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二十日 煩わしいリーグ本部

 白くけぶる山の連なりを望みながら、暖かいリザードンの背に跨(またが)って青空の中を翔ける。眼下に広がるのは、道幅の広い一本道である23番道路。青々と茂った緑がポケモンたちの姿を覆い隠し、澄んだ青色の湖面はきらきらと日を照り返し、時折ポケモンらしき影が身をくねらせている。長く変化に富んだ道路、そのところどころに構えられた有人ゲートを八つ数えると、そこからは深い森が地上を覆う。人を拒むほど険しい難所を内包する森の下には、チャンピオンロードと呼ばれる広大な洞窟が隠されている。
 その森はやがて広大な草原に取って代わられ、洞窟もぽっかりと地上へ口を開けている。その洞穴(どうけつ)の目と鼻の先に、巨大な建築物が存在していた。煉瓦の赤を基調として白煉瓦や大理石で白く化粧した瀟洒(しょうしゃ)なそれが、今や多くのトレーナーが憧れる場所、ポケモンリーグ本部。

 磨き上げられた正面玄関の手前には広々とした庭園が広がっている。四季折々の花が咲き乱れる美しい庭、その一角には、空を越えた来訪者のために発着場が作られている。その石畳の上へリザードンは降り立ち、背から赤い上着の少年、レッドが軽やかに降りた。
 彼は僅かに微笑んで、ここまで運んでくれたリザードンの首を優しく撫で「ありがとう」と礼を述(の)べた。リザードンもその手を心地よさそうに受け入れて嬉しそうに目を細めた。
 リザードンをボールへと戻し、代わりにボール嫌いのピカチュウを出す。ぷるぷると首を振ったピカチュウは、外に出られたのを喜ぶようににっこりと愛らしい笑顔を見せた。

 木々に囲まれ木漏れ日の踊る遊歩道を進み、リーグの正面玄関へ続く石畳へ出る。道の両脇では勇ましい表情をしたポケモン像たちが通行人を見守っている。
 ざあざあと梢(こずえ)を大きく鳴らしながら風が吹き抜ける。平地でも暑さが和らぎ始めた今時期、高原であるここは山から吹き降ろす冷風もあってとても過ごしやすい。ひっそりと木陰に設置されたベンチに腰掛ければ、すぐにでも微睡(まどろ)みを楽しめるだろう。弁当や遊び道具を持ってピクニックへ出るのもきっと楽しい。レッドがすでに持っているポケモンしか釣れないだろうが、この心地よさを楽しむためなら漫然(まんぜん)と糸を垂(た)らすのだって悪く無い。
 避暑地に最適な気候を惜しみながら、レッドは無粋な冷房のかかる室内へ入った。途端(とたん)に足は速まり、小柄なピカチュウが小走りになるほどの速度となる。あからさまに先を急ぐ様子を見せながらロビーを突っ切ろうとしていると、聞き落としようがないほとはっきりと「レッドくん」と朗らかな声が呼び止めた。
 レッドの表情が僅かに険しくなった。しかし振り返った時には既にいつもの無表情で、にこにこと明朗そうに笑う壮年の男を迎えた。男は水色のシャツに紺色のネクタイを締め、薄い灰色の夏用スーツを着こなしている。つま先から頭の天辺まで隙なくぴしりとしたこの男を、レッドは苦手に思っていた。

「いやあ〜、久しぶりだねえ、元気にしてたかな?」
 挨拶を皮切りに男の口は、蛇口を捻ったようにじゃばじゃばと言葉を垂れ流した。レッドの気乗りしない様子など目に入っていないかのように。これは、リーグ本部を訪れたレッドにとって恒例となっていた。
 この男はレッドの無愛想にも無口にも怯まず、辟易(へきえき)した様子も一切見せずに話しかけてくる。そしてレッドの短い返答にも負けずに次々と話題を出してくる。男から逃れる術(すべ)を思いつかないレッドは、毎回こうして捕まっていた。そうして今回ももたもたしている内に、同じ話題を切り出されてしまった。
「レッドくん、グリーンくんには会ったかい? ……そうか、最近は会ってないんだね。どうだろう、今度は君がここで、挑戦者として現れるグリーンくんを待つと言うのは」
 レッドは一番最初にグリーンに勝った時から、この男にチャンピオンの座を勧められていた。それでも前に訪れた時はまだ良かった。グリーンがまだチャンピオンの座に居てくれたから、断るのは簡単だった。
 しかし強化したパーティでもレッドに負けたグリーンはとうとうチャンピオンの座を返上し、今や旅の空の下だ。常々レッドがチャンピオンにふさわしいと言って憚(はばか)らなかった男は、ここぞとばかりに空席を埋めて欲しいと強い調子で言う。

 この男からの評価を、レッドは疎(うと)ましく思っていた。チャンピオンになると言う事は自由を奪われるのと同義だ。以前はそこまで考えが至っていなかったので、なんの覚悟も決めずにチャンピオンを目指していた。そして、チャンピオンになってしまった。
 チャンピオンになれば、バトルに今の仲間を出してやれなくなる。強化前のレッドに勝てる挑戦者が現れて初めて、今のベストであるこのパーティで迎え撃つことが許される。旅も自由にできない。まだまだこの仲間と冒険したい、まだまだやりたいことに溢れている。だからチャンピオンの地位に煩わされるのは嫌だった。

 無言を貫いて嫌だと意思表示をする。そんな態度は子供っぽいとわかっていても、口の上手い男を相手にどう言えば断れるのか、レッドにはわからなかった。
「そうだ、今から食事に行こう。ちょうどシンオウのチャンピオンが来ているから、彼女と一緒に。あちらの珍しいポケモンを連れていたよ」
 手を取ろうとする強引さに、レッドは首を振って「用事があるので」と素直に答えたが、男は用事を察して「四天王はもう誰も君には勝てないだろう?」と返してきた。面倒くさい男に捕まるかもしれないと知りながらもここへ訪れたのは、ワタルにバトルへと誘われていたからだったが、そんな事情など男はお見通しだったらしい。

 苦手な相手に加えて初対面の女性と食事だなんて、聞いただけでうんざりとする。レッドの断りを翻(ひるがえ)させようとするしつこい男に、首をふって後退(あとずさ)った。
「ピカチュウ、いくよ」
「ピッカー!」
「おおい、レッドくん?」
 張り上げられた声は無視した。踵(きびす)を返しても目的地などない。とにかく、煩わしい男の居ない場所ならばどこでもよかった。
 失礼します、と、背中ごしに一応は別れの挨拶を残し、強引にその場から離脱してそのまま洞窟へと逃げ込んだ。チャンピオンロードは熟練のトレーナーでも準備無しに入れはしない場所だ。野生では高レベルにあたるポケモンたちが数多く出現し、トレーナーの行く手を阻む。おまけにポケギアや携帯電話の電波が極端に悪い場所なので、リーグでそこそこの地位にいるらしい男は仕事中にここへは踏み込めない。
 何よりここには強さを求めるトレーナーたちが待ち構えている。チャンピオンだとか、それに纏(まつ)わる権利だとか、そういうものを考えずに純粋にバトルがしたかったレッドは、ランニングシューズでわざと音を立て、自分の居場所をアピールしながら奥へ奥へと潜っていった。





 長い洞窟の終わりを告げるのは、チャンピオンロードの入り口、23番道路へ繋がる洞穴(どうけつ)。それを目にした途端、レッドの心には不安が浮かんだ。男がもし空を飛んで追ってきたら……。
 仕事中なのだからリーグ本部から離れないだろうとわかっていても、もしもの想像は止まらない。嫌な事柄だからこそ、思考はネガティブへ傾き、溜め息ものの想像を掻き立てた。
 思考に気を取られ注意力が欠けた状態でも、彼の耳は草むらで何かが動いた音を拾った。すわ野生のポケモンかと、道路の両脇を覆う森へ素早く視線を走らせる。その視線の先、木々の間にどろりとした目の警備員の青年が真顔で立っていた。

「こんにちは、レッドくん」
 気持ちの悪い目をした人物が可笑しな場所に現れたのでぎょっとしたが、青年は笑うと朗らかな雰囲気を纏(まと)った。異様さを醸(かも)し出していた目も生き生きとして、先ほどのは見間違いだったのかと思うほどだった。
(なに、この人)
 劇的な表情の変化に戸惑うと同時に、突然なんの用だ、と警戒するレッドの前へ彼は進み出た。そして警戒心など気にした様子もなく、にこやかに話しかけてきた。
「一度だけ会ったことがあるんだけど、覚えてない、よね」
 言われた通り、覚えのない顔だった。しかしこんな場所で会う警備員だ、予想は付く。
「……ゲートの、どこかで?」
「そう! グリーンくんが通った時も驚いたけど、立て続けに君が訪れた時もすっごく驚いたんだよ。遅くなったけれど、リーグ制覇、おめでとう」
「ぁ……ありがとう、ございます」
 顔すら覚えていないのだから、当然こんな雑談を交わすような間柄ではない。この人は僕にいったいなんの用事だろう、そんな困惑と警戒心がレッドの口を重くする。
「突然驚かせてごめんよ。でもチャンピオンにも勝った君に教えたいことがあったんだ。シロガネ山って知っているかい?」
 目の前の青年に色々と引っかかりを覚えていたレッドは、戸惑いながらも頷いた。シロガネ山はテレビで何度も見たことがあった。カントーとジョウトの間にある雪山だ。
「じゃあ、シロガネ山に続くゲートは知ってる?」
 初耳だ、と首を振る。
「本当は正式にチャンピオンにならないと登れない場所なんだけど、何度もチャンピオンに勝ってる君なら大丈夫だと思うから、内緒で案内してあげるよ」
 突然に開けた新しい場所への道に、レッドは目を輝かせた。何故なら現状に不満を感じていたからだ。

 チャンピオンとしてリーグに居て欲しいと言われるのが窮屈(きゅうくつ)で仕方ない。街を歩いていて、チャンピオンだから、と勝負を申し込まれるのも嬉しくない。チャンピオンを倒せば有名になれるなんて、そんな下心で挑まれるのが悲しい。勝負を挑みに来て負けて、なのに「チャンピオンと戦ったなんてそれだけで記念だ」と喜ぶのが腹立たしい。
 レッドは、ポケモンが好きで、バトルが好きで、仲間たちと力を合わせてもぎ取る勝利が好きだった。そんな自分の“好き”を突き詰めた結果がチャンピオンだった。しかし上り詰めた地位が煩わしさを与えて来るようになった。
 仕方のない事だと頭では分かっていても、心が納得しなかった。こんなつまらない日々のためにチャンピオンになったのではない。
 とにかく図鑑を集めるまではとカントーに残ってはいるが、ナナシマで見た他地方のポケモンたちに心惹かれているのが正直なところだ。新たな出会い、新しい戦術、まだ見ぬトレーナーたち。それから、あまり期待はできないが、行方不明になっている従兄弟の足取り。
 不意につきんと頭痛が走って、耐え難い痛みに目を細めた。頭痛とは幼い頃からの付き合いだが、旅に出る少し前から特に酷くなり、時に思考を邪魔してくる。

(いたた……あれ、何を考えてたんだっけ……そうだ、新しい場所)
 新たな地方は新しい可能性に満ちて、心を躍らせる。まだそこへは行かないと自分で決めたものの、退屈さと不自由さに不満は募る一方だ。そんな日々の中で不意に開かれた新しい場所への道は、他の地方でなくとも、レッドの心を躍らせるに十分だった。
「あはは、目が輝いてる。行きたいんだね?」
「はい」
 こっちだよ、と緑をかき分けて森へ入ってゆく背中に、レッドはようやく疑問を感じた。
「森を通るんですか」
「うん、正規の道を通ると他の人にバレちゃうから……さっきも言ったけど、内緒なんだよ」
 振り向いて悪戯を企む子供のように笑ってみせる彼に頷き、後に続いて隠されていた細い道へ踏み込む。元々細い獣道がさらに廃(すた)れたような、辛うじて残っているそれは、元獣道と言った方がしっくりくるシロモノだった。
 廃れた道を通って、こっそり、秘められた場所へ忍び込む。これをレッドは悪い事と思っていなかった。実力さえあれば秘められた場所へ行っても大丈夫だ、と無意識の内に思っていた。以前、ロケット団と言うマフィアに占拠されたヤマブキシティへ侵入し、街の開放へ大きく貢献(こうけん)した経験が、彼を大胆にさせていた。

 そんな少々世間とはずれた彼でも、青年については違和感を持っていた。青年の後ろをぴたりと進みながら、最初に感じた疑問を口に乗せる。
「なんで、森の中にいたんですか」
「実はレッドくんが本部で話していたのを見ていたんだ。それでチャンスだと思って追ったら、洞窟に入って行ったから。きっとこっちで待ってれば出てくると思ってね。でも日向(ひなた)だと暑いから木陰(こかげ)で涼んでたんだ」
「なぜ、そこまでして待ってたの?」
 湧き上がった不信から投げかけた疑問に、警備員は「実は」と前置きをして話し始めた。
「頼みたいことがあって……本部に勤めていると、俺みたいな警備員でもシロガネ山へ入る機会があるんだ。その、以前入った時に大事なものを落としてしまったんだ」
「それを取ってきてほしい?」
「そう! 是非とってきて欲しい!」
 振り返って「頼むよ」と手を合わせる警備員に、レッドは頷いた。それくらいならお安い御用だ。
「なにを落としたの?」
「とても、大事なもの」
 内緒で案内して取ってきて欲しいと頼むくらいだから、大切なのは納得できた。が、レッドが聞きたかったのはそういった内容ではない。
「……形とかは?」
「丸い鏡。落すとしたら、祠のあたりだから。もしかしたら、掃除した時に祠の中に落としたかもしれない」
 このくらい、と両手を合わせたより一回り大きいくらいの輪を作って見せた青年にレッドは頷いた。
「……あの、あなたの名前は?」
「ああ、名乗りもせずにごめんね。ツグ、って言うんだ。後を継ぐ、のツグ。よろしくね」
 彼は人懐こい好意的な笑顔を見せた。フレンドリーな態度にレッドは僅かに口元を緩め、言葉少なに頷きを返した。
「……こちらこそ」

 やがて二人は森を抜け、明らかに人の手が入っている太い道へでた。そこもまた生命力溢れる緑に侵食されつつあるが、むき出しの土は歩きやすいよう固められ、道の両脇には雨の逃げ道が作られている。今も人の手で整備され続けている道路だった。
 緩やかな坂を少し登り、石で作られた階段を上がると直ぐにゲートが見えた。ゲートは古臭さも使用感も感じられない。秘された場所へ続くゲートである事と、トレーナー向けのタウンマップに載っていない事を合わせて考えれば、訪れる人の少なさが想像できた。
 しかし手入れは行き届いており、周囲の緑に侵食されず小綺麗な外観を保っていた。道と同様に整備され続けているのが見て取れる。
 ガラス製の自動ドアの前に立てば、使われる機会も少なそうなそれが、健気にも人を感知して開いた。

 内部は街の出入り口などに良くあるタイプの有人ゲートだった。十字路の形で各方面へ伸びる通路は広々として、手入れが行き届いているのはもちろん、やはりここも使用感がなかった。汚れを落すために設置されている玄関マットには汚れなど見当たらず、休憩用に設置されたベンチは傷ひとつない。
 手垢の一つもない案内板には、東西南北にそれぞれカントー(22番道路)・シロガネ山(山道)・ジョウト(26番道路)・チャンピオンロード(試練の道)、と書かれている。

 そこまで見て、レッドは素直な所感(しょかん)を口にした。
「こっちの方がゲートらしい」
 23番道路とチャンピオンロードの境目には、洞穴の手前に取って付けたような白い門があるだけだ。こちらの方がよほど、リーグへ向うゲートとして見栄えが良い。
「あはは、あっちは急いで作られたからね。もちろん手抜きなんかしてないけど、新たにこんな豪華なゲートを整える時間はなかったんだよ」
「……」
「こちらはシロガネ山へも通じている。人が簡単に通れるのはまずいって、今の23番道路が整備されたんだ」
「……すごく無駄だ」
「全く君の言う通り」

 肯定するツグに、レッドは少し呆れていた。
 ゲートの警備員はツグのように、時にこうして独断で人を通してしまう。不法占拠されていたヤマブキでも、レッドの他にグリーンも侵入していた。レッドが知らないだけで他にも誰か入っていたかもしれない。
 それを考えれば、こちらのゲートが使用されていないのも頷ける。本当に人を入れたくないのなら、ゲートを設(もう)けるより道を作らない方がいい。既に道があるなら、封鎖してしまえばいい。
(そんなのは作る前から分かってただろうに。なぜ無駄な物を作ったりするんだ? なんだっけ、建設業者と偉い人のユチャク? ってやつ? なのかな。全然意味わかんない)
 新古となっているゲートの綺麗な内装に、レッドは冷めた目を向けた。

 正式に稼働していればドアの数だけ配備されていただろう警備員は、今は目の前の青年たった一人。その濃紺の背中の向こうで自動ドアが開くと、高原のものよりも涼しい風が吹き込んできた。
「さあ、いってらっしゃい。よろしく頼むよ」
 首肯(しゅこう)したレッドに、青年は期待に満ちた笑顔で手を振った。

夢見る人

 瞼(まぶた)の裏が明るい。今まで眠っていたんだ、と自覚した。ああ、いい夢を見ていた。幸せな夢だった。
 体は未だ休息を求めて動かず、ふわふわと心地よい微睡(まどろ)みが意識を溶かそうとしている。だめだ、目を開けなければ。話したいことがある。
 違う、話さなきゃいけないことがある。
 ん? 違う、俺が話したいだけで、別に話さなきゃいけないなんてことは……ない、よな? あれ、どうだっけ?

 うとうとと、意識が微睡みに負けそうになる。
 いや、負けていたと思う。自分では途切れなく思考を続けていたつもりだったけど、きっと眠気に負けて、途切れ途切れに考えていたいただろう。
 そんな事に考え至れるくらい眠気から脱して、俺はようやく瞼を上げることに成功した。

 眩しいやら、眠いやら。重たい瞼は細くしか開けない。そんな朧気(おぼろげ)な視界いっぱいに、見覚えのあるゴーストの、ユカリの顔が広がっていた。大きな目がじいっと見つめてきてる。なんで、そんな心配そうな顔をしているんだ?
「……ぉ、し……」
 どうしたの、そんな顔して。何を心配してるの。
 そう聞いてやりたかったのに、未だ夢現を彷徨(さまよ)う体は重く、唇も持ち主である俺のいう事を聞きゃしない。
 もっと眠気を押しやろうと思っているのに、気づくと瞼が落ちている。誘惑上手な睡魔が、こっちこっち、身を委ねてみて、とても心地いいでしょう? と絶え間なくおいでおいでをして、俺を絡めとろうとしている。ううう、こんなに思考できてるのに、話すことさえ難しいなんて、どういう状況なんだ。

 何度か睡魔に袖を引かれた後、重たい腕をなんとか動かした。ユカリが手を繋いでくれると、そこからほんのり暖かさが伝わった。
 あれ、俺、手冷えてる? ゴーストタイプの子は、基本的に人間より体温が低いから、こんな風に感じるなんて変だな。……ああ、だからユカリは心配そうだったのか。

「……ぃ」
 ユカリ、大丈夫、ちょっと冷えてるだけだよ。どこも悪くはないよ。
 そう伝えたいのに、口も声帯も仕事をしてくれない。
 ああ、たくさん話したいことがあるのに。
 なあ、いい夢を見たんだ、すごく、いい夢。懐かしいくて暖かい思い出。それの最後に、懐かしい俺の弟がここへやって来るんだ。おかしいだろう、ここへは来れないのに。でも、俺を訪ねてくれるんだよ。懐かしい弟に再会するなんて、いい夢だろ?

 俺は締りのない顔で笑ったのだろう。ユカリの顔がふと緩んで、優しく笑った。ユカリ、これを教えたらきっとお前はもっと笑うよ。
「ぅ……と……ふもと……れっどが……」
 俺を訪ねて来る。
 幸せな気分に浸ったまま、辛うじてそれだけを伝えた。

前日譚 三月のある日

 ヤマブキからセキエイに移転されたポケモンリーグ本部、社員食堂。昼時を過ぎて人のまばらな一角に、五匹のポケモンに囲まれた青年が陣取っていた。彼の名前はカンジュ。この春からポケモンリーグで四天王の一人を務める予定のポケモントレーナーだ。
 瑞々しい見た目通り実年齢も若く、先月十八歳になったばかり。容姿は至って普通で、特徴と言えば明るいオレンジの瞳と遊び心をもってセットされた短めの癖っ毛ぐらいの、どこにでも居る若者だ。しかし食事を取る姿勢は正しく、箸を運ぶ手も丁寧で育ちの良さが伺える。そんな態度が、彼を実年齢より上に見せていた。
 周りのポケモンも行儀の良いことに鳴き声ひとつ上げもせず、良く躾けられているのだろうと思わせた。非常に落ち着いた雰囲気で、彼らの昼食は粛々と進む。
 そんな喧騒とは程遠い空間に、扉が開かれた音は良く通った。ちらりと視線を向けた彼の視界に、同じ年頃の青年の姿が映る。

 入ってきたのは、逆だった赤い髪にマント姿が特徴的な青年。彼の青年を、ドラゴン使いのワタルを知らぬ者などこのリーグにはいない。なにせ珍しいドラゴンタイプを三匹も従え、並み居るトレーナーを倒し、若干十八歳で堂々と四天王のリーダーの座に着いたのだ。 今をときめくトレーナーは誰かと聞かれれば、大多数が一番に彼の名前を上げるだろう。

 肩で風を切るようにして颯爽と歩く彼は、近寄り難(がた)い雰囲気を纏(まと)っていた。話せば気さくな人物なのだが、堂々と自信に満ちた歩き方は威圧感を感じさせ、ついでに目尻のつり上がった三白眼は睨みつけているように見えてしまう。
 一匹のカイリューを連れた彼は大所帯で食事を取っている青年を見つけ、快活な笑顔を見せて軽く手をあげた。すると雰囲気がガラリと変わった。もう爽やかな好青年にしか見えなくなる。
 そんな彼にカンジュは控えめに微笑み、やはり控えめに手を上げて応えた。
 元気がないとも取れる様子に、ワタルは一瞬だけ観察するような視線を送った。が、立ち止まることなく食堂の一番奥へ向う。設置されている電子レンジへ辿り着くと、片手にぶら下げていたビニール袋から取り出した二段重ねの弁当を温め始めた。

 それを目で追っていた青年は箸を置き、紙ナプキンで口元を拭いながら口の中のものを飲み込む。そして弁当を温め終えたワタルが振り返った瞬間、いきなりバッと両手をあげ満面の笑みで両手をブンブンと音がしそうなほど振り回し始めた。唐突かつ子供っぽい彼の様子にワタルは苦笑いを浮かべ、カイリューと共にカンジュの元へ向った。
「やめろよ、下らないのに笑っちゃうだろう」
「よっしゃ、俺のしょーり!!」
 友人への悪戯の成功を喜んでニカッと笑えば、彼の雰囲気は非常に砕けたものになり、年相応……むしろ幼く見えた。悪戯しようという発想もだが、なによりそれを実行する無邪気さが幼さを醸(かも)し出している。

 仲間の昼食の準備のために立ったままのワタルに、カンジュは不思議そうにしながら尋ねた。
「ワタル、今日は修行だろ? 帰って来るの早くない?」
「ああ、用事があって戻ってきた。カンジュはシロガネ山から戻ったところか?」
「いや、今日は俺が当番だから」
 現在、四天王は一人が内勤、他は外勤となっている。つまり本日はカンジュが、リーグ本部の建物内でお偉いさんの奔放な来襲に備える任務に就いてた。
「そうか、お疲れさん」首を回して食堂のカウンター上に設置されている大きな時計で現時刻を確認する。間違いなく十四時半を回っている。
「内勤にしては昼食が遅いな。何かあったのか?」
「あー……えへへ〜」
 カンジュは間延びした声をあげて、明るいオレンジの瞳を泳がせた。緊張感の欠片もない様子に心配ないと察したワタルは、ふっと笑いを漏らし、昼食を取るべく己の仲間をモンスターボールから出し始めた。

「今日暇でさ、折角(せっかく)だから勉強してたんだけど、気づいたら寝てたんだよねー……」
「そんなことだろうと思った。反応だけでわかったよ」
「けへっ」
「ぶっ……君の行動はいつも唐突だな。大体なんだい、その奇声は」
「え、ワタル知らないの? 10年くらい前にやってた、とっとこ走る子供向けのアニメだよ」
「とっとこ走る? なんだそりゃ」
「本気か。俺と同学年だろ、CMくらいは見たことあるんじゃないの?」
「さて、ウチはあまりテレビを見なかったからなあ」
「マジか。ワタルんちって厳しいのか?」
「そうだね。ニュース以外はあまり見れなかったな」
「ふへえ、本当に厳格だなあ」
「そういう君も。食事を取る姿が随分(ずいぶん)と上品だったが?」
「ウチは普通だよ。神社の方がね、食事中は喋んないの」
「神社?」
「修行させて貰ってたんだよ」
「なるほど。それで霊が視えるようになったのかい?」
「逆、逆。元々霊を視る子供だったから神社に預けられたの。霊と普通の人の区別が付かなかったから修行に出されたのさ〜。何もないとこに話しかける人がいたら、見えない人は困っちゃうでしょ?」
「君、今もたまに何もないところ見つめているじゃないか」
「え、そうかな……やばい、自覚なかった」
「そのようだね」

 ワタルは雑談を交わしながら仲間へ食事を配り、自分も席に着いて弁当を広げた。彼らの頂きますを合図に、カンジュもすっかり止まっていた手を再び動かし出す。食堂の職員が用意してくれた同じ内容の弁当を、二人揃って静かにつついた。二人と十一匹という大所帯とは思えないほど、場は静まり返っている。
 BGMはテレビが垂れ流しているワイドショーと、それにかき消されて内容まではわからない社員たちの会話だけだった。
 先に食べていたカンジュたちが食事を終え、ポケモンたちは自分が使った食器を食器かごへ入れた。ポケモンたちは満腹でご満悦そうに、席やカンジュの膝に陣取って思い思いにくつろぎ出す。
 弛緩した雰囲気の中、そのニュースは耳に飛び込んできた。

「続いてはこちら。巷(ちまた)を連日騒がせている凶悪犯。行方不明者に忍び寄る魔の手!?」
 ゴーストのユカリを構っていたカンジュが、テレビへ視線を移す。司会者が概要を話し終えたところで、ちらりとワタルへ視線をやった。それに気づいたワタルは口の中のものを飲み込んでから口を開く。
「あまり、気分が良いものではないな」
「食事時にはねえ。番組選べたらいいんだけどなー」
「ああ」
 ワタルが箸を口に運び沈黙が落ちると、自然とテレビからの音が耳に入る。その内容は、ここ連日、聞かない日はないニュースだった。

 つい先日のことだ、捜索願の出されていた行方不明者の一人が、殺害されていたのが発覚した。新人ポケモントレーナーの、僅か十一歳の少女だ。すでに犯人は逮捕されているものの、余罪の疑いがあって目下警察が総力を挙げて捜査中だ。
 日々進展を見せる事件を、ニュースは特集を組んで連日連夜、喧伝するように報道した。
 被害者の少女が書いた学校の作文、将来の夢や希望、初めてのポケモンを大事にしながら旅立ったと涙する遺族。犯人の非道さを浮き彫りにする情報たちに、理不尽に命を絶たれた彼女の恐怖と絶望を思い、大半の視聴者が心を痛めた。
 そこへ追い討ちをかけたのが、徐々(じょじょ)に判明してきた犯人の情報だった。彼は残虐と理不尽を極めていた。
 彼の殺人者は少女を食べていたのだ。
 動機は、目に付いたから。たったそれだけの理由で何の罪のない少女の命が奪われ、死してなお尊厳を奪われ続けた。
 そしてそのような非道を行った犯人は、精神障害で心神喪失状態にあり、従来の司法ではたいした刑罰に問えないと言う。

 カンジュは最初にこの報道を見たとき、事の大きさに言葉を失ってただ見つめるしかできなかった。今でも報道を見かける度に気が重くなる。まだ幼いと言っていいほどの、未来ある若い命が奪われた、それが心痛を生む。アナウンサーが告げる淡々としたあらましだけでも、目を逸らしたくなるほどだ。
 国民を、特に子供を持つ親を震撼(しんかん)させたこの事件が話題に登らぬ日はない。どう決着しても、この事件が及ぼす影響は大きいだろう。

(この事件は報道すべきことだって、報道は事の重大さを知らしめるためにも必要なことだって分かる。けど、食事時に聞きたい話じゃないな……)
 事件に付いて考えを巡らせるのは大事なことだが、これほど悲痛な事件を受け入れるには心の準備が必要だ、とカンジュは思っていた。この悲惨な事件について、食事ついでに思いを巡らせられる人間がどれだけ存在しているのだろうか。
(痛ましく思うけど、食欲が失せるのも困る。何事も体が資本なんだからさ……せめて食堂くらいは、大半の人が退屈してもいいから時代劇でも流してくれないかな)
 冷静なのか思考の逃避なのか。冷たいとも取れる感想を内心でぼやきながら、テレビから目を離せないでいた。
「……カンジュ」
「……ん?」
「凄く険しい顔になってるぞ」
「うん……ごめん、食事は楽しく取りたいよね、なんか話そうか」
「賛成だ」
 気をそらそうと気遣ってくれたワタルに控えめな笑みを返して、カンジュは今日一日が如何(いか)に暇だったかを話した。
 四天王の出番はリーグが一般に開放されてからなのだが、正式な稼働前の今も誰か一人は本部周辺に居なくてはいけない決まりになっている。正しくは、連絡が取れてすぐ駆けつけられる距離に居ればいいのだが、携帯もポケギアも今はまだ本部から離れると電波状況が不安定なので、結局のところはリーグ本部に詰めているしかなかった。

 やがて、お喋りを交えながらの食事は終わった。食後の茶を淹れながらふと途切れた会話の合間に、ワイドショーがまだ先ほどの事件を掘り下げているのが聞こえてくる。
 それを耳にしながら、ワタルは言い難(にく)そうに切り出した。
「……カンジュ、すまないんだが、君の話を聞きたいと思っていた」
「なんの? って、ああ。あの事件が発覚してから直接会ったのって初めてか。いいけど、リーグに提供した話で全部だよ」
「直接君から話を聞きたかったのさ。悪いが、付き合ってくれ」
「いいよ、ワタルは面白半分じゃないって伝わってくるからね」
 事件について意見を求められることを、カンジュは心良くは思っていない。求められる情報の種類は分かっており、しかし提供出来る情報は不確かなものばかりだからだ。
 だが、友人が真剣に情報を欲しているのであれば、という情を持っていた。

 カンジュは霊能者だ。そしてこの世界には霊が居る、とされている。
 過去に世間を騒がせた事件、公にはされていないが、霊に取り憑かれて犯行に及んだ、という事例もあった。ただ、それを証明するのが難しい。除霊してしまえば霊は居なくなってしまい、状況証拠しか残らない。
 そういった事情があるので、昨今の警察は霊能者や超能力者と協力し、多角的に調査を進める。しかしそれらは公にはされない。霊能力や超能力は、科学と違って信頼を得ていない。サイコメトリーや予知などで得た情報を正しいと証明するのは難しく、事件の全てを明らかにした後に"その情報が正しかった"ことが漸(ようや)く判明するのもよくあることだった。
 なので、それらの能力で得られた情報は"参考程度に留める"というのが現状だった。

「霊能者の間じゃ、怪しいんじゃないかって話は出てる。けど犯人を実際に霊視した人からの情報はない。警察関係の霊能者なら視てるだろうけど、その情報がまだ出回ってないんだよね」
 憑かれていた可能性はある、そんな曖昧な言葉にワタルはしばし考え込んでから、控えめな声量でぽつりと問いかけた。
「……マツバはなんて言ってた?」
「口の硬さを信用して言うけど、オフレコで頼むよ。つっても大した情報ないんだけどさ。視えなかったって、なんも」
 マツバは霊を視ることができるが、今回は何も視えなかった。とはいえ、テレビ越しに犯人の映像を"視た"だけなので、霊が存在しなかったという確かな証明にはならない。
「君も視てないんだったな」
「うん」
「未来視は?」
「してないって。必要なものがないからね」
 マツバの未来視は条件に依って精度が変わるので、条件が揃っていない時は視ない。なぜなら、未来が良いものばかりとは限らないからだ。悲惨な未来を視てしまって体調を崩すこともあるのだから、使用のタイミングは慎重に選ばねばならない。
「俺らの出る幕じゃないってことだろ。特に気付いたこともないしな。今は警察に任せるしかない。悔しいと思うけど、耐えろよ」
「わかっているさ」
 今回の事件、正義感の強いワタルは人一倍憤(いきどお)っていた。

 どこに行ってもポケモンが存在するこの国では、現在、子供の内にポケモンと旅に出るのが推奨されている。ポケモンを旅を通じて成長させ、同時に自身も野生のポケモンへの対処方を実地で学ぶ。
 勿論(もちろん)、ポケモンと旅に出ない人も居るし、昔は特に女子供は旅などしないのが普通だった。しかし近年はトレーナーがブームになって、老若男女関係なく、多くの人が旅立つようになった。旅に出られる年齢も少しづつ引き下げられ、今では十歳以上で学業や職業の免除申請が受理されたら、誰もが旅に出られる。
 今年は特に旅立ち予定のトレーナーが多い。リーグが新しくなったためだ。
 以前は何百人の中から勝ち残らなければいけなかった勝ち抜き性のトーナメントが、四天王と呼ばれるたった四人を勝ち抜けばいいだけになった。それは人々に夢を与えた。
 四天王の情報が出回ればそれを研究し弱点をついて簡単にチャンピオンになれるかもしれない、四人だけなら勝てるかもしれない、最強を名乗る四天王と戦ってみたい。様々な思いを胸に、子供も大人も旅に出ようとしている。

 そんな矢先に起こった衝撃的な事件だったが、人々は旅を中止にはしない。なにせ犯人は逮捕されて、もう害はないはずなのだから。勿論(もちろん)旅立つ人数は予定より減るだろうが、それでも例年より多いと予測されている。
 しかし、もし霊の影響で犯人が犯罪を犯したのなら?
 こんな状態で、犯人を犯罪に走らせた霊が今も野放しにされていたら。
 もし、また残虐な犯罪に子供達が巻き込まれてしまったら。
 己の思考の海に潜って黙り込んだワタルに、カンジュは慰めにもならないと知りながら言葉を掛けた。
「俺らができるのは、目の届く範囲で守ること。リーグ四天王の俺らは他人より影響力があるんだからさ、旅立つ前の子供たちに警告を発することができる。霊うんぬんを抜きにしてでも、警告できれば十分だ。後は、全国に居る警察を信じるしかない。霊能者たちだって、何か異変があれば情報を回してくれる。……できる範囲で頑張ろう。な?」
「ああ……ああ」
 首肯(しゅこう)しながらも納得していない表情のワタルにカンジュは困ったように眉尻を下げて、背負い込みすぎるなよ、俺ら全員で頑張ろうぜ、と励ますように言った。
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