足が動かなくなって、私は緊急で耳鼻科病棟に入院しました。

このとき、まだ主治医は若チャンでした。

足が動かなくなった原因は若チャンにもI先生にも分からなくて

車椅子でしか動けなくなった私は

家族がいないときはずっとベッドの上で過ごすことに

トイレにすら歩いて行けなかったからポータブルを置いて

トイレの度に看護師さんを呼んで手伝ってもらわなきゃいけなかった。

カーテン一枚で仕切られた大部屋で。。。

音も何もかも聞こえる状態で用を足して

看護師さんに手伝ってもらって。。。

その後、全部片付けてもらって。。。


こんな恥ずかしくて、情けないことなかった...




手術への道のりも簡単な道じゃなかった。

手術は耳鼻科単独でできるほど甘くなくて…

巨大化した腫瘍+左の首、左胸〜背中にかけての巨大腫瘍。

その全てを取り除こうと思うと、耳鼻科以外に少なくとも。。。

胸部外科、血管外科、整形外科、形成外科、皮膚科、麻酔科が必要だったんだ…


若チャンが反対したぐらいだから当たり前かもしれないけど…

最初は誰も参加しようって言ってくれる科はなかった。


理由は手術の成功率の低さと

手術をしても腫瘍は2ヶ月ぐらいで元の大きさに戻るだろう...っていう二つ。

まぁ、簡単に言えば『やるだけムダ』って事。


でも、I先生は夜中までデスモイドの勉強をしたり資料を作ったりしながら

他の科の先生たちの説得を続けてくれました。

一番最初のイメージなんて、もうどこにもなかった。

私の為に諦めず説得を続けてくれてる先生を信頼しない患者なんて

どこにいるだろう。。。

もう、それだけでI先生で良かったって思った。

I先生に任せて。

それでたとえ手術できなくても。。。

たとえ手術中死んだとしても後悔は絶対しないって思いました。


申し訳ないんですけど...前任のW先生はまだ若くて

まず手術ができたように思えないし。。。

第一に一人の患者にそこまで尽力を注ぐようなタイプではなかったんです

淡々と仕事をこなすように患者を診るお医者さんだったから(>_<)

だから、あのタイミングでW先生からI先生に変わったのは運命だったって今は思うんです

I先生じゃなかったら、私は今 ココにいなかったとハッキリ言えるから。。。



だけど、本当に長かった。。。

私は、ただ待つしかなかった。。。

車椅子でしか動けなくて。。。

だけど、ずっと父がいるわけでもなかったから、ずっとベッドの上。

普段からインドア派で、入院しても基本はベッドの上にいる私も

さすがにいつもと状況が違いすぎてイヤだった。。。

だけど、高熱と腫瘍の重みから来るダルさやしんどさから

本を読む集中力も気力もないし。。。

ひどい頭痛があったせいでイヤホンで音を聞くのが苦痛で

テレビや音楽も聴けなかった。。。

しかも廊下側のベッドで、カーテンを閉め切った部屋は暗くて。。。

『せめて外の景色が見えたらなぁ...』ってずっと思ってた。


そんな私の為に、お姉チャンは病院の近くに安い民宿を借りてくれて

父は毎日Aそこから自転車で病院に来てくれた。

民宿と病院の間には長い坂道があって

きっと、そこを往復するのはお腹に負担がかかって。。。

自分だってしんどかったはずなのに、いれる限り私の傍にいてくれた。

それが嬉しくて、ありがたくて。。。

だから私は父の前ではずっと笑顔でいようと思ったんだ。

しんどい顔すら見せたくなかった。


それはきっと、父も同じだったと思う

父は1日2~3回は私をどこかに連れて行ってくれた。

同じフロアにある患者用の食堂や、エレベーター前の談話室。

6Fにある庭園や、1Fの花壇の側の休憩所。

ちょうど私が入院してる頃に緑のカーテンができてて

その緑がキレイで。。。

フウセンカズラの実もまぁるくて可愛くて癒されてました


それに、入院した病棟の環境も良くて。。。

特に、ある女の人とは出かけようとするたびによく会って挨拶をしてた。

その人は看護助手さんで、

60歳ぐらいだったけど、全然若くて明るくてパワフルでヾ(*≧∀≦*)ノ

会うたびに「みっちゃ〜ん。調子どう~?」って手を振りながら話しかけてくれて

すぐに仲良くなった

まるでお母さんのようで。。。

ここでは『ママさん』て呼ぼうかな

ママさんと仲がいいこともあって、掃除のおばさんとも仲良くなったし

看護師さんとも友達のように仲良くなった

私は基本、看護師さんを名前で呼ぶんです。

それは小さい頃から入院することが多くて自然と身についたというか。。。

なんか『看護師さん』って呼ぶのがイヤで。。。

上手く言えないけど。。。壁があるようで(>_<)

『人間対人間』で仲良くなりたいから。

そしたら一部の看護師さんたちも私のこと

「みっちゃん」って呼んでくれるようになって。。。

それがすごく嬉しかった(≧∪≦*)

だから、入院生活は そんなみんなのおかげで

楽しく笑顔で過ごせました



だけど一人の時間や夜は、その反動もあったのか

辛くてキツかった。。。

最初に予定していた14日の手術は結局流れて

ちっとも進まない状況に焦りや苛立ちを覚えて

手術はできるのか。。。

私は生きれるのか。。。

いつまで待ったら答えが出るのか。。。

何も情報が入ってこなくて

分からなくて、不安で。。。

でも誰にも言えないし、誰にも知られたくなかった。

だから平気なフリして

「なるようになるさ」って強がっていた。



そんな間にも腫瘍は大きくなっていって。。。

胸と胸の間にモイドがあったんですけど

大きくなった腫瘍が、そのモイドの上に覆いかぶさって

たぶん...腫瘍の感染がうつったのか

その胸のモイドの皮膚も、いつの間にか無くなってしまっていた。。。


そして、ガーゼ交換をする看護師さんが一人から二人、二人から三人。。。

最終的には四人がかりで交換しなきゃ難しくなって。。。

その上、巨大になった腫瘍からの浸出液はハンパなくて、

最後の方では一日二回は交換しなきゃダメになっていった。。。


そのうち、腫瘍の下の方が腐ってドロドロと溶け始めた…

感染と壊死から全身に回った菌には、どんな抗生剤を打っても効かなくて…




2011.7.2 青いのが全て腫瘍です

 

悪くなる一方の状態に対して進まない現状。

唯一の方法の手術。

まだできるか分からないけど、説明だけ先に受けることになった。

そこで説明されたのは。。。

唯一の方法の手術も成功率は限りなくゼロに近いってこと。


高カロリーの点滴を24時間打っていたけど

腫瘍から大事な栄養素が浸出液と共に大量に流れ出ていたから。。。

それだけじゃ追いつかなくて。。。

栄養不足で体力が低下している私には手術は耐えられない可能性が高いこと。


それと同時に腫瘍から大量の出血もしていたから血が足りなくて

手術中に大量出血すればショック死するかもしれないこと。


感染症が治らない状態で手術に踏み切ることの危険性。


それ以外にも手術中に3回くらい山場があるだろうとも言われた。


その前に麻酔の問題もあって。。。

まず麻酔をかけれるかが分からないって。

私の気管は腫瘍で潰されてるから一番太いところで4ミリしかなくて

これは超未熟児並で...

気管切開(喉を切って、そこから麻酔と呼吸の為の管を通す)しても

細い+曲がりくねってるから、管が通るかが分からなくて。。。

もし通らなかった場合、麻酔がかけられないから手術以前の問題で。。。

何もできないまま終わる場合もあるって。


そして...全て成功して手術が終わっても無事に気管がくっつくか分からないから...

もしくっつかなかった場合、管を入れ直して、一生 喋ることは出来ないって...。


 他にも色々言われた。

耳をふさぎたくなるようなこと、いっぱい。。。


でもそれで、I先生はもう一度だけ

私と父の意思や決意みたいなものを確認しておきたかったんじゃないかと思う。

命がけの手術で、

生きて帰ってこれるか保証もなくて、

その後も危険や後遺症の問題がいっぱいある。

それを聞いても手術を望むのか...

                                                                                              
I先生が他の科を本気で説得しにかかるかどうか決める

最終意思確認なんだろうな。。。と感じた。
                                                                                             

だから、私もお父さんと何度も真剣に話し合った。

だけど、私は「手術する」って考えを最後まで変えなかった。

一片の迷いもなかった。

怖いし、色んな覚悟がいる決断だったけど...

手術しなくても、年内には死んでしまう。

だったら...

ただ死ぬのを待つぐらいなら...

たった1%の可能性にでも、私は賭けたいって思った。

諦めたくなかった。

まだ、みんなといたかった...。

だから、誰のどんな話も、言葉を聞いても揺らがなかった。


絶対手術できる。

そして、絶対成功してみんなのとこに必ず帰ってくる!

そう、強く思ってた。

そう、強く信じてた。


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今回はここまでにします

また続き書くので、よろしくです