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ありがとう。


みなさま、今回は突然のことで心配をかけてしまって本当にすいませんm(__)m

そして、いっぱいの温かいコメント…ありがとうございます(>人<。)

本当に嬉しくて、嬉しくて…言葉で表せられないくらい胸がいっぱいです

なのに、一人一人にお返事書けなくて本当にすいません(。´Д⊂)


昨日、頸部〜骨盤にかけての造影CTを撮りました

それから点滴

24時間持続です


あとは、とりあえずCTの結果待ちです

一応、検査入院という形なので1週間ぐらいの予定みたいなんですけど…どうなるのかなぁ…って感じです


また、ちょこA更新できるときはして報告しますね

でゎAヽ(´∀`)

入院(>_<)


突然ですが。。。

明日。。。というか、もう今日だね


入院することになっちゃいました



実は二週間ほど前から、ほとんど食べ物を受け付けなくなっちゃったんです(>_<)


お腹は普通に空くんだけど

食べるとだんだんムカAしてきて

吐き気が出てきて

だから、飲み込めなくなってきて。。。

もぅ無理。。。みたいな感じになっちゃうのです


実は、16歳ぐらいのときにも似たような経験があって...

そのときは内臓の検査を徹底的にして、でも何もなくて。


そのとき大きくなってきてた首の腫瘍が中に向かって大きくなってて

気管も食道もありえないほど曲がってしまっていたから

「この腫瘍が神経を圧迫してるのかもしれない」ってことになり。。。


でも、神経は画像上写るわけでもないし

写ったとして、その神経に触れてるかとか。

その神経は何の神経かとか。

そんなの何も分からないから

本当にこの腫瘍が神経に悪さを働いているのか。。。

保障もなければ、確証もなかった。


だけど、内臓に何もない以上

それに懸けるしか方法はなかったから。。。

私は手術をした。


もし、手術をしても食べれるようにならなかったら

胃まで管を通して、そこから流動食を流し込む。

それで一生生きるしかないって言われてた。


結果、12時間かかった手術は成功。

大きな後遺症を残さない程度まで腫瘍を摘出して

私は無事、ご飯が食べれるようになったんです(*≧∀≦*)



それが人生2回目の手術だったんですけど

今回、書かせていただいてた5回目の手術をするまでは

この手術が私の人生で一番キツくて大変で

大変な手術でした



まぁ、でも今回も同じかどうかなんて分かんないし。。。

胃かもしれないし。。。

もしかしたら胸のとこの巨大モイドが食道や胃を

圧迫してるのかもしれないし。。。



ってことで。。。

とにかく原因をまず突き止めなきゃいけないし。。。

もう二週間なので脱水や栄養失調も怖いし。。。


ちょうど、昨日が外科とかの定期健診だったので

竹チャンに言ったら、そういう理由で。。。

「入院しましょう。今日する?明日する?」

あっさりwww

たったかた〜と助手の先生に指示を出して部屋もソッコー確保!!!


さすが、教授パワー(* ̄艸 ̄)プッwww


とりあえず。。。

私はあちこちにある巨大腫瘍の関係で

仰向けと右を向いてしか寝れないので

麻酔で眠らせて胃カメラしてくれるように頼みました。

あとは胸のモイド中心にCTを撮ることに。

もちろん造影を使うから今日採血をして帰ります。


とりあえず、その二つの検査で原因を探るしか今はない(>_<)

消去法ですね


検査が終わったら、とりあえず退院するのか。。。

それで原因が分かったとしてどうするのか。。。

いつまで入院しなきゃいけないのか。。。


また、長いトンネルになりそう。。。



えっと、それでですね。。。

PCを持って行けないので、しばらく更新できるか微妙です(>_<)

できるときは携帯で更新していきたいし

みなさんのとこにも遊びに行きたいんですけど。。。



とりあえず、今日はそのご報告だけでも。。。と思ったので

では。。。

とりあえず頑張ってきます(p* ̄^ ̄)qwww

5回目の手術B〜手術を迎えて終えるまで〜


私は覚悟を決めていた。

だけど、父は動揺してたし、揺らいでたと思う。。。
                                                                                                    
手術室に入ったら私が生きて出て来ないかもしれない。

それを受け入れて覚悟することは

父にとって、そんな簡単なことではなかったみたい...


それに、すごく焦ってた。

手術するなら一刻も早くしないと

モタモタしてたら手術したくてもできない状態になるんじゃないかって。。。


 私は嫌な予感がしてた。

父は昔、病気のせいで鬱病になって、抗うつ剤を飲んでた時期がありました。

薬を飲まなくていいまでにはなったけど

その後も何かのきっかけでヤケになって、自暴自棄になって

「もう死んだらいい」とか言って...

私の手には負えないくらい精神的にオチる時があって...

『本当に鬱は治ってるのかな』って思うことが何度もあったんだ。                                               
                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                         だから、今回もこんな進まない状態で

今どうなって、どこまで話がいってるのか何も分からない状況で

どんどん悪くなっていく私の姿を見続けて。。。

不安とか苛立ちとか、怒りとか恐怖とか

そんな感情を一人抱えて。。。

それで夜になって病院から帰って

民宿で一人色んなことをずーっと考えてたら。。。


絶対また鬱が出る。。。

そう思ったんです。

そしてそれは、近いうちに現実になるんですけど...

 


あの手術の説明から1週間ぐらいたった頃。

若チャンが来て、私の手術に必要な科の先生たちが集まって

話し合いをしたことを教えてくれた。

今回の話し合いの結果としては。。。

やっぱり参加するかどうかは言葉を濁してて

とりあえず、『もっと情報がほしい』って言われたらしい。

だから、もう少し詳しくCTを撮るのと、

腫瘍を生検して、デスモイドか確認してほしいって言われたらしい。

その結果を見て、もう一回話し合いをするって。

 



あはは。

今さら生検とか、デスモイドかとか...笑っちゃうよね。


若チャンが帰った後、一緒に話しを聞いていた看護師さんに。。。

「まだ決まらなかったかぁ(f´▽`)」って笑って言った。

「いつになったら決まるんだろう。。。

それに、おかしいよね。。。

だって私が入院してから他の科の先生誰一人として会いに来てないんだよ?

検査のデータとか情報とかほしいのは分かるけど。。。 

それもすごく大事だと思うけど。。。

それより私や家族の気持ちの方が大事なんじゃないのかな。。。

どうして検査とか生検の結果より、そっちを知ろうとはしてくれないんだろう。。。」

思わずそう言って泣いてしまった。


手術への決意は揺らがない。

それに変わりはなかったけど、でも...

もぅ...辛くて、苦しくて、空しくて、悔しくて

しんどくて、やるせなくて、哀しくて。。。

色んな感情がぐちゃぐちゃになって溢れてしまってた。。。

こんな状態になって、人前で泣いてしまったのは二回目だった。

こんなに人前で泣くなんて自分でも信じられなくて...

でも、それだけ色んなことが不安で、キツくて...

心が疲れてた。

看護師さんはそんな私の手を握って

「本当にそうだね。

これからはもっと我慢せずに、そうやって思ってることを吐き出してほしい。

我慢強いとこ、みっちゃんのすごいとこだけど、それではパンクしちゃうから」

って言ってくれた。

その言葉と手が優しくて、私はまた泣いてしまって、

看護師さんは私が落ち着くまで傍にいてくれました
 

ちょっと泣いて、思ってることを聞いてもらったら少し楽になって

『よし。まだ頑張れる』って思った。

だけど、父は違った。

メールで若チャンから聞いたことを伝えたら

『もう無理だ』って返ってきた。

『もういい。パパはもう無理。

これ以上決まらなかったら手術できないで終わるよ。

ただ死ぬのを待って終わりだ。

パパはそんなあんじゅの姿見ていられないから、

先に死んで待ってるから、お姉ちゃんたちに看取ってもらって。

パパは先に行って待ってるから』って。。。

恐れてた鬱が出てしまったんです。


メールでやり取りをしてたけど、返ってこなくなって

このまま放っといたら父はもう、本当に病院に来なくなるって思った。

だから、どうしても今電話をかけなきゃって思って看護師さんにお願いをした。 

「もう23時過ぎてるし、看護師が三人しかいなくて。。。

明日じゃダメなの?」

返事がそうなのは分かってた。

無理は言いたくない。

だけど、これだけは譲れなかった。

電話すら自分一人でかけに行けないことが悔しかったけど

今の私は頼るしかなかったから。。。

必死にお願いしてエレベーター前の電話BOXまで連れてってもらった。


電話に出てくれるか心配だったけど、なんとか出てくれた。

メールと同じようなことを繰り返す父に私は

思いつく限りのことを言って説得しようとした。


「もう1週間だけ待って。それでダメなら私も諦めるから!」

「お姉ちゃんに診てもらえばいいって言ってるじゃん。

パパはもう無理だしイヤだって...」

「お姉ちゃんじゃダメなの。

同じ病気で、私の辛さや痛み、不安も全て

言わなくても分かってくれるのパパだけなの。

パパがいるから頑張れるの。代わりなんていないの!」


そんな会話を1時間ぐらいしただろうか。。。

何とか明日は病院に来てくれるって約束してくれた。

そこでちょうど、交代した深夜勤の看護師さんが迎えに来てくれて

部屋まで送ってくれながら。。。
      

「お父さん、大丈夫でしたか?」

「なんとか

ありがとうございました。ワガママ聞いてくれて。。。」

「またいつでも言って下さいね夜中でも大丈夫ですから」

そう言ってくれたのが嬉しかった。


車椅子では扉が閉まりきらなくて、きっと会話は筒抜けだったと思う。

でも、あえてそこには触れず、優しく気遣ってくれたことが嬉しくて。。。

本当にここの看護師さんたちはいい人たちばっかりだなって
 
実感しっぱなしの一日でした


そして次の日。

朝一番に来てくれた父の顔を見るなり私は泣きじゃくってしまった(>_<)

色々、なんて言おうか考えてたけど。。。

そんなのは全部ふっ飛んで

ただ泣きじゃくって。。。

「パパがいなきゃムリだょ。。。」って。


お恥ずかしい話ですが

あとから聞いた話、これが一番効いたらしいので

人前でたまには泣くのもいいのかなって思ったりww


それから言われた通りCTと生検をした私は、また父と二人。

根気強く...でも、あんまりそればっかり考えないように

結論を待ちました。


でも。。。ここでまた問題が(>_<)

父がイレウス(腸閉塞)になってしまったのです(>_<)


まぁ、幸い病院だったし。。。

もう何度もイレウスになってるので感覚的に自分で分かるようになってる父は

早めに救急外来に行き

いつも通り痛み止めの処置をしてもらいました。

おかげで二泊三日の入院と絶飲食の軽症ですんだ父は

次の日病院のパジャマ姿で点滴ついて

私の病室までお見舞いに来て

看護師さんたちを驚かせていましたが(´∀`)www


でも、きっと原因は極度のストレスと、ずっと私についていること。

そして往復の坂道なのは間違いなくて。。。

父の体も限界に近いことは明らかでした。




そしてようやく結論が出ました。

7月13日のことでした。


結論から言うと、手術はできることになりました(≧ω≦)


だけど...結局 手術に参加してくれる科は耳鼻科以外に皮膚科と麻酔科の二科。

緊急入院してから19日目...

色んな検査をして、2回の話し合いを経て...

手を上げてくれたのは、本当に手術する為の最低ラインの科だった。
 


でも、それでもよかった。

私には手術できるって事が何より一番大事だったから。


もちろん、最低限の手術しかできない。

本当に今回大きくなった、あの腫瘍だけ。

それも成功する確率は限りなくゼロ。


だけどね、手術できるって決まった瞬間ホッとした。


余命宣告を受けて、不安と恐怖でいっぱいで

正直、毎晩のように泣いてた。。。


だけど、そんな感情が嘘のように消えたんです。

いい意味で、腹が据わったって言うのかな。

「死」を受け入れることが自然にできて

覚悟もできて。

それと同時に「生きる」ことへの執着心が生まれました。

だから遺書もちゃんと書くことができました。

お父さんと、お姉ちゃんと、心友宛に。。。

きっと

「ちゃんと」っていう言い方はみんなからしたら違和感があるかもしれないけど

私は、「死」を受け入れたからこそ

逆に遺書を遺せたんだって思うんです。


どう説明すればいいのか分からないけど。。。

「死」を受け入れられなかったら、そんな余裕なかったと思うんだ。

自分の思ってること、伝えたいことをまとめることなんてできなかっただろうし

きっと、そんなことすら思いつかなかった。

自分が死んだ後のことを考える余裕ができたからこそだと思うんです


まぁ、こんなことがなければ私も分からなかったと思うんですけどね

「死ぬかもしれない」って思うから遺書を書くんだと思ってたし

「死」と「生」は相反するものだって思ってたから。。。


でも、今回のことで私は

きちんと「死ぬ」ことを考えられるから

「生きる」ことへの強い執着心が生まれるんだって知りました。

そして冷静に、自然に「死ぬ準備」ができたから

「生きる」ことだけ考えられたんだって。。。




そして、19日に高知から心友が来てくれました。

私が個室から出るまで、父と交代で私に付いててくれるために

仕事も休んで。。。


仲のいいボラ友たちも何回もお見舞いに来てくれた。


お姉ちゃんや、お父さんも傍にいてくれた。


「死」を受け入れた上で「生きる」ことで

私には自然に余裕が生まれて。。。

手術日まで、みんなと穏やかに笑って過ごすことができた


手術の前々日に血管造影をして

手術前日には1Lの輸血をした。


そして、手術当日。

お父さんと、お姉ちゃんと、心友の三人が手術室に入るのを見送ってくれた。


「行ってらっしゃい」って言ってくれたから

「行ってきます!」って返した

 
そして、2011年7月22日。

私は手術をしました。

結果…私は生きてます
 

言わなくても分かってるだろうケドwww
 

手術時間13時間。
 

問題の麻酔も1時間半くらいかかったけど、無事に乗り越えて…
 

輸血は約4L。
 

全身の血を入れ替えるほどの出血をして…
 

一度は危なかったみたいだけど…なんとか乗り越えて…
 

私は、みんなの所に帰ってきました

5回目の手術A〜手術までの道のり〜


足が動かなくなって、私は緊急で耳鼻科病棟に入院しました。

このとき、まだ主治医は若チャンでした。

足が動かなくなった原因は若チャンにもI先生にも分からなくて

車椅子でしか動けなくなった私は

家族がいないときはずっとベッドの上で過ごすことに

トイレにすら歩いて行けなかったからポータブルを置いて

トイレの度に看護師さんを呼んで手伝ってもらわなきゃいけなかった。

カーテン一枚で仕切られた大部屋で。。。

音も何もかも聞こえる状態で用を足して

看護師さんに手伝ってもらって。。。

その後、全部片付けてもらって。。。


こんな恥ずかしくて、情けないことなかった...




手術への道のりも簡単な道じゃなかった。

手術は耳鼻科単独でできるほど甘くなくて…

巨大化した腫瘍+左の首、左胸〜背中にかけての巨大腫瘍。

その全てを取り除こうと思うと、耳鼻科以外に少なくとも。。。

胸部外科、血管外科、整形外科、形成外科、皮膚科、麻酔科が必要だったんだ…


若チャンが反対したぐらいだから当たり前かもしれないけど…

最初は誰も参加しようって言ってくれる科はなかった。


理由は手術の成功率の低さと

手術をしても腫瘍は2ヶ月ぐらいで元の大きさに戻るだろう...っていう二つ。

まぁ、簡単に言えば『やるだけムダ』って事。


でも、I先生は夜中までデスモイドの勉強をしたり資料を作ったりしながら

他の科の先生たちの説得を続けてくれました。

一番最初のイメージなんて、もうどこにもなかった。

私の為に諦めず説得を続けてくれてる先生を信頼しない患者なんて

どこにいるだろう。。。

もう、それだけでI先生で良かったって思った。

I先生に任せて。

それでたとえ手術できなくても。。。

たとえ手術中死んだとしても後悔は絶対しないって思いました。


申し訳ないんですけど...前任のW先生はまだ若くて

まず手術ができたように思えないし。。。

第一に一人の患者にそこまで尽力を注ぐようなタイプではなかったんです

淡々と仕事をこなすように患者を診るお医者さんだったから(>_<)

だから、あのタイミングでW先生からI先生に変わったのは運命だったって今は思うんです

I先生じゃなかったら、私は今 ココにいなかったとハッキリ言えるから。。。



だけど、本当に長かった。。。

私は、ただ待つしかなかった。。。

車椅子でしか動けなくて。。。

だけど、ずっと父がいるわけでもなかったから、ずっとベッドの上。

普段からインドア派で、入院しても基本はベッドの上にいる私も

さすがにいつもと状況が違いすぎてイヤだった。。。

だけど、高熱と腫瘍の重みから来るダルさやしんどさから

本を読む集中力も気力もないし。。。

ひどい頭痛があったせいでイヤホンで音を聞くのが苦痛で

テレビや音楽も聴けなかった。。。

しかも廊下側のベッドで、カーテンを閉め切った部屋は暗くて。。。

『せめて外の景色が見えたらなぁ...』ってずっと思ってた。


そんな私の為に、お姉チャンは病院の近くに安い民宿を借りてくれて

父は毎日Aそこから自転車で病院に来てくれた。

民宿と病院の間には長い坂道があって

きっと、そこを往復するのはお腹に負担がかかって。。。

自分だってしんどかったはずなのに、いれる限り私の傍にいてくれた。

それが嬉しくて、ありがたくて。。。

だから私は父の前ではずっと笑顔でいようと思ったんだ。

しんどい顔すら見せたくなかった。


それはきっと、父も同じだったと思う

父は1日2~3回は私をどこかに連れて行ってくれた。

同じフロアにある患者用の食堂や、エレベーター前の談話室。

6Fにある庭園や、1Fの花壇の側の休憩所。

ちょうど私が入院してる頃に緑のカーテンができてて

その緑がキレイで。。。

フウセンカズラの実もまぁるくて可愛くて癒されてました


それに、入院した病棟の環境も良くて。。。

特に、ある女の人とは出かけようとするたびによく会って挨拶をしてた。

その人は看護助手さんで、

60歳ぐらいだったけど、全然若くて明るくてパワフルでヾ(*≧∀≦*)ノ

会うたびに「みっちゃ〜ん。調子どう~?」って手を振りながら話しかけてくれて

すぐに仲良くなった

まるでお母さんのようで。。。

ここでは『ママさん』て呼ぼうかな

ママさんと仲がいいこともあって、掃除のおばさんとも仲良くなったし

看護師さんとも友達のように仲良くなった

私は基本、看護師さんを名前で呼ぶんです。

それは小さい頃から入院することが多くて自然と身についたというか。。。

なんか『看護師さん』って呼ぶのがイヤで。。。

上手く言えないけど。。。壁があるようで(>_<)

『人間対人間』で仲良くなりたいから。

そしたら一部の看護師さんたちも私のこと

「みっちゃん」って呼んでくれるようになって。。。

それがすごく嬉しかった(≧∪≦*)

だから、入院生活は そんなみんなのおかげで

楽しく笑顔で過ごせました



だけど一人の時間や夜は、その反動もあったのか

辛くてキツかった。。。

最初に予定していた14日の手術は結局流れて

ちっとも進まない状況に焦りや苛立ちを覚えて

手術はできるのか。。。

私は生きれるのか。。。

いつまで待ったら答えが出るのか。。。

何も情報が入ってこなくて

分からなくて、不安で。。。

でも誰にも言えないし、誰にも知られたくなかった。

だから平気なフリして

「なるようになるさ」って強がっていた。



そんな間にも腫瘍は大きくなっていって。。。

胸と胸の間にモイドがあったんですけど

大きくなった腫瘍が、そのモイドの上に覆いかぶさって

たぶん...腫瘍の感染がうつったのか

その胸のモイドの皮膚も、いつの間にか無くなってしまっていた。。。


そして、ガーゼ交換をする看護師さんが一人から二人、二人から三人。。。

最終的には四人がかりで交換しなきゃ難しくなって。。。

その上、巨大になった腫瘍からの浸出液はハンパなくて、

最後の方では一日二回は交換しなきゃダメになっていった。。。


そのうち、腫瘍の下の方が腐ってドロドロと溶け始めた…

感染と壊死から全身に回った菌には、どんな抗生剤を打っても効かなくて…




2011.7.2 青いのが全て腫瘍です

 

悪くなる一方の状態に対して進まない現状。

唯一の方法の手術。

まだできるか分からないけど、説明だけ先に受けることになった。

そこで説明されたのは。。。

唯一の方法の手術も成功率は限りなくゼロに近いってこと。


高カロリーの点滴を24時間打っていたけど

腫瘍から大事な栄養素が浸出液と共に大量に流れ出ていたから。。。

それだけじゃ追いつかなくて。。。

栄養不足で体力が低下している私には手術は耐えられない可能性が高いこと。


それと同時に腫瘍から大量の出血もしていたから血が足りなくて

手術中に大量出血すればショック死するかもしれないこと。


感染症が治らない状態で手術に踏み切ることの危険性。


それ以外にも手術中に3回くらい山場があるだろうとも言われた。


その前に麻酔の問題もあって。。。

まず麻酔をかけれるかが分からないって。

私の気管は腫瘍で潰されてるから一番太いところで4ミリしかなくて

これは超未熟児並で...

気管切開(喉を切って、そこから麻酔と呼吸の為の管を通す)しても

細い+曲がりくねってるから、管が通るかが分からなくて。。。

もし通らなかった場合、麻酔がかけられないから手術以前の問題で。。。

何もできないまま終わる場合もあるって。


そして...全て成功して手術が終わっても無事に気管がくっつくか分からないから...

もしくっつかなかった場合、管を入れ直して、一生 喋ることは出来ないって...。


 他にも色々言われた。

耳をふさぎたくなるようなこと、いっぱい。。。


でもそれで、I先生はもう一度だけ

私と父の意思や決意みたいなものを確認しておきたかったんじゃないかと思う。

命がけの手術で、

生きて帰ってこれるか保証もなくて、

その後も危険や後遺症の問題がいっぱいある。

それを聞いても手術を望むのか...

                                                                                              
I先生が他の科を本気で説得しにかかるかどうか決める

最終意思確認なんだろうな。。。と感じた。
                                                                                             

だから、私もお父さんと何度も真剣に話し合った。

だけど、私は「手術する」って考えを最後まで変えなかった。

一片の迷いもなかった。

怖いし、色んな覚悟がいる決断だったけど...

手術しなくても、年内には死んでしまう。

だったら...

ただ死ぬのを待つぐらいなら...

たった1%の可能性にでも、私は賭けたいって思った。

諦めたくなかった。

まだ、みんなといたかった...。

だから、誰のどんな話も、言葉を聞いても揺らがなかった。


絶対手術できる。

そして、絶対成功してみんなのとこに必ず帰ってくる!

そう、強く思ってた。

そう、強く信じてた。


*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*

今回はここまでにします

また続き書くので、よろしくです

5回目の手術@〜余命宣告〜


2011年。

この年は私の運命の年でした。

この手術が成功しなければ…というか、そもそも手術ができなければ…。

私は今、ここにいなかった。



始まりは4月...。

左首の腫瘍の上にできた小さなかさぶたでした。

ある日、そのかさぶたに爪が引っ掛かって無理に剥がれてしまって...(>_<)

最初は笑ってた。

私も、お父さんたちも。

下の写真みたいに、かさぶたになったり、また傷になったりを繰り返してたけど...。




「腫瘍の上だから治りが悪いんだ」って思ってた。

でも、そのうち傷から腫瘍が出てきて...みるみる大きくなっていったんだ

それはもう、生き物のように...あっという間に...


テレビのリモコンと同じくらいの幅になり...

ソフトボール大になり...

顔と同じくらいになり...

あっという間に顔の2倍以上の大きさになっていった...。

その時の写真がコレ

※あまりにも衝撃的な写真です。皆さんの想像をはるかに超えていると思います。グロテクスなものが苦手な方は見ないようにして下さい!!万が一気分が悪くなったりしても責任は取れませんので申し訳ありませんがよろしくお願いしますm(_ _)m※

 http://blogs.yahoo.co.jp/anju135wing/45806482.html


主治医も私達も、デスモイドという腫瘍の恐ろしさを改めて感じ

そして、ただただその成長が止まるのを祈るしかない無力さにうちひしがれてた...。

でも、そんな祈り通用するハズもなく...

皮膚がない状態の腫瘍からは血液とか浸出液が常に流れ出る状態で

毎日のガーゼ交換が絶対になった。


1ヶ月たつ頃には、お風呂に入ることが困難になりました...。

だけど、なるべく清潔にしなきゃいけないから可能な限り入るよう努力した。。。

けど、死ぬような思いだった...。

左手は元々、麻痺や胸〜背中にかけての腫瘍のせいで動かしずらかったのに

今回の腫瘍が邪魔して さらに動かせないから何をするにも右手一本。

髪を洗うのに上は向けないし、

下を向くと腫瘍の重みで皮膚や組織が引きちぎられそうな感じがして

激痛が走って耐えられなかった...(>_<。)

太ももや手で支えていたから何度洗っても、すぐ血がついた。

お風呂から出て体を拭いていると血が流れて体もマットもすぐ血だらけ...。

なかなかお風呂から出ることができず、

色んな意味でお風呂から出るといつも疲れ果ててた...(>_<。)


でも、一番キツかったのは…鏡に映る自分の姿だった...

変わり果てた自分の姿...

この世のものとは思えない…醜い化け物となった自分を見るたびに

溢れ出る涙を止めることはできなかった...



最初はお父さん一人でできていた毎日のガーゼ交換も次第に難しくなっていって...

近くの病院で交換してもらったり、

お姉チャンに手伝ってもらわなきゃいけないほどになっていった


そのうち左肩〜左手にかけてむくみが出だして、

常に8度〜9度の高熱が続くようになった...。

恐れていた感染が起こってしまったんです...。

あまりのむくみの酷さで動くことが辛くなって

どうにもならなくなって若チャンに手術ができないか相談をした。

...だけど、あまりの腫瘍の巨大さに大量出血の危険性がある事と

成功率の低さが理由で手術は反対された...。


予想はしてた...。

この腫瘍の怖さを誰より知ってるから...

でも...だからこそ私達の口から「手術」の一言が出てくるのが

どれほど切迫していたかを物語っていると思う...。


だけど...若チャンの口からは

「僕は反対。やりたくない」の一言で...

それはつまり、どういうことかなんて考えなくても分かることで...

そんな あまりに辛い状況に...

「じゃあ、どうしたらいいの?今のまま生きていくしかないの?」って泣いてしまった...。

若チャンの前で泣いたのは、後にも先にもコレ一度きりです。

人前で泣くことは苦手で...めったになくて...

だけどもう私には...涙を止める理由も方法も分からなかったんだ...。



どうにもならない現実...。

若チャンと一緒にずっと看てくれてた看護師サンが優しく肩をさすってくれたから...

それが余計に涙を止められなくした。。。

本当は早く止めたかったんだけど...

その涙が若チャンを責めてるような気がして...それがイヤだった...。

ずっと診てくれてた若チャンだって辛いのは分かってたから...。



それからは、現実を受け止めて何とか生活をした。

諦める事は得意だったから。。。


でも、何もできないのに絶対必要なガーゼ交換。

本当に大変で、それだけで1時間半くらい時間が必要で...

私はもう、お父さんやお姉チャンに迷惑をかけるだけの存在でしかない気がした。

抗生剤を飲んでも下がらない8度の熱が辛くてしんどくて...

腫瘍の重みとむくみのせいで思うように動けなくて、一日中座って過ごした。

そしたら自分が人形のように思えたりして。。。

テレビを見ても、みんなとおしゃべりしてても笑ったフリをしてるだけ。。。

心から笑うことも、楽しいもなくて

ただボーっと。。。座ってた。

『どうせもう死ぬのを待つだけなんだから早く連れてってくれたらいいのに。

もう、少しでもみんなの負担になりたくない』

そんなことをただ考えてた気がする...


正直、このときらへんの記憶はあんまりなかったりする(>_<)

高熱のせいでボーっとしてたからかもしれないし

無気力だったせいかもしれない。


その中でも一番考えられるのは『意識障害』

この頃の私は、よく意識がなくなるようになってたんです。

それは本当に眠るように。

だから本当に最初は意識障害と分からなくて

ただ熱やダルさ、疲れのせいで眠ってしまってるだけだと思ってたんです。

でも、自分では『眠たい』なんて感覚はなくて

ただ気付いたら寝ていた...っていう状況や、

父が、私がそうなる前に必ず白目をむいていることに気付いたこと、

さっきまで眠たい素振りも見せてなかったのに気付いたら眠ってること。

それはテレビを見ていても、誰かと会話していても。。。

1日に10回前後は必ず起こるようになっていました。

それが感染のせいで起こっていたのか何なのかは今だに分からないんですけど(>_<)


なので、この辺からは私のかすかな記憶と父から聞いた話を基に書きますね


6月21日、耳鼻科診察日。

腫瘍外来で半年ほど診てもらったW先生が転勤することを聞かされました。

そして、その場で引き継ぎの先生を紹介されました。

それがI先生との出逢いでした。

患者さんでも誰でも敬語で優しく丁寧に話す、ものすごい腰の低い先生で。。。

腫瘍専門のお医者さんのくせに「デスモイド腫瘍をあまりよく知らない」なんて言うから

その言葉と、あまりにお医者さんらしくない物腰柔らかな雰囲気が

頼りないように感じて第一印象はちょっと不安でした(´∀`;)w


でも、そのI先生が一言。

「手術の方向で考えていきましょう。僕もデスモイドの勉強をします。

一緒に頑張りましょう」って言ってくれたんです。


嬉しかったぁ。

簡単な道のりではないし、上手くいくかも分からないけど

『手術できるかもしれない』ってことが。。。


単純かもしれないけど

たったそれだけのことで、また『頑張ろう』って思えた。

まだ諦めなくてもいいって事が、ただただ嬉しかった


それから、とりあえず7月14日に手術の予定を入れた。

その2日ぐらい前に入院して14日に手術。。。

本当に“とりあえず”ですけどね


まだI先生もデスモイドを勉強しなきゃいけないし

どう手術を進めようかとか。。。

他の科にも協力を要請しなきゃいけないし。


でも、それらが上手くいったとして 。。。

それから手術室を押さえようと思っても、さらに1ヶ月後とかになってしまうから

とりあえず押さえとこうってことになったわけです。


そんなに待っていられる余裕なんて私にはもうなかったから。。。


これより少し前。

私は若チャンから余命宣告を受けていたんです...

「このまま何もできなかったら年は越せないと思う」って...


つまり、余命半年ってこと。。。なんだよね?

テレビでよく見る通り、本当にあんまり実感もなく。。。

でも、そんなに抵抗もなく。。。

本当に“ストン”って受け止めた感じだった。


「あぁ。そっかぁ。。。」って。


だから余計にI先生の言葉が嬉しかったのかな。

 
若チャンにも、I先生が「手術の方向で...」って言ってくれたことを伝えたら

最初あれだけ反対してた若チャンが

「みっちゃんが決めたことなら僕もできる限りのことするね」って言ってくれて。。。

すごく嬉しかった。


だから、どんなに大変でも最後まで諦めずに頑張ろうって思った。



でも、手術までの道は本当に大変でした。

私たちはもちろん、先生たちでさえも予想できないスピードで

事態は急激に悪化したから。。。


それは、耳鼻科診察日からわずか3日後の事。

目が覚めると左足が動かなくなってたんです...

何の前触れもなく、突然に...

その日は、壁伝いと父の手を借りてようやく歩いていたのに...

その次の日には右足まで動かなくなってしまって。。。

歩くどころか、立つことも出来なくなって...

一人でトイレにも行けなくなった私は救急車で運ばれて、そのまま緊急入院した。

6月25日の事でした。


*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*


長くなってしまったので、今回はこの辺で一度終わりますね〜

読んでくれてありがとうございました

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