――#9 声を追って

 氷優の説明を聞いてから、レイはまた黙り込んでしまった。ここにはいない誰かに思いを馳せるような、そんな感じだ。
(まだ聞こえてるのね)
 いつも以上に酷い。それに時間が長い。これだけ呼び掛けられると言うことは、相手方も必死なのだろう。
 誰かに聞いてほしい。誰かに届けたい。椎葉には聞こえないけれど、レイの反応を見ている限りひたすらな想いが見え隠れしているようだ。
 椎葉の脳裏に一つの可能性が浮かぶ。レイに話しかけるその声の主は、ひょっとしたら地下にいるのではないだろうかと。
(下手に動き回れないなら、今行ける場所を確かめる手もあるわ)
「ねえ、そこには行けないの?」
 思い立ったら即行動。ここで動かずにいる、その時間が惜しい。おじさんにはこの部屋から出るなと言われてしまったけど、レイの弱り具合が気になるのだ。
 ここに着いた時よりも疲労がはっきりとしている。レイは大丈夫だろうか。
「それは逃げてきたところにまたのうのうと舞い戻るってことか。どんな間抜けだ」
 氷優に苛立ちをぶつけられ、椎葉はむっとする。態度を素っ気なくさせたのは椎葉のせいだが、それにしたってもう少し言い方があるだろう。
「違うわ。その地下は、ここから簡単に行けるのって話」
 しかしここで腹を立てていては話が進まない。椎葉の目的は一つだけなのだから。
「警備が少なければ」
「行くだけなら難しくはないぜ。階段下るかエレベーターで下まで降りりゃあいい。ただ今は……どうだろうな。氷優が騒いだおかげで行きにくくなったかもしれないけどな」
 氷優の後を引き継いで匠が教えてくれた。
「タク、止めろ」
 匠に何度も背中を叩かれ、氷優は迷惑そうだ。
「じゃあ、行けないことはないんでしょ?」
 結論。
 椎葉はレイにちらりと視線を送る。その意図に気づいたのか、レイははっとした。
「匠さん! 俺、そこに行ってみたいんだ。駄目かな……」
 弱気になるのがいかにもレイらしい。おじさんとの約束を破ってしまったことが堪えているようだ。
「つってもなあ……。アキちゃんから出るなって言われただろ? だったら無断で行かせるわけにはいかねえんだよ」
 こればかりはどうしようもないと、お手上げされる。けれど、レイがここで退くわけない。
「どうしても行きたいんだ。匠さん、お願いします」
「悪い、それは……」
 引き下がらないレイを援護しようと椎葉は口を挟もうとしたが、それよりも早く声が上がった。
「俺がつれていく。それで文句ないだろ?」
 目を見開くレイ。意外にも名乗り上げたのは氷優だった。
「ちょうど良い、あっちでアキに会うなら俺の用事も済む。――案内するよ」
 最後の一言はレイに向けてだ。それを聞いていた匠はがしがしと頭をかき、上を向いてあー、と唸った。
「……わかったよ。何の理由があるかは聞かねえが、アキちゃんに怒鳴られる覚悟があるなら行ってこい」
 仕方ねえなあとぼやく。
「匠……」
「匠さん、ありがとう」
「椎葉はオレと留守番な? ほら、礼はいいからとっとと行ってこい」
 一人でも行けるなら椎葉に異存はない。匠がレイと氷優を出口に向けて追いやり、三人の姿が椎葉の視界から一旦消える。
(レイ、頑張って)
 匠が彼らを見送って戻ってくるまで、椎葉は心の中で応援し続けた。

  **

 閉まる扉を背にし、レイヤは氷優と二人廊下に出る。周りに人は見当たらないのがまず一つの救いか。
 見渡す限りの人工物に目が疲れてきている。森の生活に慣れているレイヤにとって、この空間は居心地が悪い。しんと静まり返り、何の音も聞こえないことが不安を煽っているのだ。
 木の葉擦れも水の流れも聞こえない。風の一つもなく気味が悪い。
 息苦しさを追い払おうと、レイヤは深く息を吸って吐いた。
「辛いのか?」
 氷優に目ざとく見つけられる。真っ直ぐに見られ、ほんの少し返答に窮した。
「ううん、この場所に慣れてないだけだから。もう少しすれば大丈夫だと思う」
 だから心配ないよと言えば、顔をしかめられてしまった。そんなに頼りなく見えたのだろうか。
「こんなところ、慣れても良いことなんかない。慣れない方がいい」
 どうやら氷優の疑問はレイヤの思っていたことと違っていたらしい。
 ふいと顔を背けられる。その横顔が痛みを堪えているように見えた。
(何か、あったのかな)
「ついてこいよ。こっち」
 氷優は自分のペースでさっさと歩き出してしまう。
「待って、氷優!」
 角を曲がろうとした彼の腕を引いて小声で静かにと制止した。
「何か、声がしない?」
「声?」
 レイヤはうんと頷き二人で黙り込む。
 頭に響いていた声ではない。ちゃんと耳に聞こえてきた声だ。
 耳を済ます。もう一度聞きたい。それは酷く微かな、誰かの――
「――まずい。レイ、こっちに!」
 その声を聞き取るよりも先に氷優に引かれる。集中力が途切れてしまった。
「え。な、なに?」
 近くにあった扉を開けた氷優に半ば押し込められるように入れられ、レイヤは体勢を崩し尻餅を突いた。
「いたた……いきなり――」
 どうしたのと訊こうとして口をつぐむ。扉に耳を当てる氷優が焦っているように見えた。
(違う。何か、怖がってる?)
 自身を抱える氷優の腕が小刻みに震えている。
「悪い、こんな袋小路の場所に逃げなきゃよかった……」
 ちくしょうと吐き、氷優は扉から離れる。
「氷優?」
「あいつが……来る」
 弱々しく呟いたその一言の後、振り返る氷優と共に目にした扉が静かに開かれた。


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