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職場の入り口。

此方は職場の入り口。

…地面が盛り上がってしまっているのです…。

職場の周囲。

…地震の影響で出来た地割れです。

場所は職場。

こんな感じで、あちこち割れているのです…。

一夜明けて。

前記事に続き、翌日…12日のことを書こうと思います。

職場に泊まり込んだわたしと先輩は…朝から職場と老健施設の朝食作りから始まりました。

老健施設の方は、ようやく僅かながら自家発電が動き出し、米は炊けるようになったとの知らせが。

けれど、以前としてガスは使えないらしく…此方で作らなくてはならないことに変わりはありません。

事務長に言わせると、比較的新しい施設の方はガスのスイッチも電気らしいのです。
此方は古いので違いましたが…今回はそれが幸いした。

…施設の方にできた食事を取りに来ていただいて、わたしは平行作業で自分の職場の食事を作っていました。

わたしの職場は…高齢者…特に、食べることすらままならない方が多くて…

食事はほとんどがペースト食なのです。
いつもはフードプロセッサーでペーストにしますが、電気がない以上使えません。

すり鉢でペースト状にしてはみたものの、やはり荒くなってしまうのです。

…呑み込めない方が多いからこそ、荒いと命に関わってしまうことがある。

詰まらせてしまったら、大変なことになる―

…電気のありがたみを心の底から痛感いたしました。

朝食を無事に出し終え、昼食の支度をしていた頃…

ついに、院内の貯水タンクの水が底をつき、水が出なくなりました。

急いで院長先生に報告して…大鍋を抱えて系列の施設の方へ。

そちらはまだ水が出ているので、とりあえず鍋に水を頂いて急場を凌ぎました。


恐ろしいことに、病院には懐中電灯もタンクもなにも備えていなかったのです。

事務長が、私物のタンクを貸してくださいました。

給水所はひとり1つまで…との規定があり、わたしと先輩…それに事務長と事務の方2人と5人でタンクや鍋を抱えて給水所へ。

そこには、大勢の方が水を求めて集まっていました。
給水車は…あっという間に水が尽きてしまい、取りに帰っているという話を聞きました。

…幸い、中学校の(市内の中学校が給水所に指定されていました)水を持っていって良いとのこともあり、無事に給水。

昼からは先輩と買い出しに行きましたが、ほとんど買うことも出来ず―

暗くなるとまた大変なことになるので、夕食の準備は前倒しで行いました。

朝食、昼食同様に施設の食事を作って取りに来ていただいて…

先輩に先に帰って頂いて。

わたしは夕食の配膳を手伝ってから帰ることにしました。
…エレベーターが使えない以上、病室まで手で配膳しなくてはならないので…。お膳を両手に持って、階段を上がる―

薄暗くなっている階段に気を付けながら上がるのは本当に疲れるものでした。

配膳も無事に終了し、ようやく帰宅することができました。
帰れる時に帰らないとまた帰れなくなるとのお言葉に甘えてさせていただいて。

…帰り道、途中で信号が点いていることに気付き、電気が復旧していることに気づいたのでした。

…自宅の周辺は早かったものの…職場周辺の復旧は翌日になりました。


本当に今回は水と電気のありがたみを実感しました。

…そして。

自分の…自分達の、危機管理の甘さも。

もう少し、いろいろ備える必要性を実感させられました。

当日の記憶。

3月11日…地震当日のことをまとめてみようと思います。
あの日…わたしは仕事が休みで。正確には2連休の初日でした。

午前中に披露宴のお祝いを頂いたので、そのお返しを買いに行って…買い出しに行って。

飛鳥ちゃんはハンバーグが好きなので夕食はハンバーグにしよう。
さつま揚げが安かったし、大根と一緒に煮て…

…そんな、ごくありふれたことを考えていたあの日。

わたしは自宅で地震に遭いました。
はじめの揺れはごく弱いもので。
それが次第に強く…激しくなっていった。
止まないどころか激しくなる揺れに身の危険を感じたわたしは、とっさにテーブルの下に身を隠しました。

揺れが弱まるのを待ち…テーブルの下から出ると、家の中は大変なことになっていました。

レンジの上のオーブントースターが落ちてテレビが落ち…並べておいた本の山は崩れ…3段ボックスの扉が開き、中に入っていたものは外に飛び出していました。

停電したため、とりあえず外に出て車のラジオを聴いて。

そこで初めて、今回の地震の凄まじさを知ったのです。

15時過ぎ…30分くらいは揺れたままのような状態で。
そんな混乱の中、奇跡のように飛鳥ちゃんと電話が繋がりました。

飛鳥ちゃんの無事を確認した後、奇跡が続いたのか先輩とも連絡が取れ。

そこから先のわたしの行動は…人によっては批判したくなるかも知れません。
わたしは…飛鳥ちゃんと自宅の安全を確認した上で、職場へ向かいました。

停電していて信号もつかない、そして余震が続く中で…。

そして。

職場では停電の関係で、系列の老健施設の食事も作らなくてはならない、そんな状況になっていました。

時刻は夕方過ぎ…徐々に暗くなる中、あるもので…ということで冷凍コロッケを揚げて、急いで御飯を炊いて(炊飯器はガス釜)…

…完全に日は落ちて暗闇の中。

懐中電灯の明かりを頼りにコロッケを揚げました。
おにぎりは…感覚を頼りに作った。

懐中電灯の明かりもあまり強いものではないので…見える範囲も限られていて、片付けすらままならなかった。

…危険なことだと、それはわかっています。

でも―

患者さんや入所者の方へ食事を提供する。
それがあの時のわたしにできることでした。
…食事を、待っていてくれるのですよ。
だからこそ、わたしたちにはわたしたちのできる精一杯のことをしたのです。

わたしたちが作業を進めている途中で、救急搬送が来ました。確か…20時くらいでしたか。

救急隊の皆さんも、電話が繋がらなくて…直接方々の病院を訪ねて回っていたそうです。

受け入れて、あげたかったけれど…満床に近い状態で、結局受け入れることができなくて…。

結局、最終的に全ての作業が終わったのは21時過ぎでした。

それから帰る…予定だったのですが、信号もなく渋滞しているのは確実。

翌日は休みの予定でしたが、系列の老健施設の食事を作る以上、休むわけにはいかない。

結果、わたしと先輩は職場に泊まりました。

余震が続くせいか眠りは浅かったのですが―

…これが当日の記憶です。
相変わらず、上手くまとまりませんが…。

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