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吉田郡山城

【南東尾根】
旧城(本丸、二の丸、三の丸)、堀切有り。標高200m山腹。

【山頂】
本丸、天守台有り(石垣造、敷地13間×6間、輝元の代に三層に改築)
姫の丸、本丸の西隅、「百万一心」の伝承有り。
二の丸、本丸の下、南。石垣造。
三の丸、二の丸から東尾根に展開。
釣井の壇、二の丸から西尾根に張り出し、井戸があるための名称。
      
【三の丸北尾根】
釜屋の壇、羽子の丸
南尾根→御蔵屋敷の壇(三つの曲輪に分かれる)、壇の西に満願寺
東尾根→厩の壇(馬場三壇)

【西尾根】
一位の壇(三の丸下より西尾根一帯に展開)、壇の山麓に常榮寺。
櫓の壇(一位の壇東、吉田山中腹、10間×15間)

【山腹】
尾崎丸(満願寺南、旧城より西へ登る)

【山麓】
惣構の濠
浅野陣屋(南麓、陣屋西に御里御殿)
貴船神社(北東裏手の山が旧城にあたる)

下書き



通常、土佐から安芸へ向かうのは、土佐から出航して、一路海上を行くのが最も手早かった。
しかし、今回、元親はいったん伊予へ出て、瀬戸海でもっとも神聖なる島とされている大三島、そして厳島へ参拝してから、安芸へ向かうことにした。
いかな理由があったとしても、神の島を数度にわたって戦場としたことで、長宗我部氏は瀬戸内海での信望を傷つけている。

今も昔も、海上という特殊な場所で生きる者たちにとって、信仰とは命そのものであるといってよかった。
無数の島嶼を擁する瀬戸内海において、その信仰を尊ぶことは、為政者に要求されるひとつの才覚でもあった。



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長編で削った部分です。
寺社との結びつきも、この時代の情勢を伝える大切な要素になるかと思ったのですが、肝心のシーンに到達するまでに長くなりそうなので、割愛。
いずれ、長編の後序もしくは短編として上げるかもしれません。

この時代の戦国武将の例に漏れず、元親も多くの寺社を修復、再興しています。
土佐国分寺など、こぢんまりとした品のよい佇まいがいいですよねv


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