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『迷いのあと』



『銀河鉄道の夜』は、賢治が最後まで筆を入れた未完の作品です。



主人公ジョバンニのカンパネルラへの友情は、


二人で銀河に向かって歩けなかった賢治の思いなのかもしれません…


..................







貧しい時代、
ましてや東北の農村という
環境にあって、


教師を退職したあと

賢治は、

”羅須地人(らすちじん)協会”を、
創立しています。

清貧の農耕自炊の生活を
始めてからも

実家に借金をしながら

東京へオルガンやセロ、
タイプやエスペラント語を
習いに行っています。



なぜ?

賢治はこのような
行動をとったのでしょう?


それを、解く鍵は、

賢治の青春時代にありました。

『”迷いのあと”』と賢治が語った
作品の多くは、

賢治のただ一人の友として、
慕い続けた保坂嘉内氏への
メッセージでした。


※参考図書
『宮沢賢治の青春』
著者:菅原千恵子




これを、読む前は、
賢治の作品にみられる恋愛感情は
「妹、トシに対するものだ、」
ということが通説でしたから、

あまりに意外な内容に驚き

そして、読み進めるうちに

それは確信となりました。



***  ***  ***

(ここからは、
賢治本人にお話しを
していただきましょう)




僕たちは盛岡農林学校の寮の
同室者として出会います。

わたし(賢治)が、
1年先輩で室長でした。

山梨から来た嘉内は、趣味人で
歌舞伎や演劇に親しみ、
トルストイや啄木を愛読する
理知的な青年でした。


入寮1ヶ月で、
戯曲を書いて上演したり

岩手山登山をしながら
35首もの短歌を詠むなど
多種多才ぶりを発揮し
直ぐに、
皆の注目を集めていきました。



片や、わたし(賢治)のほうと云えば
優等生ではありましたが
内気で、
物事をはっきり言えない性格でした。


わたしは、嘉内と出会い
寝食を共にしながら
毎日、語り合ううちに
嘉内に触発されていきました。


出会って3ヶ月目の夏休みには、
互いに書いた短歌や手紙の
やり取りがはじまりました。



そのころからでしょうか………


わたしの内に秘めた
文学や哲学、芸術に対する
言い表しがたい情熱が
噴出してきたのです。


きっと、嘉内という
同じ思考を持った友との
出会いによって

わたしの魂が
外へと向かわせたのでしょう。


翌年『校友会会報』に投稿。

暫くして、投稿しているだけでは
物足らず友人


保坂嘉内・河本義行・小菅健吉ら
4人で、

文芸誌「アザレア」を、創刊しました。

短歌や詩には、
2人だけがわかる暗号も決めました。


詩織「ん?ちょっと待ってください、
まるで恋人のようですね?」

賢治「 (笑) 」

わたしと、彼は

まことの人が存在する”空”であり。


同じ思考の二人である証に”電信柱”を
巧に詠みまして、

詩織「晩年の電信柱の絵は?」

賢治「 (苦笑) 」


嗚呼、そう云えば

わたしが歩きながら[詩]を書く癖も
彼の真似かもしれません。


「アザレア」

創刊後、
2人だけの岩手山登山に行きました。

美しい銀河の夜

土手の上で誓い合った約束を

生涯 追い求めたわたしです。


彼は、わたしであり

わたしは、彼で有りたかった 





 ゜。.☆.。 :*゜ ゜*: 。


知らない間に

往く道が

遠く別れてしまった

曲がり角

風はどこに吹くのだろう

風はどこに吹くのだろう




岩手山の頂(いただき)で

見渡す限りの

田園に豊かにうねる北上の

川に映した青い空


鏡のような青い空。





抱きつつ選んだ

信仰とフラテルニテに

伝説のイーハトヴは

あるだろう

光に溢れた国といふ

イーハトヴに続く空

イーハトヴに続く空…



 ゜。.☆.。 :*゜ ゜*: 。









賢治の本当の気持ちはわかりません。

だけど、

賢治は嘉内と銀河の下で

誓った理想の国を

イーハトヴと名づけました。



そして、イーハトヴの姿を生涯

童話や詩に描いていきました。


そして、”修羅”という
賢治の作品のキーワードも

初めて嘉内が書いた戯曲に
登場するというのも



事実。



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