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しかし、ここで、どうしてもみんなが理解できないことがあった。
下半身がズブズブと沈んでいき、とうてい落ちた穴には手が届かないのに、どうして家族が帰ってきたとき、厠の外で泣いていたかということである。
お爺ちゃんをはじめ、みんなは訳の分からない、辻褄の合わない話に困惑していた。
Yちゃんは、ここぞとばかりにさらに息をひそめ、話のクライマックスをポ
ツリポツリとしゃべりはじめた。
小学校低学年にして、なんという演技力だろうか…。
「もう、だめかなと思った…。手は届かないし、もがけばもがくほど足元がグジュグジュと地割れみたいに柔らかくなって、体が沈んでいくんだから」
「そうは言うけど、おまえは厠の外にいたんだよ…」
お爺ちゃんは、不思議そうな顔をしながらいきなり核心に触れた。
家族は全員、ズリッと畳の上の膝を進めた。
「うん、僕も、もう出られないと思った…。
ひょっとして、このまま少しづつ沈んでいって、頭まで沈んで、厠で死ぬのかなぁと思った。そんなの絶対に嫌だと思って必死で叫んでいたんだ。…するとね、その時ね、真っ暗な穴の中がフワーッと明るくなったんだ」
Yちゃんは家族の顔をひとりづつ順番に観察しながら、反応を確かめるようにしゃべっている。
「それでね、何かなと思ったんだ。太陽が射しこんだのか、誰かが帰ってきて懐中電灯で照らしてくれたのかなと思ったんだけど…。そうじゃなかったんだ…」
「それ、何だったの!」と母親が言葉をはさむのを「しっ!!」と、お爺ちゃんはきつく制した。
「僕の背中の方からボンヤリと光っているようなので、そっと振り返ってみたんだ。そしたらね…、信じないと思うけど、ホントなんだ…。白い…白い着物を着た人がいたんだよ。その白い着物がボーッと光ってたんだ。その人の顔も、体全体が中からボーッと光ってたんだ…」
「それでね、その白い着物の人が僕にスゥーッと近づいてきてね、手を伸ばしたんだよ。そうしたらね、僕の体がね、だれも触ってないのにフワーと上へ浮かんでいったんだ…、ほんとに浮いたんだ。それで、落ちた穴からスポッと抜けて、厠の床に降ろしてくれたんだよ」
一気に話し終えたYちゃんは、息を切らしたかのようにハアハアと口で呼吸をしていた。
お爺ちゃんも、お母ちゃんも…家族のだれもが、不思議なYちゃんの話に言葉を返せないでいた。
厠の床に降ろされたときには、もう白く光る着物の人は消えていたという。
Yちゃんは、すぐに恐ろしい厠から逃げ出し、外でみんなが帰ってくるのを泣きながら待っていたというのだ。
子供の作り話にしては、話の細部がはっきりとしていたし、矛盾もない。
まあ、話自体があり得ないようなことなのだが…。
お爺ちゃんは、やがて破顔し慈悲に満ちた笑顔を見せながら、Yちゃんの頭をなでながら言った。
「…そうかぁ、よかったなぁ、助けてもろぉて。おまえを助けてくれたんはなぁ、守護霊様といってな、おまえをずぅーっと守ってくれている人なんじゃ」
「ええか、忘れるなよ。おまえにはいつも守ってくれるご先祖様がついていてるんじゃ…」
お爺ちゃんの妙に説得力のある話に、その場にいた者はみんな、そして当のYちゃんも素直に納得し、何度も何度もうなづくのだった。
事の真相は、だれにも分からない。
幼い子供の言うことは、やはり大人には信じがたいことであった。
しかし、何かが起こって、Yちゃんが助かったことだけは確かなのである。
終わりです..長過ぎましたね。
しかもヒィー、ヒィーン…という奇妙な音は、その人物がたてる悲しげな泣き声だということが分かった。
「うっわー!!!」
先ほどよりも数十倍大きな叫び声をあげたが、声はむなしく無限とも思える暗闇に呑み込まれてしまうだけだった。
落ちた穴は頭上に長方形のかたちをつくっているが、下半身がズボッと埋まっているので手が届かない。
それはYちゃんにとって、厠の怪談なんか比べものにならないほど現実的な恐怖だった。
しかも、さらに恐ろしいことが起こっていた。
ズズッ、ズズッ…と、徐々に体が汚物の中に沈んでいってるのだ。
手の甲には、何やら蛆のようなものが這っているような気配さえする。
「だ、だれかー!お父さーん、お母さーん!!」
もしかして、このまま誰にも気づかれず、ここに埋もれて死んでしまうのだろうか…。
絶望的になりながらも、Yちゃんは落ちてきた長方形のかたちに向かって、大声でベソをかきながら助けを呼ぶしかなかった。
*
西の空を茜に染めあげ、遠くの山の彼方に大きなオレンジ色が没した。
田んぼの稲をおじぎさせながら渡ってきた風が、野良仕事をした顔に心地よくそよぐ。
汚れた手ぬぐいで顔を拭き、Kさん一家の長老であるお爺ちゃんはみんなに
声をかけた。
「おーい、もう今日はよかろう。早よう上がって家に帰ろう」
畑ではお爺ちゃんが一番えらい。
野良仕事のリーダーとして、すべてを仕切っているのだ。
その一声を待ちわびていたかのように、みんなは腰を伸ばし、思いきり背伸びをしたり、ずっと曲げていた腰をトントンと叩いたりして帰り仕度をはじめた。
うねうねとした畦道をお爺ちゃんを先頭に、みんなは一列になって歩く。
遠くに防風林に囲まれた我が家が見えてくる。
小学生のYちゃんを除いて全員が野良仕事に出ているので、家は黒いシルエットとなって夕闇に溶けこもうとしていた。
隣の家では夕餉の仕度なのか、かまどの煙がゆらゆらと立ち昇り、温かそうな白熱灯の光が窓から漏れている。
だんだんKさん一家が家に近づくにつれて、奇妙な音が風に乗って途切れ途切れに聞こえてきた。
それは、ヒィー…ヒィーン、ヒィー…という、甲高い笛のような音だった。
「ん?なんだ、あの妙な音は…」
先頭を歩いているお爺ちゃんは、音の正体を見透かすように家の暗闇に目を細めた。
遠目に、小さな人影らしきものが目に入った。
厠のそばに、どうやら人がいるようだ。
小柄なYちゃんは、厠の和式の方で両足を思いきり広げて踏んばっていた。
母屋とは切り離され、敷地の北東の角、つまり鬼門にあたるところにその厠は建っていた。