すのは得策じゃない。落ち込んでた理由も話せないしなあ。
 ヒビキは外見に似合わず、いや、ある意味似合ってるんだが、物を食べる時は黙りがちになって一心不乱にがっつく癖がある。そして気づけば俺と話していたはずのコトネもペロリと平らげているのが常だ。

 二人が食べ終わると、不自然に会話が途切れた。コトネがどこか緊張した面持ちをしている。俺はゆっくりとアイスを食べて、急かさずに言葉を待ってみる。視線を彷徨わせて切り出し倦ねていたコトネが、意を決したようにひたと俺を見据えた。

「あの、あのね、リョウくん」
「うん、なに?」
「あのね、名前、呼び捨てにしない?」
「呼び捨て? いいけど、どうしたんだ、突然」
「ううん、ずーっと考えてたの。呼び捨ての方がいいかなって」
「そっか、コトネちゃんが好きなように呼んでよ」
「コートネー、伝わってないぞー」
「う、やっぱり? わたしもそんな気がしてたの」

 困ったように眉尻を下げたコトネの言葉を、ヒビキが引き継いで口を開いた。俺は残りのアイスを大口で始末する。口の中が冷えすぎて若干痛くなった。

「リョウくんにもさ、呼び捨てにして欲しいんだ」
「ん、なんで?」
「やー、だって、こないだ、森で呼び捨てにしてたじゃん?」
「え? あれ、そうだっけ?」

 言いながら俺は本当に驚いていた。全然記憶になかったからだ。でも、なんとなく呼び捨てにした理由はわかる。心の中ではいつも呼び捨てにしているから、うっかり呼び捨てにした事があったのだろう。

「いつ? 何時何分地球が何回回った時に呼び捨てにしたっけ?」
「ええ!?」

 この返しを予想してなかったらしいコトネは驚いて質問に答えるどころではなくなったようだが、ヒビキは笑いながら口を開いた。

「あはははは。ええとねえ、こないだはこないだだよ」
「ううーん……記憶にございません」
「もう、冗談はやめてよ」
「いや、冗談でなく」

 冗談を引っ込めて聞き返すと、ヒビキが少し困ったように、遠慮がちに言った。

「祠で争った時」
「えー……覚えてないわ。ごめん」

 呼び捨てにしたこと自体は思い出せなかったけど、納得した。多分、切羽詰ってて、それでつい心の声が漏れてしまったのだろう。

「覚えてないって、本当に? 冗談じゃなく?」
「やっだなー、コトネちゃん。流石にここまでシツコく嘘はつかないよ、今はね」
「ううーん、信用ならない」
「なんだと! そーいうこと言ってるとコトネちゃんが俺の着替えのぞきましたっていいふらしちゃうぞ」
「やー! 絶対にやだ! ていうかまず覗いてないし!!」
「見たいなら脱ぐよ?」
「いらない!! リョウくんの変態!!」

 むーっと本当にむくれてしまったコトネにごめんからかいすぎたと謝ると、じっとりと睨まれた。本気じゃなさそうだから全然焦りはしないけど。

「えー、覚えてないんだ……」
「えーと、覚えてなくてごめん」

 ヒビキがしょんぼりした風情で残念そうに言うから、なんとなく罪悪感を刺激されてしまった。ええと、なんか、期待に添えなかったのはわかるんだけど、何を期待されてたんだろうか。

「聞いていいかな。なんでそんなしょんぼり?」
「えー……いいや、言わない」
「ええー、気になるんだけど。教えて、ヒビキ先輩!」
「先輩も今日ばかりは教えませーん」
「ケチ! 子犬!」
「子犬ゆうな!」

 間髪いれずの否定に俺はちょっと笑いそうになった。子犬呼ばわりがイヤって事は、きっと誰かに何度か子犬呼ばわりされたんだろう。揶揄うネタ増えたな。

「まーいいや。で、呼び捨てのがいい?」
「うーん、いいっていうか、楽って言うか」
「楽?」
「うん、わたしは殆ど皆呼び捨てにしてるから、なんか、敬称付けたり付けられたりより呼び捨てのが、自然かな」
「そっか、じゃあ呼び捨てにしようか」
「うん」

 コトネはにかんだような笑みを浮かべた。ころころ表情が代わるから見てて飽きない子だ。

「ヒビキくんも、呼び捨てでいい?」
「ん、んー、別に今まで通りでもいいよ。リョウくんが呼びやすいようで」
「じゃあ子犬で」
「却下!!」

 どこか浮かない顔をしていたヒビキに真顔で提案してみると光速で却下された。
 そのままいつものくだらないじゃれあいになって、呼び名の話はうやむやに流れていってしまった。





 電気を消して布団に入った所で、俺はもう一度ヒビキに聞いてみる事にした。理由はわからないままだったけど、だいぶがっかりさせたみたいだったから気になっていた。

「ヒビキくん」
「んー?」

 布団に入ったヒビキはかなりのスピードで眠ってしまう。応えてくれた声も既にどこか不明瞭で、目をじた横顔は今にも睡魔に連れ去られそうな印象だった。

「蒸し返して悪いんだけどさ、なんで落ち込ませちゃったんだ?」
「ん……? なんの話?」
「呼び捨ての話」
「ああ……うーん、もういいんだ、気にしないで」
「そう? その、がっかりさせてごめんな。それだけ、謝らせてくれ」

 腹にヒノアラシを乗せたヒビキは、顔だけこちらに向けてきた。豆電球の薄暗い中でも、その表情が眠そうなのがわかった。

「……あのね、なんか、嬉しかったんだ」

 その言葉でなんとなく察せた。呼び捨てが嬉しかった、だから俺が呼び捨てにしたことを忘れていたのにがっかりした、って事かな。一応確認するか。

「呼び捨てが?」
「うん」
「悪い事した」
「ううん……僕が勝手にそう思っただけだから。本当は、呼び方なんてどうでもいいんだ」
「んん?」

 矛盾してね? そういう意味を込めて眉を顰めると、ヒビキは顔を正面へ戻して目を閉じて、どこかバツが悪そうに言った。

「どんな呼び方だって、関係が変わるわけじゃないのに……だから、僕こそごめんね」

 ……本当に子供か? と思った。がっかりした後で、呼び方なんてどうでもいいと、そんな事で拗ねて関係を壊すことないと、思い直したのだろう。自分の希望を押し込めたばかりかこっちを気遣ってくるなんて。

「いや、俺ががっかりさせたのは事実だし。それに、ヒビキくんの言いたいこと、わからないんじゃないんだ。ただ、そういう感覚、忘れてたから気付けなかった」

 ヒビキがまたこちらを向いた。その顔からは少しだけ眠気が飛んでいて、俺の言葉の意味を測りかねているようだった。

「呼び捨てって、仲良しな感じするもんなあ、ヒビキ」
「……うん。お休み、リョウ」
「ああ、お休み」

 安堵したからか、返答は眠気に負けてだるそうな、でも嬉しそうな声だった。それはすぐに寝息に変わる。俺の腹の上でもそもそとイーブイが起き上がって顔の近くに移動してきたので、その背中をなでてやる。気持ちよさそうに鳴るくるくると言う音を聞きながら、俺はいつのまにか遠くに追いやっていた感覚を思い起こしていた。
 呼び捨てにするのはどこか特別だと思う。ともすれば横柄さにも繋がるけど、親しさの現れにも繋がるから。そういう事をこっちの世界に来てからはすっかり忘れていた。いや、俺は一時的にここにいるだけで、いつか居なくなる人間で、友達付きあいも一時的なものだと思ってた。それにどこかでヒビキを、ゲームのキャラクターとして見ていたのかもしれない。ダブルスタンダードや二律背反と言った言葉が、きっと今のおれにはとてもお似合いだろう。小さな事でさえ、甘えや矛盾を自覚させるきっかけに満ちている。
 例えこの世界から俺がいつか居なくなるとしても、ヒビキたちにはそんなの関係ない。俺にとってはゲームに酷似した不思議な異界だけど、ここは紛れもなく現実。皆この世界で一人の人間として心を持って生きてる。それを、俺はきちんと認識しないといけない。ゲームに似てるからって侮ってはいけないんだ。

 そんな事を考え出すと眠気はどこかへいってしまって、目を閉じても全然眠れない。不安があると眠れなくなるのはよくある事だ、仕方ない。誰にも気づかれないよう、そうっとため息を逃がした。