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『たかが、石 されど、石。』

何度も研がれて

小さくなってしまった

包丁とか、


おじちゃんの形見の

傷だらけの

古い机とか、


愛着のあるものに

かこまれた暮らし


それが、
居心地なのかもしれない。


....................



しいちゃんは、
ママの叔母ちゃんで
婆ちゃんの一番下の妹。


しいちゃんは

何かにつけて、
わたしの憧れの人だった。


ママよりも気が合って
しいちゃんが遊びに来ると
楽しかった〜


その、しいちゃんは
なんだか、引っ越しが好きな人で


引っ越しのたびに
物を捨てるの

捨てられる物の中から

好みの物を探して
貰うのが嬉しかった 



しいちゃんは、逆に

「要らないものは、
こういう時じゃないと
捨てられないでしょ!」

といって、

惜し気もなくバンバン捨ててた。


新しいところに行ったら


これでスッキリ暮らせるって、


まだ、小学生の私には
わからなかったけれど………






でね、


ふと、足元に名前の入った丸い石。

石ころなんて当然!
要らないもの。


そう思ってしいちゃんには、
聞かずに捨てる方に入れた。



トラックが先に出て、
がらんどうになったアパートで
お昼ご飯をよばれながら
思い出話を聞いてた。


したら、しいちゃんが
思い出したように、


「そうそう、そういえば、
アレ見なかった?」って、


「アレ?」


(このくらいの)って、
手で丸い形を作って、

「このくらいの名前の入った丸い石。」



わたしは、良いことを
したかのように得意満面で、

「見た見た。捨てたよ?」って、
言ったの。

したら、しいちゃんが
急に慌てだして、

「ええ〜 大変、、、」

「どこに捨てた?どの辺り!?」て、

子どもながら しいちゃんの慌てぶりに、
相当大変なことをしたんだと思った。

泣きながら捨てたとこを
説明して、



探しに行ったしいちゃんが

大事そうに石を抱えて
帰って来たときは
ほんとうに安堵した。


「ごめんね、驚かしちゃったね」


って、謝ってくれた
しいちゃんに聞いたの


「しいちゃん、その石は高いの?」



「ただの石だよ(笑)」



「しいちゃん、その石は
なかなか、ないの?」


「(笑)ただの石だよ、
わたしが川原で拾ってきた
どこにでもゴロゴロ転がっている
ふつうの石さ。」



「ただの石が
しいちゃんの大事な物なの?」



「ただの石だけど
これがないと困るんだ、

これがないと、
おいしい漬物が出来ないんだよ。」



(*´∀`*)へぇ〜♪
すごい石なんだね〜




しいちゃんのお漬物は
ほんとうにおいしくて、
しいちゃんの
漬物があればなぁんにも、
いらないくらい、
おいしかった。


子どもの頃は
あの名前の入った丸い石には、
おいしくなる魔法が、
かけられていると思ってた(笑)


でも、


料理をするようになって

やっと、

しいちゃんの気持ちが
わかったの


わたしも
焦げた菜箸が、
捨てられなかったり


煮物をするときの
ヘラは、
これじゃないと、とか

手に染み付いた、
馴染みの道具たちが
味を支えてくれてるんだって…











それからも、


しいちゃんの名前の入った
丸い石は


しいちゃんが引っ越しするたびに

いつも 一番大切に運ばれてた。


(笑)




物への思いは、

人それぞれで


しいちゃんのお葬式には

息子さんが石を

遺影の隣に飾った


みんな、

しいちゃんの石を見て

泣いていた………




『桃栗』

桃、栗三年、柿八年、


柚子の馬鹿めは十八年。

......................




習い事をはじめた頃

先生が、

このことわざを教えてくれたとき

「いちにんまえ」なるということは

気の遠くなる年月がいるんやな、
と思ったものでしたが


いまでは、そのくらいでなれるのなら

そんな[楽]はない、なんて思います。



ほんまのとこ人生は、

ほんの一瞬で、

なにかを成し遂げようとすれば

あまりにも短い。






わたしの書も、

書いても書いても納得いくものに

お目にかかれたことがない、


先生は、書いたものが

自分の背丈を越えたときが

「いちにんまえ」と、

おっしゃっていましたが、



とおに超えたと思います。



煩悩を捨て

まっと、修行に励みなはれ。

と、言われそうなんで、

愚痴はこの辺(あたり)で、

止めときます。



先生、

天国の住み心地は

如何ですか?









嗚呼、

先生は、憎まれっ子やったから、


きょうは、地獄の閻魔さんと


ゴルフですか?






(笑)クスクス♪

『花手帳』

東北の地にあって、

当時の園芸や庭に対する

一般的な意識を遙かに超えていた

賢治がいました。



※参考図書
花壇工作


....................



花巻農学校での教師時代

「花壇工作」と
題した授業を行っていたという
賢治。


大正末期から昭和のはじめにかけて

たくさんの西洋花壇を設計し

花巻の気候にあった花についての
研究をしたり

花の配色において、
色彩学の理論をも取り入れていました。


その、ほとんどが
机上の空論で終わってしまってることが
残念ではありますが、、、


岩手県花巻市矢沢1の1の36
TEL0198・31・2319
[宮沢賢治記念館]には
当時、賢治が設計した
花時計が再現されています。



賢治の花への想いが詰まった

『メモフローラノート』

『メモフローラ手帳』には、

実(じつ)にたくさんの植物が記入されていました。


ムスカリ・プリムラ・シラー
ラナンキュラス・ムスカリ・クロッカス
マグノリア・アネモネ・薔薇・・・

当時は洋花がブームになり
イングリッシュガーデンに見られる
さまざまな花々を賢治も、
賢治の死後、多額な請求書が
イギリスのサットン商会から
届くほど購入したといいます。





参考資料:”横浜植木”カタログ
(ボタニカルアートコレクション)
(写真は拾いです。)


ここに紹介した図版は、

その当時の花屋のカタログですが、

もしかしたら

賢治もこんなカタログを見て

庭に植える花を選んでいたのかも
しれませんね♪



友人の結婚式には

赤い実のついた寄生木(やどりぎ)を
部屋いっぱいに飾り、

テーブルにはアスパラガスを添えた
という

フローラル手帳に残る

たくさんの設計図を見ながら

賢治の思いに寄り添うことは

花好きにはたまらない物語のはじまり。


 ゜。..。 :*゜ ゜*: 。


涙に流れる血のよふな

ピジョン・ブラッド一粒に

遙かむこうのイギリスの

ドーバー海峡アズライト

みなみの空にひびわれた

青い空にはトルコ石

見上げた空に虹色の

オパール雲が浮かぶ国

光と風と青い空

賢治のこころの国という

イーハトヴがあるのだろう

イーハトヴがあるのだろう

芙美子♪







わが家で咲いたカンパニュラ♪



名前が似てない?

”カムパネルラ”はこの花から
貰ったのかな?

(笑)

『迷いのあと』



『銀河鉄道の夜』は、賢治が最後まで筆を入れた未完の作品です。



主人公ジョバンニのカンパネルラへの友情は、


二人で銀河に向かって歩けなかった賢治の思いなのかもしれません…


..................







貧しい時代、
ましてや東北の農村という
環境にあって、


教師を退職したあと

賢治は、

”羅須地人(らすちじん)協会”を、
創立しています。

清貧の農耕自炊の生活を
始めてからも

実家に借金をしながら

東京へオルガンやセロ、
タイプやエスペラント語を
習いに行っています。



なぜ?

賢治はこのような
行動をとったのでしょう?


それを、解く鍵は、

賢治の青春時代にありました。

『”迷いのあと”』と賢治が語った
作品の多くは、

賢治のただ一人の友として、
慕い続けた保坂嘉内氏への
メッセージでした。


※参考図書
『宮沢賢治の青春』
著者:菅原千恵子




これを、読む前は、
賢治の作品にみられる恋愛感情は
「妹、トシに対するものだ、」
ということが通説でしたから、

あまりに意外な内容に驚き

そして、読み進めるうちに

それは確信となりました。



***  ***  ***

(ここからは、
賢治本人にお話しを
していただきましょう)




僕たちは盛岡農林学校の寮の
同室者として出会います。

わたし(賢治)が、
1年先輩で室長でした。

山梨から来た嘉内は、趣味人で
歌舞伎や演劇に親しみ、
トルストイや啄木を愛読する
理知的な青年でした。


入寮1ヶ月で、
戯曲を書いて上演したり

岩手山登山をしながら
35首もの短歌を詠むなど
多種多才ぶりを発揮し
直ぐに、
皆の注目を集めていきました。



片や、わたし(賢治)のほうと云えば
優等生ではありましたが
内気で、
物事をはっきり言えない性格でした。


わたしは、嘉内と出会い
寝食を共にしながら
毎日、語り合ううちに
嘉内に触発されていきました。


出会って3ヶ月目の夏休みには、
互いに書いた短歌や手紙の
やり取りがはじまりました。



そのころからでしょうか………


わたしの内に秘めた
文学や哲学、芸術に対する
言い表しがたい情熱が
噴出してきたのです。


きっと、嘉内という
同じ思考を持った友との
出会いによって

わたしの魂が
外へと向かわせたのでしょう。


翌年『校友会会報』に投稿。

暫くして、投稿しているだけでは
物足らず友人


保坂嘉内・河本義行・小菅健吉ら
4人で、

文芸誌「アザレア」を、創刊しました。

短歌や詩には、
2人だけがわかる暗号も決めました。


詩織「ん?ちょっと待ってください、
まるで恋人のようですね?」

賢治「 (笑) 」

わたしと、彼は

まことの人が存在する”空”であり。


同じ思考の二人である証に”電信柱”を
巧に詠みまして、

詩織「晩年の電信柱の絵は?」

賢治「 (苦笑) 」


嗚呼、そう云えば

わたしが歩きながら[詩]を書く癖も
彼の真似かもしれません。


「アザレア」

創刊後、
2人だけの岩手山登山に行きました。

美しい銀河の夜

土手の上で誓い合った約束を

生涯 追い求めたわたしです。


彼は、わたしであり

わたしは、彼で有りたかった 





 ゜。.☆.。 :*゜ ゜*: 。


知らない間に

往く道が

遠く別れてしまった

曲がり角

風はどこに吹くのだろう

風はどこに吹くのだろう




岩手山の頂(いただき)で

見渡す限りの

田園に豊かにうねる北上の

川に映した青い空


鏡のような青い空。





抱きつつ選んだ

信仰とフラテルニテに

伝説のイーハトヴは

あるだろう

光に溢れた国といふ

イーハトヴに続く空

イーハトヴに続く空…



 ゜。.☆.。 :*゜ ゜*: 。









賢治の本当の気持ちはわかりません。

だけど、

賢治は嘉内と銀河の下で

誓った理想の国を

イーハトヴと名づけました。



そして、イーハトヴの姿を生涯

童話や詩に描いていきました。


そして、”修羅”という
賢治の作品のキーワードも

初めて嘉内が書いた戯曲に
登場するというのも



事実。



『宝石文学』



"石っころの賢ちゃん"は

時空を超えて

[宝石文学]を描(えが)くために


虎視眈々(こしたんたん)と

感性という宝石を研(みが)き、

言葉と云う[宝石]を

わたしたちに、

魅せてくれたのかもしれない。


.....................




あなたにとっての、
宮沢賢治とは
どんな賢治ですか?


多くの人が
「雨ニモマケズ」を思い浮かべ、
質素で清貧に生きた、
朴訥(ぼくとつ)な人物像を
思い浮かべるのではないでしょうか…


ところが、
賢治は、案外モダンだったと
思わせる作品があります。

その作品が、

『宮沢賢治 宝石図鑑』でした。



賢治は花巻農学校の教師になる前に
宝石商を職業にと考えていた時期があったと言います。

小さいころから鉱物収集が好きで
"石っころ賢さん"と呼ばれた賢治が
夢見た仕事でした。


しかし、
当時は挫折し教師になりはしましたが、

その後、
30以上の宝石や貴石が登場する
文学を数々描(か)いています。



たとえば

"正午の管楽(くわんがく)よりも琥珀のかけらがそそぐとき"

(春と修羅より)


と、まるで琥珀を印象派の点描のように
光がふりそそぐ様を現しています。


それから、

もっと豪華に宝石が登場するのが

童話『十力の金剛石』で、


”あられと思ったのは”

"みんなダイヤモンドやトパァスやサファイアだったのです"

と、きらめく丘や野原に輝く露を表現しています。

(You Tubeの動画もきれいです。)




人生が、

自分の思い描いていた

形と違う方向に

進むことがある。



しかし、

進む方向が変わっても

ふり返って見ると

到達地点が

最初から、

決まっていたんじゃないかと

思うときがある。



いま、

どんなに苦しくても

どんなに悲しくても

どんなに重くても

どんなに辛(つら)くても



気が遠くなるほどの

時間を経て誕生する

美しい石のように




耀く未来を見つめて

歩き出そう

自分の往(ゆ)く道を

信じて。



(画像は雑誌からの拾いです)


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