ブログを見て近況をなんとなく知ってる友人が、なんとなくそろそろ結婚するのでは?と思う。なんとなく。
以前も似たような事をここで書いたけど友人の一人暮らし・結婚・出産・昇進…その他もろもろの人生のめでたい動き、手放しでめでたい。
友人に対して負の感情は全くといって芽生えない。ただただよかったね、おめでとう、と思う。これが友情というものか。
そして、それとは全く違うところで(友人に向けての感情ではないもの)大きく愕然としている自分がいる。
私には、成功体験というものがない。
正確にいえば、自分自身で遣り遂げたぞ!って喜びを感じた事がない。
唯一あるのかもしれないのは小学校受験の合格かもしれないけど、あれは親がやらせて親が勝手に喜ぶものだから私の成功体験ではない。
まあ卒業制作の学部長賞は嬉しかったけどほんの数名の中から教授との関係込みで選ぶだけだから何かに繋がったわけではない。
あ、あと、ずっと創作に私を呼んでくれなかった友人が私を(カメラで)呼んでくれた時も嬉しかったけど、撮れたものが私の力不足で納得出来なかった。
やばいよ思いついても社会人以降のものは思い付きもしない。
成功体験がない、というのは恐ろしいものだなーと思う。
何故なら自尊心が育たないから。
家で褒められて育てば成功体験などなくても自尊心は生まれるだろうけど、私はそもそも絶対に褒められず、98点取れば何故100点取らなかったか怒られ、二重飛びが飛べれば周りはもっと早く出来のにって呆れられ、容姿をよく言われたって言ったらお世辞でしょ、と切り捨てられてきた。
そんなわけで、全く自尊心のないまま大人になってしまった。
物を作るのが好きな私(写真作品とか小説とか)なので、承認欲求があれば、だれかに感想やいいねをもらって自尊心は生まれたかもしれない。
ただ、悲しいことに承認欲求がまったくなかった。なんなら自尊心よりないかもしれない。
最近承認欲求で小説を書いていたけど感想がもらえないので筆を折ったラノベ作家の記事や、作家が感想をくれないと読者にネガティブな事を言ってくる事に辟易した人の記事を読んだ。
それに私はめちゃくちゃ驚いた。
え、小説や文章って感想欲しくて書いてる人いるの!!??と。
いや、お金をもらって書く記事や、二次創作なら、まあ元ネタがわかる同志にどんな感想をもたれたかとかが、気になるのはわかるけど、一次創作でそんな事あるのか…と。
私も私の周りにも、文章は自分の中のものを発散だったり、形にしたくて書いてる人ばかりだったから、そういう価値観が衝撃だった。
コスに置き換えてみたらなんとなく理解出来たけど。レイヤーはいいね欲しさにしてる人たまに見るし。(レイヤーっていうかレイヤー人種ではなくモデルやグラビア寄りやコスしたら急にちやほやされておかしくなってしまった一部の人)
私自身はというと、SNSに誰かの反応欲しさに何かを投稿した事がないので、そういう承認欲求が強い人を哀れと思う…と同時に羨ましくも思う。
その人達は『誰かに承認される嬉しさ』を感じることが出来る感覚を持っているんだ。
例えば私なんかはSNSに何かいいね、って言ってもらえる投稿をしたとしても、その投稿を自分自身が気に入ってるか気に入ってないかが絶対で、他者の評価は自分の自尊心には繋がらないのだ。悲しいことに。
話を戻す。
やはり、自分自身の自尊心を高めるためにはある程度の承認欲求とか成功体験が必要なんだろうな〜〜と自己を分析して思う。
誰かに恋して告白が実る、とか、頑張ったぞと思う仕事が上司や世間に認められる、とか。
そういう事を、たった一度でいいから経験してみたかった。
まだ可能性はあるだろうか、もう無理だろうか。
ここ数年、周りの人達の大きな人生の動きに立ち合うことが増えるにつれて、やたら自分を省みて悔いる事が多くなった。
例えば恋愛。
若ければブスの七難隠しても、誰かと心を通わせられる可能性がある(と思う)。
残念ながら、@遊びや交友関係が充実していた(休日が忙しかった)A恋愛に興味がなかったB単純に自分に魅力がなかった、以上三つの理由とともに、自分に積極性が0だったので、何かに結び付く事が若いうちに出来なかった。
振り返ればあと一歩の勇気や冒険心でもう少し色んな経験や交友を広める事が出来たんじゃないだろうか。
若さゆえの火遊び、みたいなものに憧れつつ、体重も増加の一途を辿り、今手のひらから20代がこぼれ落ちていっている。
例えば仕事。
今やってみたい!という仕事が思いついても時すでに遅し。
新卒という立場ではとっくの昔になくなり、やってみたい仕事を未経験でやりたい!と言った所でなれるわけはない。
勉強したい事があってももう30だ。
何故人は18や21くらいで自分の将来を決めなくちゃいけないんだろう。
将来これで生きたい!って仕事のために、物事を起こさねばならない年齢が、人生の長さに比べて、なんて若いのだろうか。
そこでやりたいものが思いつかなければ目標もなくなんとなくで生きていくしかない。
今私が10代に戻れるのなら、進学先に職につながる専門学校を視野に入れるし、学生に戻れるのなら一人暮らし必至の職を選ぶ。
何故それが出来なかったか。
まず10代。家からはとにかく高学歴の大学に行けという選択肢しか教わらなかったし、私自身はとにかく学生になりたい!という気持ちが強くてそれしかなかった。
学生になってもなりたいものはいくつかあった。
ひとつは才能が足りなく、ひとつは情熱が足りなく、ひとつはなりたいのにスタート地点に立てず勇気もないままずるずる未練がましく思っていたせいで諦めがついた時には25になっていた。
結果、その未練がましさは、私の自立できる職へのチャンスを自分で潰すこととなった。
そしてそれに気付くのに更に五年も費やした。
人生における30までに全てがだいたい決まってしまうこの仕組みは辛すぎやしないか。
専門職に憧れ続けただけの私は現在何者でもない。
だって体も動けるしまだまだもっとなにか出来るのに。
省みても、省みても、30まであと数ヶ月の私には無念と後悔ばかり。
時がすごいスピードで大きな音を立てながら、私の身体をすり抜けてゆく。
ここまで書いておいて全てを否定するわけじゃないけど、別に恋愛や仕事が充実してる事だけが人生の全てではないと思う。
選択してそれらを求めない人も沢山いる。
生きてて嬉しいとか楽しいとか感じる事は他の事でも出来る。
ただ、
私自身はそれらを経験してみたかったし、それゆえに『その恋愛や仕事の喜びを知らない』事に憂いを覚えてしまった。
一度生まれた憂いが拭えない、そういう話。
今はまだ思考を一次停止してていいかもしれない。
でも、
祖母(あと数日で101歳)が死んだら家に住んでいられなくなるかもしれない、母も足を完全にだめにして今ほぼやってる家事に加え家のなかで母の介護的なこともしなくてはいけなくなってきた。
時間がない。
逃げるなら、どこか一人暮らししたいと思うなら、もうほんとうに今しかないし、後戻り出来なくなってからでは遅い。
それでもやはりこの何者でもない自分は動く気力がどんどんなくなっているし、焦りはじめた頃にはコロナで身動き取れず。
嗚呼、虚無ばかりが募る。
タイトルはもちろん(c)久米正雄だけどまだどこまでも…どこまでも…な、あの境地までいってはないのに友人知人は心配しないでね。
最後にちょっと冒頭の話に戻るけど、複数の友人からめでたい報告がもらえること、報告する人を思い浮べた時に私を浮かべてもらえてる事、それは本当に嬉しいなって改めて思う。