狭い洞窟を飛ぶには、リザードンは小回りが利かない。しかし谷底へ降りるよりはマシだろうと、向こうへ運んでもらうことにした。他に底には訳の分からないものが居るし、レッドは寒さに凍えて身体能力が落ちている。そんな状態で谷を上り下りするのは危険だと判断した。

 運んでくれたリザードンを再びボールに仕舞い、洞穴(どうけつ)から外を見やる。一面の銀色世界に、ぱら、ぱら、と思い出したように雪が舞い落ちている。不思議な光景だった。秋の足音が聞こえてきた頃合いとは言え、昼は未だ暑さに辟易(へきえき)とするのに、ここだけ冬に閉ざされているようだ。自然の生み出す景色は、町々を訪ねるのとはまた違った、不思議な感動を呼び起こした。
 しかし我に帰ってみれば、こんなところにカンジュがいるのが何よりの不思議だと思った。ゴーストタイプのトレーナーである彼が、何を思ってこの凍り着いた山を訪れたのか。マヒルが見せてくれた、得体のしれないポケモンらしき物体と関係があるのだろうか。例えそうだとしても、ここへの立ち入りには条件があるはずで、彼がリーグを勝ち抜いたと言う話も聞いたことがない。
 疑問を解くためにも、レッドは足を踏み出した。

 足跡のない雪原を踏みしめると、思ったより硬かった。雪の降る気温ではあるが、それでも季節には勝てないらしく、積もっているのはパウダースノーとは程遠い。水分を含んでべちゃりとしているそこを、すべらないようにと慎重に歩く。そんなレッドをマヒルがゆっくりと導いた。
 そうやって進んでいる内に、離れた地面から急速にもやが立ち上った。跳ねあがった心拍はすぐに落ち着きを取り戻す。この光景はつい二時間前にも見たし、マヒルも警戒していなかったからだ。
 靄が形作ったのは、大きな顔と手だけの黒いポケモン、ゴーストだった。カンジュの手持ちにゴース系統はマヒルの他にもう一匹いたが、すでにゲンガーへ進化している。知らない間に入った新しい子なのだろうと思う。初対面のゴーストは、ぎょろりとした目にあからさまな警戒を乗せてレッドを見つめている。

 前方に気を取られていると、背後からひゅろろと、ゴーストタイプのポケモンが浮遊する独特の音が聞こえてきた。振り返ればどこに隠れていたのか、笑顔のムウマージがゆっくりと近づいて来ていた。
「……キン?」
 目を細めて笑う、その笑い方に覚えがあった。最後に会った時はまだムウマだった。彼の特徴だった、瞳孔が小さく白目の部分が大きいのは進化しても変わっていない。
「久しぶり、元気だった?」
 昔と変わらずに鳴き声はなく、こくりと頷くだけだ。が、金色の瞳は懐かしそうに、優しげに弧を描いている。釣られて笑ったレッドの肩に、ぽん、と手が置かれた。
「ワー!」
「わー!?」
 びくりと肩を跳ねさせ、ばっと振り向いたレッドの眼前に一つ目のポケモンがドアップで写り、そいつがワーっと声を上げたものだから、レッドも思わず叫び返してしまった。
 きらきらと輝く赤い瞳がにたあっと笑う。悪戯好きのゴーストタイプらしい笑い方をされてしまえば、何も言う気は起きなかった。彼らなりのコミュニケーションを否定する気はない。

「……君も、カン、ジュ、さんの仲間?」
 つい飛び出しかけた呼びなれたあだ名だが、初めて会う子に通じるか疑問だった。途中で無理やり修正して問えば、ヨノワールはこくこくと頷いた。ポケモンたちの明るい様子に、カンジュに変わりはないようだと、安堵が生まれる。流れた月日の長さとマヒルの歯切れの悪い様子、さらに居場所の不可解さに、漠然と感じていた不安が和らぐ。
「僕はレッド。よろしく」
「ヨノー」
 人懐こくも差し出されたヨノワールの手を握り返す。山頂付近の寒さにやられてすっかり冷え切った手には、ゴーストタイプの低い体温さえ暖かく感じられた。

 け、と、掠れるようなマヒルの声に振り向く。やわらかなとげの生えた背中の向こう、ゴーストの隣に青年が立っていた。カンジュの仲間たちが居るのだからここに居るのはカンジュだろう。そう思うのに、記憶の中の元気な少年と表情の抜け落ちた青年が重ならない。
 同じなのは、くるくるとした濃い茶色のくせっ毛だけだと思った。彼はいつだって、満面の笑みを浮かべて名前を呼び、会いたかったと再会を喜んでくれたのに、今は別人のように無表情だ。オレンジや水色など明るい色の服を好んでいたのに、モノクロで身を固めている。冬でも濃い色をしていた肌は、驚くほど白い。なにより、うつろな瞳がおかしかった。昔は、明るいオレンジの瞳をいつだってきらきらと輝かせていたのに。

 本当に彼なのか自信が持てず、彼の名を呼ぶか迷って僅かに開いた口は、声を出すどころか呼吸さえ潜めていた。
 長く感じる、数瞬の後。青年のぼんやりと定まっていなかった視線がレッドへ焦点を結んだ。
(どうしよう)
 声をかけようかとまだ迷うレッドの前で、青年は驚いたように目を見張る。
「……本当に、レッドか?」
「……カンちゃん」
「え、マジか。うっわ、久しぶり〜!」
 破顔した青年が近づいてくる。ゴーストは慌てた様子で、カンジュの影に吸い込まれるように消えた。

 心から嬉しそうな満面の笑みや大股気味の歩き方、表情を浮かべた顔は少年の面影がある。全体的な雰囲気が少年と一致する。瞳も先程まで生気が感じられなかったのが嘘のように生き生きとしている。
 観察している間にカンジュはレッドの目の前までやって来て、レッドの帽子を取り払ってくしゃくしゃに頭を撫で回してきた。
「え、ちょ、あ」
「ははは、相変わらず真っ直ぐな髪してんなー」
「……ぶふ」
 昔と全く変わらない行動に、呆気に取られた。二年もの間、連絡がなかったなど思えない程、普通の態度だ。驚愕はやがて笑いへと転じた。一度吹き出すと笑いが止められない。
「はは、あははははは、カンちゃん、ははは、変わらない」
「そこはますます格好良くなったって言ってほしいな〜。まあレッドの成長ぶりには負けるけど」
 どきりとした。会いたい一心でここまで来てしまったが、レッドがチャンピオンになったことを知ってカンジュはどう思うのだろう、と今更ながら不安が押し寄せてきた。

 学校で顔を知っていただけの級友が急に連絡を取ってきたように、彼も態度を変えるだろうか。以前と同じ仕草の中に、昔とは違う意味が込められてはいないだろうか。
 従兄弟という属柄ではあるが家族同然に接してきた相手を疑うなんて、とも思う。しかし疑心は止められない。心に影が差し、笑みが消える。
「本当に大きくなったな、昔はこーんなちびだったのに」
 こんな、と親指と人差し指で数センチ程を示され、呆気にとられた。
「……あれ、俺滑った?」
「う、うん……」
「やだ、人間なのに絶対零度放っちゃった。恥ずかしい」
 特に恥ずかしいとも思ってなさそうな表情でそんなことを言いながら、ぱっと両手で顔を覆ってみせた。そんなリアクションも束の間、すぐに顔を出したカンジュはレッドの肩のあたりを示しながらカンジュは首を捻った。
「最後に会った時、このくらいだったかな。……ううん? 俺の肩より小さかった、って記憶はあるんだけど、俺も背ぇのびたからなあ」
 よくわからないと悩むカンジュに、レッドはたぶんこのくらいだった、と自分の頬のあたりを示す。二年半程度で三十センチも伸びた記憶はない。
「あれ、そんなもんだっけ? もっと大きくなってるような気が……そうか、顔立ちが大人っぽくなったのか!」

 伸びてきた手がむにりと柔らかく頬を摘み、もう子供の頬じゃないんだなあ、としみじみ呟いた。手袋のない手は冷えきって、同じく冷えているレッドの頬にほんのわずかな温もりも感じさせなかった。悴(かじか)んで動かしにくいだろう指先は、しかし優しく痛みなど感じさせない力加減だ。それが何故だか無性に可笑しくて笑いそうになったが、素直に笑うのはなんとなく恥ずかしく、無理やりしかめっ面を作った。
「……父さんと同じこと言ってる」
「そりゃあ、なあ? 久々に会う家族だもん、おんなじ感想出てくるよ」
 赤ん坊の頃のマシュマロみたいな頬だって知ってるんだから、と何故か嬉しげに笑うカンジュにレッドは不機嫌な表情をしてみせた。昔のことを言われるのは気恥ずかしい。

 不意にぶるりと体が震え、ぶしゅっ、とくしゃみが漏れた。
「寒いのかよ! 上着かしてやるから」
「いい、いらない。カンちゃんのが寒がりじゃん」
「レッドが暑がりだからそう思うだけで俺は普通だよ。くしゃみしてるんだから大人しく受け取れって」
「いいよ、リザードン出すから」
 きょとんとしたカンジュの前でレッドはリザードンを呼び出した。体温の低いゴーストタイプしかいないカンジュから防寒具を奪う訳にはいかないという思いやりからだった。
「レッドの仲間、なんだよな」
「うん……?」
 ニュースを見ていればレッドの手持ちなど知っているはずで、驚くことなどない。知らない風なのがおかしかった。

 そもそもカンジュは、バトルに熱心だった。今の四天王勝ち抜き式のリーグの前身、勝ち残り式トーナメント時代のリーグで何度も入賞していた。仲間に甘いところのある人だったが、育成に力を入れていた。上位に食い込むだろうトレーナーの情報を集めて研究したりもしていた。
(二年前に手紙が来た時は、特に変わりない風だったのに。なにがあったんだろう?)
 思いがけない反応にカンジュを注意深く伺うと、彼の目が焦点を失った。表情もぼんやりとしたものになる。隣りで大人しく佇んでいたマヒルがカンジュの手を握る。

「……カンちゃん?」
「……ああ、そっか。ごめん、レッドも旅に出たんだから、そりゃあ仲間ができるよな。つい昔の感覚でいたから……ここへ一人で来るのに、ポケモンを持たずになんか来れないのにな。子供扱いしてごめん」
 眉尻を下げて苦笑したのもつかの間で、標準より背丈のあるリザードンを見つめ、にかっと歯を見せた。
「大きなリザードンだな〜! 体躯は立派で、顔つきも鋭くって格好いい。尻尾の炎もよく燃え盛って、健康そうだ。頼もしいな〜」
「うん」
 素直な賞賛は悪い気などしない。幼い頃に追いかけていた兄貴分に褒められてにやけそうになる顔を伏せ、リザードンに体を預ける。リザードンはもそもそと身じろぎ、レッドの足に器用に尻尾を巻きつけ、覆いかぶさるように肩へ顎を置く。ぴたりとくっついた場所から人より高い温度が伝わり、じんわりと体温が戻って来る。

(……二年の間になにがあったの、って聞いていいのかな……カンちゃん、話してくれるかな……)
 大人は、レッドに隠し事をする。母親も、カンジュも。偶然カンジュの隠し事を知った時、大人になったら話すつもりだった、と言われたのを覚えている。本当の兄だと思っていたのに、従兄弟だったと偶然知ってしまった時だ。あれから随分年月が経ち、レッドは旅にでて成長したが、自分が大人かと言われると疑問だった。
 それにカンジュのさっきの態度を鑑(かんが)みれば、カンジュが自分をまだ子供として見ているのだと分かる。誤魔化せると思われれば、きっとはぐらかされるだろうと予想が付いた。

(どう聞いたら、知りたいことを知れるんだろう? あ、やば、鼻がむずむずする)
「は、っぶしゅ!」
「ああ、やっぱ寒いよなあ。長袖の上着は?」
 頭を振って持ってないと否定する。と、カンジュは己の首元にきっちり巻きつけていたストールを解いた。広げるとストールは大きく、それをレッドの肩へショールのように被せてきた。リザードンはその動きを察して身を離し、巻かれるのをまってからまた身を寄せた。

「これで少しはマシだろ」
 言いながら自分はショートコートの、ボア付きフードを被る。
「俺のことは気にしなくて大丈夫だからね」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
 いくらフードを被っても首元は寒そうだ。が、レッドも寒さには勝てなかった。たった一枚、されど一枚。覆うものが無いのとあるのでは、寒さが違った。
「もう下山した方がいいんじゃないか」
「カンちゃんは?」
「俺は降りれない。修行中だから」
「そうなの?」
「うん。ポケモンだけでなく俺の修行でもあるからさ、下りちゃ駄目なんだよ」
「ふうん……」
 修行と言われて思い出す。昔からカンジュは神社へ修行へ行っていた。だから修行ならこんな山に篭っていても……。
(いや、おかしいよね?)
 なんで山篭り、しかも許可がないと入れない場所で。下で会った警備員は上ったことがあるようだったが、それは所属がリーグだからだ。祠の掃除をしているくらいだし、山を見回りしてるんじゃないかと想像が付く。そもそも、無断侵入を許さないなら見回りは必要なことだ。

「……カンちゃんは、リーグに就職したの?」
「へっ? いや、まさか。なんで?」
「ここへ入るのに許可が必要みたいだったから」
「ああ……俺はオカガミ神社の方だよ」
「オカガミ神社?」
「あれ、知らないんだっけ?」
 聞いた事のない名前に頷くと簡単に教えてくれた。
「オカガミ神社はセキエイ高原にある神社だよ」
「見たこと無い」
「うん、開(ひら)かれてないから。って、わからないか?」
「う、うん」
 開かれてないの意味が分からずきょとんとしたレッドに、カンジュは「限られた人しか入れない神社、ってこと」と補足した。
「そうなんだ」
「うん。で、そこで奉職(ほうしょく)している一人と友達だから立ち入り許可貰ったんだ」
「ホウショク……? 許可……?」
「あー、奉職ってのは、お勤め……神社で働いてるってこと。許可取れたのは、シロガネ山は神社とリーグの共同管理だからだよ」
「リーグだけじゃなく、神社も?」
「そう。ここは昔からご神体として……ええと、神様が宿る場所だって言われて、人々の信仰の対象になってた。だから麓に、神様の体に近いところに神社が建てられてる。でも山は神様の体とされているから、むやみやたらと入っちゃダメってことになってんの。リーグやオカガミ神社の許可無しに入った場合、何が起きても知らないぞーってこと」
「……許可なく入った場合は?」
「さて、その人の運次第だな。なんにも起こらないかもしれない。でもひとたび何か起こった時、許可を取っていれば神社の人が助けるために動いてくれるんだよ」
「神社の人が?」
「うん。オカガミ神社の神職……神主(かんぬし)さんたちはほとんどがポケモントレーナーで、山にも詳しいんだよ。救助もお手の物だし、救助隊を案内することもできる。だからいざって時に頼もしいんだ」
「そうなんだ。今は穴抜けの紐があるから救助してもらうなんて、あんまりなさそうだけど」
「まあなあ、昔よりは減ったみたいだな」
「ふう……っぶしゅ!」
「あああ、もう。ほらほら、早く下山しなさい。だいたい半袖でここまで来るなんて、無茶だって。ハナコ母さんが知ったら心配するぞ?」
「ううう……」
 カンジュ経由でレッドの無茶が母親にバレたことはそれなりにある。今回は理由が理由なだけに母親も強くは言わないだろうが、お小言の一つは覚悟しなければいけないだろう。旅の間は、告げ口をする人なんて居なかったので、すっかり失念していた。