「えっ……?」
僕はその光景に面食らった。剣道の話ではない。
どのくらい面食らったかと言うと、眼鏡がずり落ちてそのまま等速直線運動をしてしまう程である。眼鏡カーリングが出来てしまう程である。
危うく僕の眼鏡が滑ってしまうところであった。
僕は仕事中だった。よってキャップとエプロンを着用していた。コスプレでは無い。こんな悪趣味なコスは多分、地球上には無い。
そのまま事務室のドアノブを掴んで硬直する僕は、さぞかし変な奴……もとい変態に見えたであろう事は、想像に難くない。
「あの、これは、何でしょう?」
やっと僕の喉から出て来た言葉がそれである。
店長は言った。
「鍋だよ」
そう。鍋である。見ればわかる。目の前でぐつぐつ煮込んである。うまそうである。実は僕、鍋が大好物である。猫舌なのにである。我が輩は猫である。嘘である。すべからく嘘である。
「鴉くんも食べる?」
「え?いいんですか?」
乗ってしまった事を激しく後悔した。これで僕も共犯である。
まんまと策に嵌まってしまった。
そりゃあ目の前にうまそうな鍋があれば誰だって食べたいものだ。
こうして僕は店長達の姑息な手に嵌まってしまう羽目になった。勤務中なのに。
「じゃあ鴉くん、豆腐買ってきたら鍋食べていいよ」
……こんなに姑息な連中には久しぶりに会った気がした。
豆腐を買わなければ鍋が食べられない、というせこい事極まりない条件の提示に僕は涙した。
そして数分後そのままの恰好で○タンパクの木綿豆腐を持ってレジに並ぶ僕の姿があった。レジの人になんでお前がいるんだ、今勤務中だろ? という目で見られた。後でトイレで泣いた。
店長達は小癪な連中である。
「やあご苦労、鴉くん」
こうして僕は豆腐を買うというプロセスを経由し、やっと鍋へと有り付いた。
僕の頭は鍋でいっぱいだった。
きっとこの時の僕を脳内メーカーで調べたら、『鍋』でいっぱいだったと思う。
暫く食べただろうか。
僕はひたすらきのこを食べていた。そういえば昔知人から『きのこ』と仇名を付けられた事がある。
髪型がきのこだったからだ。
まぁそれは置いておこう。
店長が言った。
「そろそろ豆腐入れるか!」
そうである。僕が折角苦労して豆腐を手に入れたのに、食べられなくて焦っていたところである。
「いいですね、いれましょう」
僕の他のメンバーが言った。
因みに鍋を囲むのは僕と店長、鮮魚の人二人(勤務中)である。
大の大人三人と高校生の僕、実にむさい空間であった。
レジの人には申し訳無いが、今度このメンバーで焼肉をしようという話になった。
勿論、勤務中である。
こんなんでいいのか。いや、よくない。
本部に見つかれば間違い無く僕たちの首は飛ぶだろう事は明白である。
しかしだからこそだ。きっとそのスリルがたまらないのである。
多分。
さて、豆腐を入れる事になったのだが、なんと包丁が無かった。
そこで店長はこう言った。
「カッターナイフで切るか」
頼む、
や め て く れ
「いやそれはw」
「じゃあこうしよう」
「あ……」
どぼん。
あろうことか小さい鍋に丸々入れやがった。
この時多分、僕の口は引きつっていた。
別に釣針が引っ掛かって釣られたわけじゃない。
ただ、鍋に浮かぶ巨大な白い直方体が禍々しく異様だった。
名前を付けるなら、魔王アンドレアルと言ったかんじの豆腐だった。
僕らは魔王アンドレアルをおいしくいただいた。