「藤って眼悪いの?」


昼休み、先程の授業で黒板に書かれていた内容をノートに写す私を隣で眺めながら彼女は言った。


「何でですか?」

「顔」


物凄い眼で黒板睨んでるから。眉間に皺寄ってるし。
そう指摘され、あちゃあ、と照れ隠しに自分の眉間をぐりぐりと揉みほぐす。


「そんなにやばい顔してました?」

「なんか機嫌でも悪いのかなーって勘違いしそうになる位には」

「うわマジですか」

「マジです」


ていうか普段から眉間に皺よく寄せるよね。

何故かにひひと変な笑い声を発する彼女。
見た目は可愛いのに少し残念な人だ。


「たまに同期の子からも同じこと言われるんですけどね」


その度に気を付けようとは思うのだが、中々意識し続けるのは難しい。


「先輩は眼良いんでしたっけ?」

「めっちゃ良いよー、藤が今日どんな下着付けてるかはっきり見える位には」

「見えすぎ見えすぎ」


それは一般的な視力の良さとはまた別物だとは思う(というか本当に見えてそうで恐ろしい)が、視力が良いのは素直に良いことだと思う。


「眼鏡とかコンタクトとかしないの?」

「あー、家では眼鏡掛けてますよ」


「え、じゃあ大学でも掛けたらいいじゃん」

「いやーあんまり眼鏡似合わないので」

「見たい見たい見たい!」

「いやいや似合わないって言ってるのに食いつかないでくださいよ」


そう言われたら見たくなるじゃん!と間髪置かずに彼女は力強く返してきた。
何故そこまで食いつくのか。


「だって藤のレアな眼鏡姿と恥ずかしがってる姿とセットで見れるじゃん?最高じゃん?」

「あ、絶対持ってきませんから安心して下さいね」

「意地悪!このドS!」

「そっくり返しますー」


やーだー見るのー、と子供のように駄々をこねる彼女。
極々たまに年上のお姉さんらしく振舞うこともあるにはあるが、普段の彼女は9割方こんなものだ。


「あれ?でも初めて会った時辺りに眼鏡掛けてたことがあったような…?」

「…ありましたっけ?」

「あった、うんあったよ!そうだ初めて会った時に眼鏡掛けてた!あー何で忘れてたんだろ」


話の流れからすっかり記憶に無いものと思っていたが、性質の悪いことに思い出したらしい。
そのまま忘れてくれていた方が都合が良かったのだが。


「思い出す限り、似合ってたと思うけどなー。気にする必要ないじゃん」

「んー、下手に普段持ち歩かないものを持ってると無くしちゃいそうで嫌なんですよ」

「じゃあ私が毎日持ってきてあ」

「訳わかんないですし、先輩に持たせる方が心配です」

「やだー私の信用低す」

「低いっていうか無いです」

「ねぇちょっとさっきから全然容赦ないんだけど!?」

「普段の言動によるものなので自業自得です」

「…最初の頃はもっと優しくて素直だったのに…」


突然叫び出したかと思えばどんよりと落ち込みながらお弁当をつつく彼女。忙しい人だ。
私もノートを写し終えたので、鞄からパンを水筒を取り出す。


「でもさ、不便じゃないの?ていうかそれならコンタクトにすれば良くない?」

「…眼にモノを突っ込むなんて正気の沙汰とは思えないんですよね」

「…それだいぶ偏見だって」


藤って結構子供っぽいところあるよね、と彼女がため息を吐いた。
お弁当のおかずが唐揚げに激甘の卵焼きにウィンナーにプチトマトという小学生が遠足に持参する定番 ラインナップ中毒の彼女にだけは言われたくない。
自分で毎日用意しているだけ立派なのだが。


「何だかんだ眼鏡無しで慣れちゃいましたし」

「いや黒板にガン付けてる時点でどうかと思うけど」

「慣れちゃいましたし」

「藤をそこまで頑なにさせているものって…」

「先輩にだけは言いたくないですね」

「藤本当はわたしのこと嫌いなのかな!?」


その真逆だから言いたくないのだ、なんてことは死んでも言えない。

貴女の顔がまともに見えてしまうと冷静ではいられなくなるのだ。

…なんて恥ずかしいにも程がある。


――私が大学に眼鏡を掛けていったのはたったの一度だけだ。

入学式の日。新入生ならば誰もが必ず通る道ではあるのだろうが、構内のそこかしこにサークル勧誘を する先輩達が溢れ返っていた。

元々サークル活動には興味が無かったので、ハゲ鷹を彷彿とさせるような眼で狙いを定めてくる猛獣達に捕食されないよう、人気の無い廊下を選んで一人歩き回っていた。
そして、まあ恥ずかしい話、見事に構内で迷ってしまった。

この歳になってまさか大学の構内で迷子になるなんて…、とだだっ広い構内にうんざりしつつ、特にやることもないのでいっそこのままふらふらと散策しようか。

そう思った矢先、ちゃりん、とちょくちょく耳にしたことのある金属音が廊下に響いた。


「お、っとと」


その音と声の先をふと見やると、自動販売機の前で一人の女性がしゃがみ込んでいた。
先程の音は、どうやら予想通り小銭を落としたものだったらしい。
見れば両手が数本の缶やペットボトルで埋まっている。それは確かに落とすだろう。

小銭を拾い上げた女性は私の無遠慮な視線に気づき、一瞬固まった後に「へへへ」と恥ずかしそうに笑いかけてきた。

初対面の、自分の恥ずかしい姿を無遠慮に眺めて手も貸さずにいた相手に対してこんな風に笑えるのか。

彼女の屈託の無い笑顔を見たら、失礼なことをしたなという申し訳なさも手伝い、少し視線を外して「…はは」と笑い返した。

恥ずかしいところを見られたのは彼女だというのに、何故か突然顔を見ることが出来なくなった。


廊下初対面の人間が二人きりで恥ずかし気に微笑み合っている、という奇妙な光景は、彼女の「新入生の方ですか?」の一言で終わりを迎えた。

私がそうですと返すと、「何故こんな所に一人でいるのか」と気さくに話し掛けてきた。

サークル勧誘の猛威が嫌で人気の無いところに逃げてきたこと。
気づいたらすっかり迷子になってしまったこと。

やはり顔をまともに見れないままそう白状すると、彼女も「あー…」と合点がいったようだった。

うちの大学の勧誘は新入生に容赦ないからねー、私の時も散々追い掛け回されたしなあ。

どこか遠い眼をしながら彼女がしみじみと答える。


この人もどこかのサークルに入っているのだろうか。
気になったので訊いてみると、『大人のお遊戯サークル』に所属していると言う。なんだそのいかがわしい団体名は。

彼女も新入生だった頃、同じくハゲ鷹達の勧誘にうんざりした一人だったらしい。
ならばいっそ自分でサークルを立ち上げてしまえ、と出来上がったのが『大人のお遊戯サークル』。

活動内容はあって無いようなもので、放課後に適当な空き教室を溜まり場にしては各々自由に自分の世界に没頭したり、手が空いている人達でトランプや花札をして遊ぶのだという。

好きな時に来て良いし帰って良い。入退会も必要です無し。ゲームに飽きたらだらだらと世間話をするだけ。適当すぎる。

ちなみに大学のサークルとしては非公式と(勝手に)銘打っているらしい。そりゃあそうだ。名前の時点でもろアウトだし。


この飲み物はさっきトランプで負けたから罰ゲームで買いに来たんだ、あはは。

苦笑する顔もまた。…また?またとは何だ。

何だか落ち着かなくて眼鏡を外してレンズを拭いていると、「良かったら来てみる?他の皆も同じような理由で集まってるし結構気楽だよ」、と彼女からそう申し出てくれた。

このまま別れちゃうのも何か寂しいし、ついでにジュース運ぶの手伝ってくれると嬉しいな。そうそうキミ名前は何て言うの?

そう朗らかに笑いながら。


当時は突如湧き上がった慣れない感覚に戸惑うばかりだったが、今思えば、初対面でほだされてしまったのだなと自分のちょろさに溜息が出る。

結局その申し出のままにサークルにお邪魔したのだが、案の定というか、そのままずるずると居座り続け、今では立派にレギュラー扱いである。これで良いのか、私のキャンパスライフ。


初めて彼女に会った翌日から、大学に眼鏡を掛けずにただ持ち歩くようになった。
同じ講義を一緒に受講するようになってからは、眼鏡を持っていくことも止めた。

彼女の顔がはっきりと見れないことに苦しさも感じるが、それ以上に顔を見ながら話が出来ないのはどうかと思った。

それに、彼女にも良からぬ誤解を与えてしまいそうで怖かったのだ。

まあ、裸眼でもあまり彼女の顔を見れないのだが。

自分の不器用さにほとほと嫌気がさす。


でもさ、と彼女が不満そうに頬を膨らませる。


「なんかさ、勿体ない気がしちゃうんだよね」

「勿体ない、ですか?」

「そそ。藤って外見に似合わず子供っぽいし私にだけはドSになるけど、物がよく見えないと目付きも悪くなるし。
見た目だけで藤が怖がられちゃうのは勿体ないなーって」


しつこく眼鏡やらコンタクトを推してきたのには彼女なりにまともな理由があったのか。


「…なんか失礼なこと考えてない?」

「しつこく眼鏡やらコンタクトを推してきたのには先輩なりにまともな理由があったんだなあ、と」

「なんか今日いつにも増してドSに磨きがかかってない?」

「いえいえそんなこと!珍しく真面目に私のことを考えていてくれてありがとうございます!」

「ほんと失礼!藤わたしに対してド失礼!」


いつも彼女の反応が面白くてついついからかってしまうのだが、流石に今日はやりすぎたか。 そろそろ謝ろう。


「…ま、わたしが藤のことちゃんと分かっていられればそれで良いんだけどさ」


そう思い口を開きかけた瞬間、少し拗ねた口調で何やら意味深なことを言い出した。


「…どういう意味ですか?」

「どういう…って、そのままの意味だけど」

「そのまま、っていや分かんないですって」

「えぇ?だから、他の人達に藤が誤解されちゃうのは悲しいけど、わたしは藤の優しいところも意外と分かりやすいところも不器用なところもちゃんと分かってるからいいやー、って」

「…は、え?」

「…うーん、藤って大人っぽく見えるけど、こういうのは本当に慣れてないんだねえ」


何故か感心したように呟く彼女。しかし私は今それどころではない。
いやだって、まさか、それではまるで今までの私の苦労が全部。


「…あー、うん、ごめん何となく察してた」


私の表情から心を読んだか、少し申し訳なさそうに白状した言葉に思わず両手で顔を覆ってしまう。
顔が熱い。頭はガンガン血流が駆け回るし心臓は今にでも破裂してしまいそうだ。

え。なにこれすんごい恥ずかしい。

今にも蒸発してしまいそうな私を見て彼女が慌て出す。


「藤、藤ってば!ああごめんいきなりこんな所でごめん!」

「…もういっそ今ここで楽にしてください…」

「ごめ、っていやいやちょっと話聞いて!?勝手に一人で終わりにしちゃわないでお願いだから!?
わたしも藤が多分わたしに抱いてくれてる気持ちと同じだから!?」

「…はい?」


予想だにしていなかった言葉に、手で覆っていた顔を思わず彼女にまっすぐ向けてしまう。

いくら視力が悪いとはいえ、隣に座っている彼女の顔ははっきりと眼に映る。…心臓に悪い。

なんだか、久々に彼女と顔をまともに合わせたような気がする。
その顔が、心なしか薄く赤に染まっているように見えるのは私の気のせいだろうか。


「……」

「……」

「…えーっと」

「……」

「…あのね?」

「……」

「藤が色んなこと考えたり悩んだりしてくれているのはちゃんと分かってるつもりだし、わたしが分かってればそれはそれで良いんだけど。
…ただ、ただね?」

「……」

「…顔、藤にはちゃんと見てて欲しいなあ…、なんて」

「……」


ああ、なんだ。

彼女だって、こういうのに慣れてなんかいないじゃないか。


「…藤?」


黙り込んでいる私に不安を覚えたのか、それが滲んだ声で私を呼ぶ。

いつも飄々としているだけに、不安そうな顔を見せてくれる彼女が少し新鮮で。


こういう場合は何て返すのが正解なのだろう。

とりあえず、彼女への返答は。…返答は。


「…明日からちゃんと眼鏡掛けますね」


――不器用同士。これから先が思いやられそうだ。