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20日 思いがけない再会(下)

下山を考え出して、はたと思い出した。そもそもここへは警備員の落し物を探しに来たのだ。長らく会ってなかった従兄弟との再会に気を取られてすっかり忘れていたが、約束は果たさなければならない。

「……カンちゃん」

「ん?」

「祠の場所、知ってる?」

「祠? 無かったはずだけど……」

「そんなはずないよ」

「いや、確かだって。そもそも、なんで祠を探してるんだ?」

「前、山に入った人が、その時に大事なものを落としたんだ。それを拾ってきてほしい、って」

無表情に、祠、と呟いたカンジュの瞳が焦点を失った。同時に表情も抜け落ちる。まただ、と思う。まるでスイッチが切れたように切り替わった唐突さと異様な様子に、レッドは言葉もなくただ様子を伺うしか出来なかった。

「……カン、ちゃん?」

「……あ、ごめん、ちょっと、なんかぼうっとしちゃって……ええと、祠についてだったよな?」

「うん。……具合、悪い?」

不意に見せるぼんやりとした様子を心配して問えば、いや、と否定された。

「ああでも、長いこと修行で篭(こも)ってたから、さすがに疲労が溜まってんのかも」

「いつから居るの」

「ん? 春から」

「長すぎるよ!?」

あははと誤魔化すように笑うカンジュに、レッドは顔を顰めた。

「その前はどこにいたの?」

「あちこちで修行を。ごめんな、ずっと帰れなくて」

本当に心配していた、その言葉は飲み込んだ。口下手なレッド一人で叱るより、レッドと母親と父親、揃っている時に叱られた方が身に沁みるだろうと思ったのだ。

「……いいよ、無事だって分かったから。降りれないの?」

「うーん、期間が過ぎるまでは」

「こんなところで倒れたら危ないよ」

「大丈夫、いざって時は仲間たちが運んでくれるし、オカガミ神社の人も来てくれるからさ」

「……そう、言うなら」

「ごめんな、心配してくれたのに頑固で」

首を振ったレッドにカンジュはよい子、と嬉しそうに笑った。

「祠についてなんだけど、基本的にシロガネ山にはない」

「基本的、ってどういうこと?」

「うん。うーんと、オカルトな話になるんだけど、聞く?」

オカルト。たっぷりとした沈黙の中で、レッドはポケモンタワーのガラガラを思い出していた。

「……幽霊、とかの話?」

「うん、そう」

「…………関係あるなら、聞く」

「嫌なら聞かなくても……」

「知らないのも嫌だ」

「わかった、じゃあ簡単にな。シロガネ山にはたまーに悪霊が現れるって言われてる。それが人に危害を加えるような危ないやつで、すっごく強かった場合、祠を作ってそこに閉じ込めるんだ」

警備員の青年の言葉が思い出された。大事な物が落ちているとしたら、祠の付近。もしかしたら、中かも。確かにそう言っていた。

「その祠って、開けて掃除とかは」

「普通の神様の祠ならするけど、悪霊閉じ込めてるからね。絶対に開けちゃだめなんだよ。開ける時は、その悪霊を祓う時だ」

ぶるりと体が震えた。二つの意味で表情が強ばった。攻撃してくる霊が居ると知っている、だから身の危険があった、と理解できた。もうひとつ、友好的に接してきた警備員の、笑顔の下に隠されていた悪意。そのどちらもが怖かった。

「どうした、レッド? 元気なくなったな」

「……なんでもない」

「そうは見えないぞ。……どんな話でも笑わないから、話してみないか」

俯(うつむ)いたレッドの顔を覗きこんで、な、と暖かい声をかけてくる。そのオレンジの瞳に浮かぶ色は昔と変わらず、弟分を心配している。

レッドは迷った。かつて一度だけガラガラの霊を見たことがあったので霊の存在は信じているが、それを口にしたくはなかった。世の多くの人々は霊が見えず、信じてない人も一定数いる。霊なんて頭の可笑しい人が見るものだ、と言う人もいる。

カンジュは神社や山に籠って修行する人なので頭ごなしに否定してくるとは思わなかったが、もし霊が見えることを信じて貰えなかったら……。不安が言葉に蓋をしてしまう。それでもレッドは、恐れたものをひとつだけ吐き出す。

「……探し物を頼んできた人、初めて会ったけど、フレンドリーだったんだ。その人が、笑顔で、落し物したのが祠の近くだって。もしかしたら、祠の中にあるかもって……」

「……それ……そうか、その人がレッドを危ないところに行かせようとしたんじゃないか、悪意を持ってたんじゃないかって思ったのか?」

こく、と頷いたレッドに真剣な顔をしたカンジュが問いかける。

「それを頼んできたのは誰? どういう人か覚えてる?」

「え? えっと、警備員の人で、確か名前は、ツグ」

「それ、その人のこと、下山したら調べて貰った方が良い。俺は下山できないから、神社、はだめか、行ってないんだもんな。……リーグの警備員に、サブチーフのタカシさんって人が居る。その人を、俺の名前で呼び出して貰うんだ。タカシさんに会えたら、オカガミ神社のシンか、トシオさんを呼び出して貰って。カンジュから紹介されました、って。それで来てくれるはずだから」

「う、うん」

「三人の内一人にでも今の話すれば、レッドにそんなこと吹き込んだ人探してくれる、解決してくれるよ」

頷いたものの、許可もなくここへ訪れているのだから、とてもじゃないがカンジュの指示に従うことは出来なかった。ツグは問い詰められれば、内緒でレッドを山に入れた、と白状するだろう。無許可で山へ入ったことがばれてしまえば、ここへ来られなくなる。

「脅すようだけど……繰り返すけど、シロガネ山に登れる人は限られてる。許可が降りても、普通の登山客は祠のことを教えられないんだ。悪霊が出た時にしか祠はないし、祓い終わったら壊される。一般の登山客の目に触れない、普段はない祠の存在を知ってるやつは限られる」

「え……」

ぞう、と背筋が震えた。

「……あの人は、祠がどういうものが知ってて……?」

「気持ち悪い話してごめん。リーグの職員の中には説明を受けてる人もいるから、どっかから漏れたのかもしれない。それに普通は祠って悪霊を封じるんじゃなく神様を祀るためのものだから、神様が祭られてるものだと思っていたのかもしれない。縁起物があるなら欲しい、とかね。その人の真意はわからないよ」

チャンピオンを撃破してからというもの、幾度も笑顔の下に隠された悪意を見てきた。祠へ行かせようとした動機などさして良いものでは無いだろうという思いが過ぎったが、カンジュの慰めには素直に頷く。

「そんな顔しなくても大丈夫。そうだ、お守り持ってるか」

唐突な話題の転換に一瞬なんのことか把握できなかったが、すぐに思い出す。毎年カンジュが送ってくれるお守りは、彼が音信不通になっていた間も母親の手を介してレッドの手元に届いている。

「リュックの中に入ってる」

「それは並大抵の悪霊が寄って来れないって評判のお守りだから、ちゃんと持っとけ」

「わかった」

頷いたレッドは表情を緩めていた。昔、カンジュが旅立つ時に誓った言葉は今でも有効だろうか、とレッドは疑問を感じた。

「カンちゃん、なんで、音信普通になったの」

「……ごめん。修行の間は、ここから動けなくて……長い間、悪かったよ」

「これからは、大丈夫?」

「いや、修行を終えるまでは下山できないから」

「じゃあ、僕がここへ来るよ」

「それは嬉しいけど、大変だろう? それに危ないよ」

「大丈夫、僕だってもうトレーナーだ。いっぱいは来れないけど……」

「ありがとう。……なんのもてなしもしてやれなくて悪いけど、待ってる」

嬉しそうに笑ったカンジュは、またレッドの帽子を取ってくしゃくしゃに頭を撫でた。

「あー、やっぱ家族っていいなあ」

「……ん」

ふへへ、と嬉しそうに笑うカンジュに、レッドもにこりと笑った。

幼いレッドにカンジュが誓った言葉は、今も二人の間にあった。どんなに離れてもレッドたちのことを大切に思ってる。今思えば陳腐で臭いセリフだ。しかし彼はその言葉通り、電話も手紙も良くくれたし、長い休みには帰って来て遊んでくれた。二年前までは。手紙を最後に音信不通になっていたが、その間でも彼の心根(こころね)は変わっていなかったらしい。

「長々と話し込んでごめんな。そろそろ限界だろ」

「そうかも」

髪を整えられ、帽子を被せられながら答える。長い間寒さに晒されていたせいでいまいち感覚が麻痺していたが、話もひと段落した今がタイミングとしても良い。まだ聞きたい事はあったが、明日がある。

「風邪なんか惹かせたらハナコ母さんに二人揃って怒られちゃうからな。下山したらさっさと風呂入って暖かくして、できれば早く寝ろよ」

「……おせっかい……」

「心配なんだよ」

「自分まで怒られるのが?」

無表情にさらりと言えば、カンジュは呆気にとられた。が、すぐにくしゃくしゃな笑顔を見せる。

「ははは、なまいき言うようになったなー!」

「う、わ、やめ、ははっ」

帽子の上からわしわしと、頭がぐらつくほど撫でられて吹き出した。

こうして仲の良い兄弟のように振る舞いながらも、二人は本当の兄弟にはなれなかった。カンジュの優しさの裏にはいつだって遠慮が潜んでいて、感情的に怒鳴り合う兄弟喧嘩に発展したことなど一度もない。レッドも、カンジュが本当の兄ではないと知ってからは遠慮が生まれた。従兄弟だ、と言う思いが二人を兄弟にさせなかった。家族であるのは間違いないのに、どこかで踏み込みきれない。

それをもどかしく思ったこともあるが、今では十分だと思っている。彼はいつだって本気でレッドの心配をしてくれる。今回だって、心霊関係も含めて思いやってくれるのが、気恥ずかしくもくすぐったく、どうしようもなく暖かかった。

「はっぶしゅ!」

「大丈夫か、鼻水たれてないか?」

「もう子供じゃないんだから」

「あはは、ごめん、ついなー。じゃあま、そろそろお帰りの時間だ」

苦笑したカンジュに肩を叩いて帰宅を促され、レッドはストールを外そうとした。

「これ返すよ」

「いいよいいよ、巻いてって。俺長袖だから、今の時期はあんまり寒くないからさ。必要になったらマヒルに取ってきてもらうから、レッドが巻いて帰りなよ」

「でも」

「心配だから巻いてって欲しいんだよ。穴抜け使ったって山の麓にでるだけで、そこからリーグまで距離あるだろ」

「……わかった、ありがとう」

「どういたしまして。気をつけて帰るんだぞ、あと、くれぐれも体調崩さないように」

「心配性」

「え、なんだって、もっと小言聞きたいって?」

「なんでもないです、カンちゃんの言う通りにします」

「あははは」

ごそごそとリュックの中から穴抜けの紐を取り出していると、カンジュの仲間が見送りに集まってきた。別れを告げようと顔ぶれを見回して、レッドは疑問を感じた。ムウマージのキン、名前を知らないヨノワール。ゲンガーのマヒルに、影に潜んでしまったゴースト。一匹足りない。彼が幼い頃からすーっと一緒で、旅に出てからは相棒とまで称したゲンガーが。

「カンちゃん」

「ん?」

「クロは?」

「ああ、クロは用事頼んでるから居ないよ。と、そうだ、紹介してなかったよな。こっち、シンオウで会ったヨノワールのヨル」

「ヨノ〜」

一つ目を細め、腹の模様がにんまりと笑みを描く。他の地方へ行っている、その事実が羨ましいと思った。

「マヒルとキンは紹介するまでもないよな。あとは、あれ、ユカリどこいった?」

「ごっ」

「ああ、そこか」

カンジュの影からひょこりと半分顔を出したゴーストが、上目遣いにレッドとリザードンを見上げた。

「ユカリ、出ておいで」

首を振ってユカリと呼ばれたゴーストは影の中に戻ってしまう。

「あ、こら! ユカリ、ユカリ?」

「いいよ、カンちゃん。無理させないで」

「悪い、普段は人見知りしないんだけど……今のがこっちに戻ってからシオンタウンで仲間になったユカリだよ。その内あたらめて紹介させてくれ」

「う……くしゅん!」

「あああ、本格的にまずいな。じゃあ、気をつけて」

「カンちゃんこそ、ちゃんと休んで」

「うん、そーするよ、ありがとう。久しぶりに会えて嬉しかったよ」

嬉しさを隠しもしない心からの笑顔にレッドも笑って頷いた。

「また来る」

「今度は長袖と、できれば足元も整えておいで」

「うん」

「あ、待った、ストールの巻きが甘い」

言うなりカンジュはストールを解いた。

「ついでだから、怖がりのレッドの為にお祈りしとこうな」

「は?」

「祓い給い、清め給え」

唱えながらストールを巻きつけ、手際よく結び目を作ってゆく。

「神ながら、奇しみたま」

最後に全体を見て形を整え、満足げにぽんと肩にタッチして笑いながら言葉を閉めた。

「幸え給え」

怖がりと言うからかいに反論するのも忘れてしまった。同じ言語を話しているとはわかったものの、古風で独特な節回しのために意味が汲み取れず、ぽかんとしてしまったのだ。けれど昔から神社へ修行に行っていた彼が唱えるのだから、本格的なお祈りなのだろうと察しが付く。

「……お祈り、本格的だね」

「霊験あらたかだぞ〜! 効果ありそうだろ?」

「うん。僕にもひぃっぶしゅん!」

「わかった。けど、今度な。ほら、今日はもう帰った帰った。もし少しでもおかしいと思ったら、無理しちゃだめだぞ」

「わかった。またね、カンちゃん」

「ああ、またな。元気で過ごすんだぞ〜」

満面の笑みで大きな動作で手を振り、その隣に並んだカンジュの仲間たちもそれぞれ手を振って見送ってくれた。穴抜けの紐が発動する間際、カンジュの影から顔を半分と片手だけ覗かせたユカリが手を振っていることに気づき、レッドの顔には自然と笑みが浮かんだ。

20日 思いがけない再会(中)

 狭い洞窟を飛ぶには、リザードンは小回りが利かない。しかし谷底へ降りるよりはマシだろうと、向こうへ運んでもらうことにした。他に底には訳の分からないものが居るし、レッドは寒さに凍えて身体能力が落ちている。そんな状態で谷を上り下りするのは危険だと判断した。

 運んでくれたリザードンを再びボールに仕舞い、洞穴(どうけつ)から外を見やる。一面の銀色世界に、ぱら、ぱら、と思い出したように雪が舞い落ちている。不思議な光景だった。秋の足音が聞こえてきた頃合いとは言え、昼は未だ暑さに辟易(へきえき)とするのに、ここだけ冬に閉ざされているようだ。自然の生み出す景色は、町々を訪ねるのとはまた違った、不思議な感動を呼び起こした。
 しかし我に帰ってみれば、こんなところにカンジュがいるのが何よりの不思議だと思った。ゴーストタイプのトレーナーである彼が、何を思ってこの凍り着いた山を訪れたのか。マヒルが見せてくれた、得体のしれないポケモンらしき物体と関係があるのだろうか。例えそうだとしても、ここへの立ち入りには条件があるはずで、彼がリーグを勝ち抜いたと言う話も聞いたことがない。
 疑問を解くためにも、レッドは足を踏み出した。

 足跡のない雪原を踏みしめると、思ったより硬かった。雪の降る気温ではあるが、それでも季節には勝てないらしく、積もっているのはパウダースノーとは程遠い。水分を含んでべちゃりとしているそこを、すべらないようにと慎重に歩く。そんなレッドをマヒルがゆっくりと導いた。
 そうやって進んでいる内に、離れた地面から急速にもやが立ち上った。跳ねあがった心拍はすぐに落ち着きを取り戻す。この光景はつい二時間前にも見たし、マヒルも警戒していなかったからだ。
 靄が形作ったのは、大きな顔と手だけの黒いポケモン、ゴーストだった。カンジュの手持ちにゴース系統はマヒルの他にもう一匹いたが、すでにゲンガーへ進化している。知らない間に入った新しい子なのだろうと思う。初対面のゴーストは、ぎょろりとした目にあからさまな警戒を乗せてレッドを見つめている。

 前方に気を取られていると、背後からひゅろろと、ゴーストタイプのポケモンが浮遊する独特の音が聞こえてきた。振り返ればどこに隠れていたのか、笑顔のムウマージがゆっくりと近づいて来ていた。
「……キン?」
 目を細めて笑う、その笑い方に覚えがあった。最後に会った時はまだムウマだった。彼の特徴だった、瞳孔が小さく白目の部分が大きいのは進化しても変わっていない。
「久しぶり、元気だった?」
 昔と変わらずに鳴き声はなく、こくりと頷くだけだ。が、金色の瞳は懐かしそうに、優しげに弧を描いている。釣られて笑ったレッドの肩に、ぽん、と手が置かれた。
「ワー!」
「わー!?」
 びくりと肩を跳ねさせ、ばっと振り向いたレッドの眼前に一つ目のポケモンがドアップで写り、そいつがワーっと声を上げたものだから、レッドも思わず叫び返してしまった。
 きらきらと輝く赤い瞳がにたあっと笑う。悪戯好きのゴーストタイプらしい笑い方をされてしまえば、何も言う気は起きなかった。彼らなりのコミュニケーションを否定する気はない。

「……君も、カン、ジュ、さんの仲間?」
 つい飛び出しかけた呼びなれたあだ名だが、初めて会う子に通じるか疑問だった。途中で無理やり修正して問えば、ヨノワールはこくこくと頷いた。ポケモンたちの明るい様子に、カンジュに変わりはないようだと、安堵が生まれる。流れた月日の長さとマヒルの歯切れの悪い様子、さらに居場所の不可解さに、漠然と感じていた不安が和らぐ。
「僕はレッド。よろしく」
「ヨノー」
 人懐こくも差し出されたヨノワールの手を握り返す。山頂付近の寒さにやられてすっかり冷え切った手には、ゴーストタイプの低い体温さえ暖かく感じられた。

 け、と、掠れるようなマヒルの声に振り向く。やわらかなとげの生えた背中の向こう、ゴーストの隣に青年が立っていた。カンジュの仲間たちが居るのだからここに居るのはカンジュだろう。そう思うのに、記憶の中の元気な少年と表情の抜け落ちた青年が重ならない。
 同じなのは、くるくるとした濃い茶色のくせっ毛だけだと思った。彼はいつだって、満面の笑みを浮かべて名前を呼び、会いたかったと再会を喜んでくれたのに、今は別人のように無表情だ。オレンジや水色など明るい色の服を好んでいたのに、モノクロで身を固めている。冬でも濃い色をしていた肌は、驚くほど白い。なにより、うつろな瞳がおかしかった。昔は、明るいオレンジの瞳をいつだってきらきらと輝かせていたのに。

 本当に彼なのか自信が持てず、彼の名を呼ぶか迷って僅かに開いた口は、声を出すどころか呼吸さえ潜めていた。
 長く感じる、数瞬の後。青年のぼんやりと定まっていなかった視線がレッドへ焦点を結んだ。
(どうしよう)
 声をかけようかとまだ迷うレッドの前で、青年は驚いたように目を見張る。
「……本当に、レッドか?」
「……カンちゃん」
「え、マジか。うっわ、久しぶり〜!」
 破顔した青年が近づいてくる。ゴーストは慌てた様子で、カンジュの影に吸い込まれるように消えた。

 心から嬉しそうな満面の笑みや大股気味の歩き方、表情を浮かべた顔は少年の面影がある。全体的な雰囲気が少年と一致する。瞳も先程まで生気が感じられなかったのが嘘のように生き生きとしている。
 観察している間にカンジュはレッドの目の前までやって来て、レッドの帽子を取り払ってくしゃくしゃに頭を撫で回してきた。
「え、ちょ、あ」
「ははは、相変わらず真っ直ぐな髪してんなー」
「……ぶふ」
 昔と全く変わらない行動に、呆気に取られた。二年もの間、連絡がなかったなど思えない程、普通の態度だ。驚愕はやがて笑いへと転じた。一度吹き出すと笑いが止められない。
「はは、あははははは、カンちゃん、ははは、変わらない」
「そこはますます格好良くなったって言ってほしいな〜。まあレッドの成長ぶりには負けるけど」
 どきりとした。会いたい一心でここまで来てしまったが、レッドがチャンピオンになったことを知ってカンジュはどう思うのだろう、と今更ながら不安が押し寄せてきた。

 学校で顔を知っていただけの級友が急に連絡を取ってきたように、彼も態度を変えるだろうか。以前と同じ仕草の中に、昔とは違う意味が込められてはいないだろうか。
 従兄弟という属柄ではあるが家族同然に接してきた相手を疑うなんて、とも思う。しかし疑心は止められない。心に影が差し、笑みが消える。
「本当に大きくなったな、昔はこーんなちびだったのに」
 こんな、と親指と人差し指で数センチ程を示され、呆気にとられた。
「……あれ、俺滑った?」
「う、うん……」
「やだ、人間なのに絶対零度放っちゃった。恥ずかしい」
 特に恥ずかしいとも思ってなさそうな表情でそんなことを言いながら、ぱっと両手で顔を覆ってみせた。そんなリアクションも束の間、すぐに顔を出したカンジュはレッドの肩のあたりを示しながらカンジュは首を捻った。
「最後に会った時、このくらいだったかな。……ううん? 俺の肩より小さかった、って記憶はあるんだけど、俺も背ぇのびたからなあ」
 よくわからないと悩むカンジュに、レッドはたぶんこのくらいだった、と自分の頬のあたりを示す。二年半程度で三十センチも伸びた記憶はない。
「あれ、そんなもんだっけ? もっと大きくなってるような気が……そうか、顔立ちが大人っぽくなったのか!」

 伸びてきた手がむにりと柔らかく頬を摘み、もう子供の頬じゃないんだなあ、としみじみ呟いた。手袋のない手は冷えきって、同じく冷えているレッドの頬にほんのわずかな温もりも感じさせなかった。悴(かじか)んで動かしにくいだろう指先は、しかし優しく痛みなど感じさせない力加減だ。それが何故だか無性に可笑しくて笑いそうになったが、素直に笑うのはなんとなく恥ずかしく、無理やりしかめっ面を作った。
「……父さんと同じこと言ってる」
「そりゃあ、なあ? 久々に会う家族だもん、おんなじ感想出てくるよ」
 赤ん坊の頃のマシュマロみたいな頬だって知ってるんだから、と何故か嬉しげに笑うカンジュにレッドは不機嫌な表情をしてみせた。昔のことを言われるのは気恥ずかしい。

 不意にぶるりと体が震え、ぶしゅっ、とくしゃみが漏れた。
「寒いのかよ! 上着かしてやるから」
「いい、いらない。カンちゃんのが寒がりじゃん」
「レッドが暑がりだからそう思うだけで俺は普通だよ。くしゃみしてるんだから大人しく受け取れって」
「いいよ、リザードン出すから」
 きょとんとしたカンジュの前でレッドはリザードンを呼び出した。体温の低いゴーストタイプしかいないカンジュから防寒具を奪う訳にはいかないという思いやりからだった。
「レッドの仲間、なんだよな」
「うん……?」
 ニュースを見ていればレッドの手持ちなど知っているはずで、驚くことなどない。知らない風なのがおかしかった。

 そもそもカンジュは、バトルに熱心だった。今の四天王勝ち抜き式のリーグの前身、勝ち残り式トーナメント時代のリーグで何度も入賞していた。仲間に甘いところのある人だったが、育成に力を入れていた。上位に食い込むだろうトレーナーの情報を集めて研究したりもしていた。
(二年前に手紙が来た時は、特に変わりない風だったのに。なにがあったんだろう?)
 思いがけない反応にカンジュを注意深く伺うと、彼の目が焦点を失った。表情もぼんやりとしたものになる。隣りで大人しく佇んでいたマヒルがカンジュの手を握る。

「……カンちゃん?」
「……ああ、そっか。ごめん、レッドも旅に出たんだから、そりゃあ仲間ができるよな。つい昔の感覚でいたから……ここへ一人で来るのに、ポケモンを持たずになんか来れないのにな。子供扱いしてごめん」
 眉尻を下げて苦笑したのもつかの間で、標準より背丈のあるリザードンを見つめ、にかっと歯を見せた。
「大きなリザードンだな〜! 体躯は立派で、顔つきも鋭くって格好いい。尻尾の炎もよく燃え盛って、健康そうだ。頼もしいな〜」
「うん」
 素直な賞賛は悪い気などしない。幼い頃に追いかけていた兄貴分に褒められてにやけそうになる顔を伏せ、リザードンに体を預ける。リザードンはもそもそと身じろぎ、レッドの足に器用に尻尾を巻きつけ、覆いかぶさるように肩へ顎を置く。ぴたりとくっついた場所から人より高い温度が伝わり、じんわりと体温が戻って来る。

(……二年の間になにがあったの、って聞いていいのかな……カンちゃん、話してくれるかな……)
 大人は、レッドに隠し事をする。母親も、カンジュも。偶然カンジュの隠し事を知った時、大人になったら話すつもりだった、と言われたのを覚えている。本当の兄だと思っていたのに、従兄弟だったと偶然知ってしまった時だ。あれから随分年月が経ち、レッドは旅にでて成長したが、自分が大人かと言われると疑問だった。
 それにカンジュのさっきの態度を鑑(かんが)みれば、カンジュが自分をまだ子供として見ているのだと分かる。誤魔化せると思われれば、きっとはぐらかされるだろうと予想が付いた。

(どう聞いたら、知りたいことを知れるんだろう? あ、やば、鼻がむずむずする)
「は、っぶしゅ!」
「ああ、やっぱ寒いよなあ。長袖の上着は?」
 頭を振って持ってないと否定する。と、カンジュは己の首元にきっちり巻きつけていたストールを解いた。広げるとストールは大きく、それをレッドの肩へショールのように被せてきた。リザードンはその動きを察して身を離し、巻かれるのをまってからまた身を寄せた。

「これで少しはマシだろ」
 言いながら自分はショートコートの、ボア付きフードを被る。
「俺のことは気にしなくて大丈夫だからね」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
 いくらフードを被っても首元は寒そうだ。が、レッドも寒さには勝てなかった。たった一枚、されど一枚。覆うものが無いのとあるのでは、寒さが違った。
「もう下山した方がいいんじゃないか」
「カンちゃんは?」
「俺は降りれない。修行中だから」
「そうなの?」
「うん。ポケモンだけでなく俺の修行でもあるからさ、下りちゃ駄目なんだよ」
「ふうん……」
 修行と言われて思い出す。昔からカンジュは神社へ修行へ行っていた。だから修行ならこんな山に篭っていても……。
(いや、おかしいよね?)
 なんで山篭り、しかも許可がないと入れない場所で。下で会った警備員は上ったことがあるようだったが、それは所属がリーグだからだ。祠の掃除をしているくらいだし、山を見回りしてるんじゃないかと想像が付く。そもそも、無断侵入を許さないなら見回りは必要なことだ。

「……カンちゃんは、リーグに就職したの?」
「へっ? いや、まさか。なんで?」
「ここへ入るのに許可が必要みたいだったから」
「ああ……俺はオカガミ神社の方だよ」
「オカガミ神社?」
「あれ、知らないんだっけ?」
 聞いた事のない名前に頷くと簡単に教えてくれた。
「オカガミ神社はセキエイ高原にある神社だよ」
「見たこと無い」
「うん、開(ひら)かれてないから。って、わからないか?」
「う、うん」
 開かれてないの意味が分からずきょとんとしたレッドに、カンジュは「限られた人しか入れない神社、ってこと」と補足した。
「そうなんだ」
「うん。で、そこで奉職(ほうしょく)している一人と友達だから立ち入り許可貰ったんだ」
「ホウショク……? 許可……?」
「あー、奉職ってのは、お勤め……神社で働いてるってこと。許可取れたのは、シロガネ山は神社とリーグの共同管理だからだよ」
「リーグだけじゃなく、神社も?」
「そう。ここは昔からご神体として……ええと、神様が宿る場所だって言われて、人々の信仰の対象になってた。だから麓に、神様の体に近いところに神社が建てられてる。でも山は神様の体とされているから、むやみやたらと入っちゃダメってことになってんの。リーグやオカガミ神社の許可無しに入った場合、何が起きても知らないぞーってこと」
「……許可なく入った場合は?」
「さて、その人の運次第だな。なんにも起こらないかもしれない。でもひとたび何か起こった時、許可を取っていれば神社の人が助けるために動いてくれるんだよ」
「神社の人が?」
「うん。オカガミ神社の神職……神主(かんぬし)さんたちはほとんどがポケモントレーナーで、山にも詳しいんだよ。救助もお手の物だし、救助隊を案内することもできる。だからいざって時に頼もしいんだ」
「そうなんだ。今は穴抜けの紐があるから救助してもらうなんて、あんまりなさそうだけど」
「まあなあ、昔よりは減ったみたいだな」
「ふう……っぶしゅ!」
「あああ、もう。ほらほら、早く下山しなさい。だいたい半袖でここまで来るなんて、無茶だって。ハナコ母さんが知ったら心配するぞ?」
「ううう……」
 カンジュ経由でレッドの無茶が母親にバレたことはそれなりにある。今回は理由が理由なだけに母親も強くは言わないだろうが、お小言の一つは覚悟しなければいけないだろう。旅の間は、告げ口をする人なんて居なかったので、すっかり失念していた。

20日 思いがけない再会(上)

 シロガネ山は万年雪(まんねんゆき)に包まれており、山頂付近は常に雪雲を纏(まと)っている。冬は麓まで雪で閉ざされるのだが、夏は流石(さすが)に山頂付近に雪を残す程度だ。しかしその夏は短く、九月も後半に入った現在、麓に居るだけでも既(すで)に半袖から出た腕が肌寒さを感じていた。足元のピカチュウは大丈夫だろうかと見やれば、寒さに震えるでもなくじいっと山を見上げていた。
 マサラタウンまで長袖を取りに帰ろうか、山を登っている内にきっと温まるだろう。と歩き出した。穴抜けの紐があるので任意のタイミングで下山できる、と言う油断も、杜撰(ずさん)な登山計画の後押しになっていた。

 山裾の十分に開けている緩やかな山道を上がってゆく。吹き降ろす天然のクーラーが涼しすぎて鳥肌が立ったが、ランニングシューズを使わずに早足で歩けば、そのうち体が温まり始めた。
 あちこちに茂る草むらにはギャロップやドードリオにリングマなど、進化後のポケモンが散見された。今までとは違った種類が高いレベルで分布していることに興奮して一戦を交えた後、はたと気づいた。チャンピオンロードを下(くだ)ったせいで自陣の仲間たちはやや疲労の状態。これから探しもののために山中をうろつくのに今から消耗していてはいけない。

 この辺りのポケモンの強さを把握するために必要最低限のバトルをこなしつつ、散策の気軽さで進む。
 勘を頼りに、やがて洞窟の入口に辿り着いた。出入り口に建てられた古びた木の看板には、この先シロガネ山、と掠れた漢字で書かれているのが見えた。お月見山や岩山トンネルと同じくシロガネ山も洞窟を通り抜けてゆくものなのだと納得して、はたと振り向く。ピカチュウの足音が止まったからだ。
「ピカチュウ?」
 ピカチュウは洞窟の入口の横、繁る木々へ目を凝らしていた。どこか警戒した風な様子に、レッドも視線を木々へやったまま後退る。足を止めて警戒するほどの何かが居る。野生のポケモンにしては、ピカチュウの反応が気にかかった。

 ぱり、とピカチュウは愛らしい真っ赤な頬から僅かに放電させながら、レッドの前に飛び出した。一本の木の、地面に落ちた影が濃くなる。そこからけぶるような暗闇が這い出た。形のない、紫がかった黒い煙だ。それに二つの真っ赤な色を認めて、レッドは正体を悟った。影に潜むこともできるという、ゲンガーが現れたのだ。
「ケーッケケケケケケケ!!」
 煙が固まって確かな形を得てゆく。にんまりと大きな口を笑みに釣り上げ、ににやにや笑いのゲンガーが現れた。

 ゲンガーは種族の特徴として、素早い上に特殊攻撃が強力だ。周辺のポケモンのレベルから言って、40前後あるだろう。ゴーストタイプは厄介な補助系の技を取得する傾向にあるので、もたもたしていると被害が大きくなりそうだ。
 そうあたりを付け、準備万端な相棒に指示を出す。
「十万ボルト」
「ピカァッ」
 低い四つん這いの戦闘態勢に入った小さな体から、バリバリと音をたてて電流が迸る。それを見て慌てたゲンガーがひらりと背を向けた。勿論、逃がすつもりはない。悪戯好きのゴーストタイプを逃がすと、時に厄介なことになる。会敵したならば実力を思い知らさねばならない。
「やれ」
「ピーッカ!」
「ゲッ!?」
 青白い電気がピカチュウの体全体を覆い、電流は数本の束となり、確固たる指向を持ってゲンガーへ向かった。ゲンガーがいくら素早くとも、駆け抜ける電撃には叶わない。鍛え抜かれたピカチュウの強力な攻撃を、逃げ出そうとして背中にくらい、ざざーっと盛大な音をたてて転び滑った。自分でも驚いたのか、短く太い尻尾がぴーんと立って、まるっとした尻が丸見えになっている。

 顔面から突っ込んでスライディングしたように見えたゲンガーは、のろのろと尻尾を下ろし、痛みを堪えるようにゆっくりもそもそと起き上った。そして、
「ケ、ケン……」
 としょげかえった頼りない声を出した。攻撃されたと言うのに反撃せず、怒りもしない。そんなゲンガーの様子を、一人と一匹が警戒しつつも見守る。が、声どころが全身がしょんぼりしているように見受けられて、レッドはすでに戦意を萎(しぼ)ませていた。

 のそりと振り返ったゲンガーは、短い足とぽこりと出た腹、手のひらを泥で汚していた。よく見れば顔にも跳ねた泥が着いている。大きな瞳は潤み、体はぷるぷると震えていた。電撃だけでなくスライディングしたのも痛かったようだ。
 ピカチュウの姿勢や放電の具合から、彼が未だ警戒しつつ、けれど警戒の度合いが低いのを読み取り、レッドはゲンガーに話しかける。
「……大丈夫?」
「け……ゲン」
 こく、と頷いたゲンガーは、視線をレッドからピカチュウに移すと何やら話しかけ始めた。二匹の間で少々の会話が為(な)された後、ピカチュウは最低限の警戒と威嚇として頬からぱりぱりと小さく放電させながら長い耳をぴくんとレッドの方へ向け、「ちゅ〜」と愛らしい声で鳴いた。彼は判断に困っている時、警戒は解かないままでこうしてレッドに水を向ける。

 とはいえピカチュウが何の判断に困っているのか、いくらポケモン大好き相棒大好きなレッドでもわからない。そこまで以心伝心ではないのだ。
 取り敢えず、ゲンガーが何か自分たちに伝えたいことがるのだろうか、と観察の視線を向けてみる。ゲンガーは首にかけていた、草臥(くたび)れた茶色のベルトを一生懸命に手繰(たぐ)っていた。
(あれ、は、持ち物袋……?)
 よくよく見れば、ゲンガーは首に焦げ茶色の持ち物袋を付けていた。一口に袋とはいっても形状は様々で、ゲンガーのそれはベルトに小さなポーチが付いたものだった。だいぶ草臥れてはいるが、遠目でもしっかりした作りであるのが分かる。

「げ、げんっ……げ〜ん、げんっ」
 人間ならば、んしょ、んしょ、といった風情の掛け声をかけながらポーチ部分を前に持ってきたゲンガーは、こんどはファスナーを開けようとした。が、どうにも手先が不器用らしく、難しい表情でまたもや悪戦苦闘している。
(手伝ってあげたいけど……)
 敵意は無さそうなので手伝ってやりたいが、一応警戒を続けてくれているピカチュウの手前、安易に近付くのは戸惑われた。万が一、なにかあった時に仲間へ迷惑をかけるのは本意でない。

「げんっ! げん、げーん?」
 暫くたって、漸くファスナーを開けられたゲンガーがぱあっと顔を輝かせる。しかしその嬉しそうな顔も一瞬で、中身を取り出せずにまたもやもたもたし始めた。
(あれ……こんな光景、どこかで……)
 ぶきっちょさんでおっとりとした雰囲気、加えて警戒心を全くこちらへ向けておらず、登場の仕方以外にはゴーストタイプらしさが無い。そんなゲンガーの姿がレッドに既視感を覚えさせた。
(いつか、どこかで、同じ印象を持った、気が……あれ、もしかして、“彼女”は……)

「……! げん!」
 悪戦苦闘の末に漸く中身を取り出せたゲンガーは、ぱあーっと輝かんばかりの笑みを浮かべ、手の中身をレッドたちの方へ向けてきた。差し出された手の平にちょこんと空色の勾玉が乗っている。レッドはそれに見覚えがあった。カンジュが己の手持ちに持たせていた勾玉だ。
「それ、やっぱり。君は、マヒル? カンちゃんの」
「ゲンっ」
 マヒルと呼ばれたゲンガーはにこおっと、心から嬉しそうに溢れんばかりの笑顔を見せた。ゲンガーらしくない朗らかな笑みに、彼女がマヒルなのだと確信は深まる。
「ピカチュウ、警戒しなくていいよ」
「ぴ」
 ピカチュウは既に最低値まで下げていた警戒を解き、ゲンガーに近寄ってふんふんと匂いを嗅ぐ。獣の形をしているピカチュウは匂いや音に敏感で、知らないものは取り敢えず匂いを嗅ぐのが常だった。ゲンガーは嫌がるでもなく、されるがままに匂いを嗅がれている。
「僕を覚えてる?」
「ゲン!」
 こくこくと頷いたゲンガーに懐かしさがこみ上げた。

 マヒルは、昔レッドの家に居た従兄弟の仲間だ。従兄弟のカンジュはレッドが生まれた時から入園するまで一緒に住んでいて、レッドの入園を見届けるとポケモントレーナーとして旅に出た。
 幼かったレッドはポケモントレーナーとして旅立つカンジュが羨ましくて連れてってくれと泣いて強請(ねだ)った。いつも遊んでくれる兄のような、友達のような彼が旅立つのが寂しく、子供なりに真剣に強請ったが、結局は見送るしかなかった。
 それからは会う機会はめっきり少なくなったが、夏休みなどに一緒に旅行へ行ったので、彼も彼の仲間もよく覚えている。そんな彼が一度目の旅から戻った際に、マヒルとは出会った。おっとりしていて人懐こく気の優しい彼女は、嫌がるそぶりもなく子供だったレッドの相手を良く勤めてくれた。

 そこまで思い出した所で、はっと現実に戻って顔を曇らせた。
「ごめん、怪我させた」
「けーけけけけっ」
 ゲンガー特有の笑い声はどこまでも明るく、釣り気味の瞳も優しげに笑う。気にしないで、とでも言うように、ふよんと地面から浮き上がったマヒルがレッドの頭を撫でた。幼い頃によくされた仕草に、懐かしさと気恥ずかしさが混じって複雑だった。

「治してあげる」
 リュックの中から取り出した良い傷薬で手早く治療し、使い込んで少し薄くなったタオルで泥を拭う。そのあいだにも、愛想が良く懐こい彼女はあっという間にピカチュウとも仲良くなり、会話を交わしていた。
「よし」
「ぴー」
 彼女の身繕いが終わるなりピカチュウにこっちこっちと袖を引っ張られたレッドは「なに?」と問いかけながら、またもやはっとした。

「マヒル、なんで一人でいるの?」
 彼女は何も答えず、ただ困ったような表情を見せた。
「ピカチュウ、もしかしてカンちゃん……カンジュ、さん、が近くに居るの」
「ぴ?」
「マヒルのトレーナー、どこにいるの?」
 きょとんとしていたピカチュウに聞きなおすと小首を傾げられた。
「マヒル、カンちゃんはどこ?」
 困った顔で、マヒルがレッドの手を軽く握って引いた。
「そっちにいるの?」
 迷うような間の後、控えめに頷く。
(なんでこんなに歯切れが悪いんだろう?)

 困惑と不安が湧き上がる。マヒルの以前と変わらない様子からして、カンジュに何かあったようには思えない。が、二年半もの間、彼とは会っていない。最後に手紙が届いたのも、もう二年前だ。忙しいが元気にしている、まだ帰れないがまた手紙を出す、とあったのに。心配でカンジュはどうしたのかと母親に尋ねても、旅が忙しいのよ、などと曖昧な答えしか得られず、憂いは払拭されないまま、レッドの胸の片隅にずっとあった。
(その内帰ってくるわよ、って母さんは言ってたし僕も待とうとは思ってたけど、会えるなら会いたい。……昔は、年に一回は顔を見せてくれた。手紙も電話もくれてた。忙しくて帰って来れなくても、手紙や葉書くらいくれるはずだ……母さんは便りがないのは元気な証拠だって言ってたけど、やっぱり心配だよ。せめて、無事を確かめたい)
「案内、してくれる?」
 今度は迷いなく頷いたマヒルの先導で、レッドは山肌へと踏み入ることとなった。

 虫除けスプレーを使用して少し上ったところで、ピカチュウに身振りで示されるままリザードンを出した。ピカチュウがマヒルと意思疎通できるおかげで、目的地がもっとずっと上の方であり、山肌を登っていかなければいけないと判明したからだ。
 暖かなリザードンの背にマヒルと共に跨ったレッドは、休憩をはさみつつも徒歩では考えられない速度で登った。やがて山頂が近づくと雪がちらつきだし、レッドはリザードンから降りた。
 ポケモンの技"空を飛ぶ"は、本来ならば掛かる負荷を搭乗者に一切感じさせない。上空の寒さはもちろん、雪山の寒さも感じさせない。けれどそれは搭乗者に限ったことで、使用者であるポケモンはしっかり肉体に負荷を受ける。
 それを知っているが故にレッドは、リザードンをボールへ戻した。いくら寒さに強い炎タイプとは言え雪のちらつきだした場所を飛行させるのは忍びなかったからだ。

 ぱらぱらと舞っている小さな雪にぶるりと震える。リュックを探って替えの上着を重ね着してみたが、半袖しか持ってなかったので意味がない。
 容赦なく熱を奪い、しんと染み込んでくる寒さに顔をしかめる。カンジュの無事を確認するまでは、と根性だけで先を急いだ。
 ボール嫌いであまり入りたがらないピカチュウは、途中でマヒルに言われてボールに入った。険しい道をマヒルの手を借りて登り、林を抜ける。マヒル一体ではレッドに手を貸すので精一杯だったので、ピカチュウにボールに戻るよう言ったのだと理解した。

 もうすぐ山頂というところで、今度は洞窟へ入った。そこは内部が鋭い谷のようになっているのに、橋は掛けられていない。崖のような向こうに光の差し込む洞穴(どうけつ)がある。雪原が覗くそこを、マヒルは指差した。
(やっぱりあっちに渡るのか)
 谷は暗く、特に底は目を凝らしてもよく見えない。降りるのは危険だ。

 ふと、その谷底で何か動いた気がして、無駄と知りつつも目を凝らした。ポケモンが潜んでいるとしたら、なおさら降りるわけには行かないし、何が居るのか知っておきたい。
 まだ少ししか休ませてやれていないが、リザードンを出した。尻尾の先の炎があたりを照らしたがフラッシュ程の効果はなく、谷が思ったより深いのを思い知らされた。谷の底にはまだ暗がりが蟠(わだかま)っている。
 見つめる先で、スス、と黒いものが動いた。緊張で強ばったレッドの横顔を見て、マヒルが谷底へ降りていく。
「マヒル」
「ケン! ゲンゲーン」

 あっという間に谷底へ降りたマヒルは、躊躇(ちゅうちょ)なく暗がりに手を伸ばし、ぐいっと何かを引っ張り上げた。勢いよく引っ張り上げられたそれは、ぽーんと高く空中に放り出され、リザードンの炎で正体を見せた。黒い、靄(もや)の塊、としか言い様のないものだった。ゴースに似た靄だが、ゴースのように球体の体もなければ、顔もない。
 それは放り投げられて慌てたように空中で身じろいだが、浮遊することもなく、そのまま落下していった。浮上してきたマヒルが慌ててキャッチして、抱えたままレッドの近くへやってくる。

「それ、なに?」
「ガァ?」
 さあ、なんだろう。とでも言うように首を傾げるマヒル。レッドを可愛がってくれていた彼女が持ってくるのだから危険はないのだろうと思いつつも、得体の知れないことに変わりはない。
「ポケモンなの?」
「げん!」
 元気よく頷いたマヒルに「そんなの見たことないな」と、レッドは図鑑を取り出した。周囲のポケモンを自動で判別してくれるはずの図鑑は、ゲンガーしか表示しない。

「……図鑑には載ってないみたい。新種なのかな。だとしたら……見かけはゴースに似てる、気がする」
 鞄をあさり、シルフスコープでそれを覗き込む。マヒルの腕の中で時折もぞりと蠢(うごめ)くそれは、シルフスコープで覗くと、白っぽいようなクリーム色のような靄に見えた。
「……ね、マヒル、本当にそれ、ポケモン?」
「げん!」
「これ、幽霊の正体を判別出来る道具なんだけど、これを通すと白っぽい靄に見えるよ?」
「……」

 無言になったマヒルは、自分の腕の中の靄を暫し見つめ、顔を上げるとレッドに向かって首を傾げた。
「けーっけっけっけ?」
「なんで笑ったの、しかも疑問形で」
「けけけ」
 えへーっ。そんな雰囲気で困ったように笑ってから、マヒルは靄を抱えたまま谷底へ向かった。

 マヒルの降下先には、いつの間にそこに現れたのか、大きな靄が二つほど蟠っていて、帰ってきた小さな靄を覗き込んだ。不定形のそれらの感情など推測もできないが、なんとなく仲が良さそうな気はする。
 谷底をもそもそと移動し始めた三匹(?)の靄を眺めながら、レッドは戻ってきたマヒルに話しかけた。
「あれがなんなのか、僕にはわかんないけど、危険なものじゃないんだね」
「げん!」 
 にっこりと笑って、マヒルは力強く頷いた。





* * * * *



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二十日 煩わしいリーグ本部

 白くけぶる山の連なりを望みながら、暖かいリザードンの背に跨(またが)って青空の中を翔ける。眼下に広がるのは、道幅の広い一本道である23番道路。青々と茂った緑がポケモンたちの姿を覆い隠し、澄んだ青色の湖面はきらきらと日を照り返し、時折ポケモンらしき影が身をくねらせている。長く変化に富んだ道路、そのところどころに構えられた有人ゲートを八つ数えると、そこからは深い森が地上を覆う。人を拒むほど険しい難所を内包する森の下には、チャンピオンロードと呼ばれる広大な洞窟が隠されている。
 その森はやがて広大な草原に取って代わられ、洞窟もぽっかりと地上へ口を開けている。その洞穴(どうけつ)の目と鼻の先に、巨大な建築物が存在していた。煉瓦の赤を基調として白煉瓦や大理石で白く化粧した瀟洒(しょうしゃ)なそれが、今や多くのトレーナーが憧れる場所、ポケモンリーグ本部。

 磨き上げられた正面玄関の手前には広々とした庭園が広がっている。四季折々の花が咲き乱れる美しい庭、その一角には、空を越えた来訪者のために発着場が作られている。その石畳の上へリザードンは降り立ち、背から赤い上着の少年、レッドが軽やかに降りた。
 彼は僅かに微笑んで、ここまで運んでくれたリザードンの首を優しく撫で「ありがとう」と礼を述(の)べた。リザードンもその手を心地よさそうに受け入れて嬉しそうに目を細めた。
 リザードンをボールへと戻し、代わりにボール嫌いのピカチュウを出す。ぷるぷると首を振ったピカチュウは、外に出られたのを喜ぶようににっこりと愛らしい笑顔を見せた。

 木々に囲まれ木漏れ日の踊る遊歩道を進み、リーグの正面玄関へ続く石畳へ出る。道の両脇では勇ましい表情をしたポケモン像たちが通行人を見守っている。
 ざあざあと梢(こずえ)を大きく鳴らしながら風が吹き抜ける。平地でも暑さが和らぎ始めた今時期、高原であるここは山から吹き降ろす冷風もあってとても過ごしやすい。ひっそりと木陰に設置されたベンチに腰掛ければ、すぐにでも微睡(まどろ)みを楽しめるだろう。弁当や遊び道具を持ってピクニックへ出るのもきっと楽しい。レッドがすでに持っているポケモンしか釣れないだろうが、この心地よさを楽しむためなら漫然(まんぜん)と糸を垂(た)らすのだって悪く無い。
 避暑地に最適な気候を惜しみながら、レッドは無粋な冷房のかかる室内へ入った。途端(とたん)に足は速まり、小柄なピカチュウが小走りになるほどの速度となる。あからさまに先を急ぐ様子を見せながらロビーを突っ切ろうとしていると、聞き落としようがないほとはっきりと「レッドくん」と朗らかな声が呼び止めた。
 レッドの表情が僅かに険しくなった。しかし振り返った時には既にいつもの無表情で、にこにこと明朗そうに笑う壮年の男を迎えた。男は水色のシャツに紺色のネクタイを締め、薄い灰色の夏用スーツを着こなしている。つま先から頭の天辺まで隙なくぴしりとしたこの男を、レッドは苦手に思っていた。

「いやあ〜、久しぶりだねえ、元気にしてたかな?」
 挨拶を皮切りに男の口は、蛇口を捻ったようにじゃばじゃばと言葉を垂れ流した。レッドの気乗りしない様子など目に入っていないかのように。これは、リーグ本部を訪れたレッドにとって恒例となっていた。
 この男はレッドの無愛想にも無口にも怯まず、辟易(へきえき)した様子も一切見せずに話しかけてくる。そしてレッドの短い返答にも負けずに次々と話題を出してくる。男から逃れる術(すべ)を思いつかないレッドは、毎回こうして捕まっていた。そうして今回ももたもたしている内に、同じ話題を切り出されてしまった。
「レッドくん、グリーンくんには会ったかい? ……そうか、最近は会ってないんだね。どうだろう、今度は君がここで、挑戦者として現れるグリーンくんを待つと言うのは」
 レッドは一番最初にグリーンに勝った時から、この男にチャンピオンの座を勧められていた。それでも前に訪れた時はまだ良かった。グリーンがまだチャンピオンの座に居てくれたから、断るのは簡単だった。
 しかし強化したパーティでもレッドに負けたグリーンはとうとうチャンピオンの座を返上し、今や旅の空の下だ。常々レッドがチャンピオンにふさわしいと言って憚(はばか)らなかった男は、ここぞとばかりに空席を埋めて欲しいと強い調子で言う。

 この男からの評価を、レッドは疎(うと)ましく思っていた。チャンピオンになると言う事は自由を奪われるのと同義だ。以前はそこまで考えが至っていなかったので、なんの覚悟も決めずにチャンピオンを目指していた。そして、チャンピオンになってしまった。
 チャンピオンになれば、バトルに今の仲間を出してやれなくなる。強化前のレッドに勝てる挑戦者が現れて初めて、今のベストであるこのパーティで迎え撃つことが許される。旅も自由にできない。まだまだこの仲間と冒険したい、まだまだやりたいことに溢れている。だからチャンピオンの地位に煩わされるのは嫌だった。

 無言を貫いて嫌だと意思表示をする。そんな態度は子供っぽいとわかっていても、口の上手い男を相手にどう言えば断れるのか、レッドにはわからなかった。
「そうだ、今から食事に行こう。ちょうどシンオウのチャンピオンが来ているから、彼女と一緒に。あちらの珍しいポケモンを連れていたよ」
 手を取ろうとする強引さに、レッドは首を振って「用事があるので」と素直に答えたが、男は用事を察して「四天王はもう誰も君には勝てないだろう?」と返してきた。面倒くさい男に捕まるかもしれないと知りながらもここへ訪れたのは、ワタルにバトルへと誘われていたからだったが、そんな事情など男はお見通しだったらしい。

 苦手な相手に加えて初対面の女性と食事だなんて、聞いただけでうんざりとする。レッドの断りを翻(ひるがえ)させようとするしつこい男に、首をふって後退(あとずさ)った。
「ピカチュウ、いくよ」
「ピッカー!」
「おおい、レッドくん?」
 張り上げられた声は無視した。踵(きびす)を返しても目的地などない。とにかく、煩わしい男の居ない場所ならばどこでもよかった。
 失礼します、と、背中ごしに一応は別れの挨拶を残し、強引にその場から離脱してそのまま洞窟へと逃げ込んだ。チャンピオンロードは熟練のトレーナーでも準備無しに入れはしない場所だ。野生では高レベルにあたるポケモンたちが数多く出現し、トレーナーの行く手を阻む。おまけにポケギアや携帯電話の電波が極端に悪い場所なので、リーグでそこそこの地位にいるらしい男は仕事中にここへは踏み込めない。
 何よりここには強さを求めるトレーナーたちが待ち構えている。チャンピオンだとか、それに纏(まつ)わる権利だとか、そういうものを考えずに純粋にバトルがしたかったレッドは、ランニングシューズでわざと音を立て、自分の居場所をアピールしながら奥へ奥へと潜っていった。





 長い洞窟の終わりを告げるのは、チャンピオンロードの入り口、23番道路へ繋がる洞穴(どうけつ)。それを目にした途端、レッドの心には不安が浮かんだ。男がもし空を飛んで追ってきたら……。
 仕事中なのだからリーグ本部から離れないだろうとわかっていても、もしもの想像は止まらない。嫌な事柄だからこそ、思考はネガティブへ傾き、溜め息ものの想像を掻き立てた。
 思考に気を取られ注意力が欠けた状態でも、彼の耳は草むらで何かが動いた音を拾った。すわ野生のポケモンかと、道路の両脇を覆う森へ素早く視線を走らせる。その視線の先、木々の間にどろりとした目の警備員の青年が真顔で立っていた。

「こんにちは、レッドくん」
 気持ちの悪い目をした人物が可笑しな場所に現れたのでぎょっとしたが、青年は笑うと朗らかな雰囲気を纏(まと)った。異様さを醸(かも)し出していた目も生き生きとして、先ほどのは見間違いだったのかと思うほどだった。
(なに、この人)
 劇的な表情の変化に戸惑うと同時に、突然なんの用だ、と警戒するレッドの前へ彼は進み出た。そして警戒心など気にした様子もなく、にこやかに話しかけてきた。
「一度だけ会ったことがあるんだけど、覚えてない、よね」
 言われた通り、覚えのない顔だった。しかしこんな場所で会う警備員だ、予想は付く。
「……ゲートの、どこかで?」
「そう! グリーンくんが通った時も驚いたけど、立て続けに君が訪れた時もすっごく驚いたんだよ。遅くなったけれど、リーグ制覇、おめでとう」
「ぁ……ありがとう、ございます」
 顔すら覚えていないのだから、当然こんな雑談を交わすような間柄ではない。この人は僕にいったいなんの用事だろう、そんな困惑と警戒心がレッドの口を重くする。
「突然驚かせてごめんよ。でもチャンピオンにも勝った君に教えたいことがあったんだ。シロガネ山って知っているかい?」
 目の前の青年に色々と引っかかりを覚えていたレッドは、戸惑いながらも頷いた。シロガネ山はテレビで何度も見たことがあった。カントーとジョウトの間にある雪山だ。
「じゃあ、シロガネ山に続くゲートは知ってる?」
 初耳だ、と首を振る。
「本当は正式にチャンピオンにならないと登れない場所なんだけど、何度もチャンピオンに勝ってる君なら大丈夫だと思うから、内緒で案内してあげるよ」
 突然に開けた新しい場所への道に、レッドは目を輝かせた。何故なら現状に不満を感じていたからだ。

 チャンピオンとしてリーグに居て欲しいと言われるのが窮屈(きゅうくつ)で仕方ない。街を歩いていて、チャンピオンだから、と勝負を申し込まれるのも嬉しくない。チャンピオンを倒せば有名になれるなんて、そんな下心で挑まれるのが悲しい。勝負を挑みに来て負けて、なのに「チャンピオンと戦ったなんてそれだけで記念だ」と喜ぶのが腹立たしい。
 レッドは、ポケモンが好きで、バトルが好きで、仲間たちと力を合わせてもぎ取る勝利が好きだった。そんな自分の“好き”を突き詰めた結果がチャンピオンだった。しかし上り詰めた地位が煩わしさを与えて来るようになった。
 仕方のない事だと頭では分かっていても、心が納得しなかった。こんなつまらない日々のためにチャンピオンになったのではない。
 とにかく図鑑を集めるまではとカントーに残ってはいるが、ナナシマで見た他地方のポケモンたちに心惹かれているのが正直なところだ。新たな出会い、新しい戦術、まだ見ぬトレーナーたち。それから、あまり期待はできないが、行方不明になっている従兄弟の足取り。
 不意につきんと頭痛が走って、耐え難い痛みに目を細めた。頭痛とは幼い頃からの付き合いだが、旅に出る少し前から特に酷くなり、時に思考を邪魔してくる。

(いたた……あれ、何を考えてたんだっけ……そうだ、新しい場所)
 新たな地方は新しい可能性に満ちて、心を躍らせる。まだそこへは行かないと自分で決めたものの、退屈さと不自由さに不満は募る一方だ。そんな日々の中で不意に開かれた新しい場所への道は、他の地方でなくとも、レッドの心を躍らせるに十分だった。
「あはは、目が輝いてる。行きたいんだね?」
「はい」
 こっちだよ、と緑をかき分けて森へ入ってゆく背中に、レッドはようやく疑問を感じた。
「森を通るんですか」
「うん、正規の道を通ると他の人にバレちゃうから……さっきも言ったけど、内緒なんだよ」
 振り向いて悪戯を企む子供のように笑ってみせる彼に頷き、後に続いて隠されていた細い道へ踏み込む。元々細い獣道がさらに廃(すた)れたような、辛うじて残っているそれは、元獣道と言った方がしっくりくるシロモノだった。
 廃れた道を通って、こっそり、秘められた場所へ忍び込む。これをレッドは悪い事と思っていなかった。実力さえあれば秘められた場所へ行っても大丈夫だ、と無意識の内に思っていた。以前、ロケット団と言うマフィアに占拠されたヤマブキシティへ侵入し、街の開放へ大きく貢献(こうけん)した経験が、彼を大胆にさせていた。

 そんな少々世間とはずれた彼でも、青年については違和感を持っていた。青年の後ろをぴたりと進みながら、最初に感じた疑問を口に乗せる。
「なんで、森の中にいたんですか」
「実はレッドくんが本部で話していたのを見ていたんだ。それでチャンスだと思って追ったら、洞窟に入って行ったから。きっとこっちで待ってれば出てくると思ってね。でも日向(ひなた)だと暑いから木陰(こかげ)で涼んでたんだ」
「なぜ、そこまでして待ってたの?」
 湧き上がった不信から投げかけた疑問に、警備員は「実は」と前置きをして話し始めた。
「頼みたいことがあって……本部に勤めていると、俺みたいな警備員でもシロガネ山へ入る機会があるんだ。その、以前入った時に大事なものを落としてしまったんだ」
「それを取ってきてほしい?」
「そう! 是非とってきて欲しい!」
 振り返って「頼むよ」と手を合わせる警備員に、レッドは頷いた。それくらいならお安い御用だ。
「なにを落としたの?」
「とても、大事なもの」
 内緒で案内して取ってきて欲しいと頼むくらいだから、大切なのは納得できた。が、レッドが聞きたかったのはそういった内容ではない。
「……形とかは?」
「丸い鏡。落すとしたら、祠のあたりだから。もしかしたら、掃除した時に祠の中に落としたかもしれない」
 このくらい、と両手を合わせたより一回り大きいくらいの輪を作って見せた青年にレッドは頷いた。
「……あの、あなたの名前は?」
「ああ、名乗りもせずにごめんね。ツグ、って言うんだ。後を継ぐ、のツグ。よろしくね」
 彼は人懐こい好意的な笑顔を見せた。フレンドリーな態度にレッドは僅かに口元を緩め、言葉少なに頷きを返した。
「……こちらこそ」

 やがて二人は森を抜け、明らかに人の手が入っている太い道へでた。そこもまた生命力溢れる緑に侵食されつつあるが、むき出しの土は歩きやすいよう固められ、道の両脇には雨の逃げ道が作られている。今も人の手で整備され続けている道路だった。
 緩やかな坂を少し登り、石で作られた階段を上がると直ぐにゲートが見えた。ゲートは古臭さも使用感も感じられない。秘された場所へ続くゲートである事と、トレーナー向けのタウンマップに載っていない事を合わせて考えれば、訪れる人の少なさが想像できた。
 しかし手入れは行き届いており、周囲の緑に侵食されず小綺麗な外観を保っていた。道と同様に整備され続けているのが見て取れる。
 ガラス製の自動ドアの前に立てば、使われる機会も少なそうなそれが、健気にも人を感知して開いた。

 内部は街の出入り口などに良くあるタイプの有人ゲートだった。十字路の形で各方面へ伸びる通路は広々として、手入れが行き届いているのはもちろん、やはりここも使用感がなかった。汚れを落すために設置されている玄関マットには汚れなど見当たらず、休憩用に設置されたベンチは傷ひとつない。
 手垢の一つもない案内板には、東西南北にそれぞれカントー(22番道路)・シロガネ山(山道)・ジョウト(26番道路)・チャンピオンロード(試練の道)、と書かれている。

 そこまで見て、レッドは素直な所感(しょかん)を口にした。
「こっちの方がゲートらしい」
 23番道路とチャンピオンロードの境目には、洞穴の手前に取って付けたような白い門があるだけだ。こちらの方がよほど、リーグへ向うゲートとして見栄えが良い。
「あはは、あっちは急いで作られたからね。もちろん手抜きなんかしてないけど、新たにこんな豪華なゲートを整える時間はなかったんだよ」
「……」
「こちらはシロガネ山へも通じている。人が簡単に通れるのはまずいって、今の23番道路が整備されたんだ」
「……すごく無駄だ」
「全く君の言う通り」

 肯定するツグに、レッドは少し呆れていた。
 ゲートの警備員はツグのように、時にこうして独断で人を通してしまう。不法占拠されていたヤマブキでも、レッドの他にグリーンも侵入していた。レッドが知らないだけで他にも誰か入っていたかもしれない。
 それを考えれば、こちらのゲートが使用されていないのも頷ける。本当に人を入れたくないのなら、ゲートを設(もう)けるより道を作らない方がいい。既に道があるなら、封鎖してしまえばいい。
(そんなのは作る前から分かってただろうに。なぜ無駄な物を作ったりするんだ? なんだっけ、建設業者と偉い人のユチャク? ってやつ? なのかな。全然意味わかんない)
 新古となっているゲートの綺麗な内装に、レッドは冷めた目を向けた。

 正式に稼働していればドアの数だけ配備されていただろう警備員は、今は目の前の青年たった一人。その濃紺の背中の向こうで自動ドアが開くと、高原のものよりも涼しい風が吹き込んできた。
「さあ、いってらっしゃい。よろしく頼むよ」
 首肯(しゅこう)したレッドに、青年は期待に満ちた笑顔で手を振った。

夢見る人

 瞼(まぶた)の裏が明るい。今まで眠っていたんだ、と自覚した。ああ、いい夢を見ていた。幸せな夢だった。
 体は未だ休息を求めて動かず、ふわふわと心地よい微睡(まどろ)みが意識を溶かそうとしている。だめだ、目を開けなければ。話したいことがある。
 違う、話さなきゃいけないことがある。
 ん? 違う、俺が話したいだけで、別に話さなきゃいけないなんてことは……ない、よな? あれ、どうだっけ?

 うとうとと、意識が微睡みに負けそうになる。
 いや、負けていたと思う。自分では途切れなく思考を続けていたつもりだったけど、きっと眠気に負けて、途切れ途切れに考えていたいただろう。
 そんな事に考え至れるくらい眠気から脱して、俺はようやく瞼を上げることに成功した。

 眩しいやら、眠いやら。重たい瞼は細くしか開けない。そんな朧気(おぼろげ)な視界いっぱいに、見覚えのあるゴーストの、ユカリの顔が広がっていた。大きな目がじいっと見つめてきてる。なんで、そんな心配そうな顔をしているんだ?
「……ぉ、し……」
 どうしたの、そんな顔して。何を心配してるの。
 そう聞いてやりたかったのに、未だ夢現を彷徨(さまよ)う体は重く、唇も持ち主である俺のいう事を聞きゃしない。
 もっと眠気を押しやろうと思っているのに、気づくと瞼が落ちている。誘惑上手な睡魔が、こっちこっち、身を委ねてみて、とても心地いいでしょう? と絶え間なくおいでおいでをして、俺を絡めとろうとしている。ううう、こんなに思考できてるのに、話すことさえ難しいなんて、どういう状況なんだ。

 何度か睡魔に袖を引かれた後、重たい腕をなんとか動かした。ユカリが手を繋いでくれると、そこからほんのり暖かさが伝わった。
 あれ、俺、手冷えてる? ゴーストタイプの子は、基本的に人間より体温が低いから、こんな風に感じるなんて変だな。……ああ、だからユカリは心配そうだったのか。

「……ぃ」
 ユカリ、大丈夫、ちょっと冷えてるだけだよ。どこも悪くはないよ。
 そう伝えたいのに、口も声帯も仕事をしてくれない。
 ああ、たくさん話したいことがあるのに。
 なあ、いい夢を見たんだ、すごく、いい夢。懐かしいくて暖かい思い出。それの最後に、懐かしい俺の弟がここへやって来るんだ。おかしいだろう、ここへは来れないのに。でも、俺を訪ねてくれるんだよ。懐かしい弟に再会するなんて、いい夢だろ?

 俺は締りのない顔で笑ったのだろう。ユカリの顔がふと緩んで、優しく笑った。ユカリ、これを教えたらきっとお前はもっと笑うよ。
「ぅ……と……ふもと……れっどが……」
 俺を訪ねて来る。
 幸せな気分に浸ったまま、辛うじてそれだけを伝えた。
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